第百九話 守護神・豪斎
「豪斎……」
「どうしたのじゃ」
笛吹き爺さんの声が低く響いた。
その名を聞いた瞬間――
「えっ!?」
豪太が目を見開いた。
巨大な猪を見る。
そして笛吹き爺さんを見る。
「あ あの爺ちゃん!」
「今 豪斎って言ったか!?」
「言ったぞ」
「豪斎って……」
豪太の顔から、いつもの豪快な笑みが消える。
「岩名家の守護神――豪斎様のことか!?」
周囲の生徒たちも驚く。
「守護神?」
晴真が聞き返す。
豪太は巨大な猪から目を離さない。
「ああ」
「岩名家に昔から伝わる大猪の守護神だ」
「内郷の山や森を守ってるって ガキの頃から聞かされてきた」
「俺の名前の豪の字は、豪斎様から頂いたものなんだ‥‥」
豪太は信じられないように首を振る。
「でも……」
「俺だって実際に姿を見るのは初めてだぞ」
晴真たちは巨大な猪――豪斎を見る。
岩のような巨体。
太く鋭い牙。
そして身体の周囲を漂う黒い霧のようなもの。
その黒い気配を見ながら、道満が口を開いた。
「あれって……」
「瘴気ですよね?」
笛吹き爺さんの表情が険しくなる。
「ああ」
「そうじゃ」
やはり――
豪斎の身体を覆っているものは瘴気。
それもかなり濃い。
笛吹き爺さんは豪斎を見つめた。
「どうしたのじゃ……豪斎」
「なぜお主ほどの者が……」
その時――
「わたし……」
小夜が一歩前へ出た。
「豪斎様の声を聞いてみます」
「小夜ちゃん?」
「森羅聴なら何があったのか分かるかもしれない」
小夜は目を閉じる。
意識を集中させる。
そして――
豪斎の心へ耳を澄ませた。
「…………」
最初に聞こえたのは――
苦しみ。
そして――
『憎い』
小夜の身体がびくりと震える。
『憎い』
『羨ましい』
『許せない』
『奪え』
『壊せ』
『憎い』
「……っ!」
次から次へと流れ込んでくる。
憎悪。
嫉妬。
怒り。
悲しみ。
恨み。
妬み。
絶望。
それは豪斎一人の感情とは思えなかった。
何十。
何百。
いや――
それ以上の負の感情が濁流のように押し寄せてくる。
『憎い』
『憎い』
『憎い』
『全部――壊せ』
「う……!」
小夜が頭を押さえた。
「小夜ちゃん!?」
晴真が駆け寄ろうとする。
その瞬間――
「やめるのじゃ!」
笛吹き爺さんの声が響いた。
小夜の意識が現実へ引き戻される。
「――っ!」
小夜は大きく息を吸った。
「はぁ……!」
「はぁ……!」
膝をつく。
晴真が慌てて支えた。
「小夜ちゃん!」
「大丈夫!?」
「う うん……」
小夜は震えながら頷く。
笛吹き爺さんが厳しい表情で小夜を見る。
「森羅聴を持つ娘よ」
「瘴気に侵された者の心へ深く入りすぎてはならぬ」
小夜は息を整えながら老人を見る。
「……はい」
「瘴気とはただ身体を蝕むものではない」
老人は豪斎を見る。
「心まで喰らう」
「お主のように他者の心へ触れられる者ほど 引きずり込まれやすい」
小夜は青ざめながらも頷いた。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はない」
老人の声が少し優しくなる。
「豪斎を助けようとしたのじゃろう」
「じゃが自分まで呑まれては 助けられるものも助けられぬ」
「……はい」
小夜は立ち上がる。
なんとか負の感情に飲み込まれずに済んだ。
しかしその表情には恐怖が残っていた。
「あれ……」
小夜が震える声で言う。
「豪斎様だけの感情じゃない」
「いろんな人の……」
「たくさんの負の感情が混ざってる」
道満の表情が険しくなる。
「瘴気そのものに含まれているのか……?」
その時――
「ブォォォォォォォォ!!」
豪斎が咆哮した。
ドンッ!!
地面が抉れる。
「来るぞ!」
迅が叫ぶ。
巨大な身体が晴真たちへ向かって突進してくる。
さらに――
豪斎を覆っていた瘴気が蠢いた。
ズルッ。
ズルルルッ――
黒い瘴気が何本もの触手のように伸びてくる。
「なんだあれ!?」
刀也が木刀へ手を掛ける。
「みんな!」
凛の声が響いた。
全員が振り向く。
凛の表情から普段の柔らかな雰囲気は消えていた。
巨大な豪斎。
瘴気。
森。
仲間たち。
そのすべてを見渡す。
そして――
迷わず指示を出した。
「紅葉さん!」
「美鈴さん!」
「小夜ちゃん!」
三人が凛を見る。
「結界を張って!」
「まず豪斎様の攻撃を凌ぎます!」
「分かった!」
「はい!」
小夜も薙刀を握り直して頷く。
「できる!」
凛はすぐ次を見る。
「隼人君!」
「忍びのみんなをお願い!」
隼人が目を細める。
「何をすればいい?」
「罠を用意してください!」
「豪斎様の動きを止められるものを!」
「了解」
隼人が即座に動く。
「迅!」
「綾女!」
「茜!」
「桔梗!」
「行くぞ!」
「おう!」
五人が森へ散る。
「刀也君!」
「太一君!」
「豪太君!」
「おう!」
三人が武器を構える。
「瘴気が触手みたいに伸びてきています!」
「結界に近づけないで!」
「防ぎながら切り落として!」
刀也が笑う。
「任せろ!」
太一も刀を抜く。
「分かった!」
豪太は槍を構えながら苦しそうに豪斎を見る。
「豪斎様……」
一瞬だけ迷う。
しかし――
ぎゅっと槍を握り直した。
「絶対 助けるからな!」
凛はさらに後方を見る。
「与一君!」
「分かってる」
与一はすでに弓を手にしていた。
「後ろから全員を援護する」
「お願いします!」
矢を番える。
その目は冷静だった。
凛は最後に二人を見る。
「晴真君!」
「道満君!」
「はい!」
「ああ!」
「封印術の準備を!」
「豪斎様を傷つけるんじゃなくて 瘴気を封じます!」
道満がすぐに意図を理解する。
「なるほど」
「豪斎そのものを倒す必要はない」
「瘴気を引き剥がして封じればいいんだな」
「うん!」
晴真も札を取り出す。
「やろう 道満君!」
「ああ」
そして凛は晴真の肩にいる小さな少女を見る。
「桜花ちゃん!」
「はい!」
「銀花さんに連絡して!」
「学園にもこのことを伝えてもらって!」
桜花が大きく頷く。
「分かりました!」
すぐに両手を合わせる。
「お姉様――!」
その様子を――
笛吹き爺さんは少し驚いたように見ていた。
ほんの数秒。
それだけで凛は全員へ役割を与えた。
誰が何を得意としているのか。
誰をどこへ配置すればよいのか。
何を目的に戦うべきなのか。
それを瞬時に判断している。
「ほう……」
笛吹き爺さんが小さく笑う。
「よく仲間を見ておる」
しかし――
感心している暇はない。
「ブォォォォォォォォ!!」
豪斎が突っ込んでくる。
ドドドドドドドドッ!!
大地が揺れる。
「来ます!」
紅葉が叫ぶ。
三人が同時に札を構えた。
「結界術!」
光の壁が展開する。
直後――
ドゴォォォォン!!
豪斎が激突した。
「くっ!」
「重い!」
「でも――!」
三人が踏ん張る。
結界はまだ破られていない。
その左右から――
シュルルルルッ!
瘴気の触手が伸びる。
「行くぞ!」
刀也が飛び出した。
「おう!」
太一。
豪太。
三人が同時に前へ出る。
刀也の木刀が閃く。
太一の剣が走る。
豪太の槍が唸る。
バシュッ!
バシュッ!
バシュンッ!
伸びてきた瘴気を次々と切り払う。
だが――
「刀也!」
与一の声。
「上だ!」
「っ!」
刀也が飛び退く。
直後――
ヒュン!
一本の矢が刀也の頭上を通り抜けた。
その先に迫っていた瘴気を貫く。
「助かった!」
「前だけ見るな!」
「分かってる!」
さらに森の中では――
隼人たちが動き始めていた。
「綾女 右」
「茜と桔梗は左」
「迅は俺と来い」
迅がにやりと笑う。
「今日は素直に従ってやるよ」
「最初からそうしろ」
忍びたちが一斉に散る。
そして後方――
晴真と道満は札を地面へ並べていた。
「晴真」
「うん」
「桜花封印術を基礎にする」
「でも豪斎様まで封印しないようにしないと」
「分かっている」
道満が豪斎を見据える。
「狙うのは――」
晴真も頷く。
「瘴気だけ」
二人の霊力が静かに高まっていく。
その姿を見ながら――
笛吹き爺さんは草を一本手に取った。
まだ誰にも正体を明かすことなく。
内郷を守ってきた古き存在は静かに豪斎を見つめる。
「待っておれ」
「今 助けてやるからの」
ヒュルル――
戦場となった草笛の丘に――
再び哀しい草笛の音が響いた。




