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第百八話 霊馬と笛の音


 老人が再び草笛を吹く。


ヒュルルル――


優しい音色が草原を流れていく。


すると周囲にいた野生の霊馬たちが、ますます老人のそばへ集まってきた。


「すごい……」


晴真は思わず呟く。


「どうしてあんなに懐いてるんだろう」


与一も不思議そうに見ていた。


「野生の霊馬は普通なら人間をあそこまで近づけないぞ」


「それどころか……」


小夜が老人をじっと見つめる。


「みんな あのお爺さんの言うことを聞いてるみたい」


「言うこと?」


晴真が振り向く。


小夜は小さく頷いた。


森羅聴。


生き物や自然の声を感じ取ることのできる、小夜の特別な力。


だからこそ分かる。


あの草笛には――何かがある。


「それに……」


小夜は首を傾げた。


「変なの」


「何が?」


「お爺さんの声……」


小夜はうまく言葉にできないようだった。


「人の声だけじゃないような……」


道満と凛が、その言葉に反応する。


二人も改めて老人を見る。


その時――


老人が草笛を吹くのをやめた。


「ほっほっほ」


「なかなか面白い耳を持った娘じゃな」


「えっ?」


小夜が目を丸くする。


かなり離れていた。


普通なら小夜の小さな呟きなど聞こえるはずがない。


老人は立ち上がると、ゆっくり晴真たちのところへ歩いてきた。


その周りを野生の霊馬たちまでついてくる。


「なんだ この爺ちゃん」


刀也が小声で言う。


「霊馬にめちゃくちゃ好かれてるぞ」


「爺ちゃんとはなんじゃ」


老人が言った。


「聞こえてる!?」


刀也が驚く。


老人は楽しそうに笑う。


「ほっほっほ」


そして晴真たちの霊馬を順番に眺めていった。


「どれも良い子じゃ」


最後に小桜を見る。


「特にお主はのぉ」


「キュイーン!」


小桜が嬉しそうに鳴く。


そして――


とことこと老人へ近づいた。


「小桜?」


老人が手を差し出す。


小桜はまったく警戒せず、その手へ頭を擦りつけた。


「ほっほ」


「久しいのぉ」


「キュイーン!」


晴真は首を傾げた。


「……久しい?」


「気のせいじゃ」


老人はしれっと答える。


「そうなの?」


「そうじゃ」


「キュイ!」


小桜が何か言いたそうに鳴く。


老人は小桜を見る。


そして――


口元へ人差し指を当てた。


「しーっ」


「キュ……」


小桜は口を閉じた。


晴真はますます首を傾げる。


「???」


その様子を見ていた道満は、老人をじっと観察していた。


凛も同じだった。


明らかに普通の老人ではない。


しかし――


老人は何事もなかったように皆を見渡す。


「お主ら」


「霊馬に乗るのは好きか?」


「もちろん!」


刀也が真っ先に答える。


与一も頷く。


「好きです」


「そうかそうか」


老人は笑う。


「では――」


一本の細長い草を摘み取った。


「霊馬と話してみるか?」


「え?」


全員が固まった。


晴真が聞き返す。


「霊馬と……話す?」


「そうじゃ」


老人は草を唇へ当てる。


「言葉を喋らせるわけではないぞ」


「自分の意思を伝えるのじゃ」


小夜が興味深そうに前へ出た。


「どうやって?」


「簡単じゃ」


老人は草を見せる。


「霊力を音に乗せる」


「音に?」


道満が反応した。


「そうじゃ」


老人は頷く。


「霊馬は人より霊力の揺らぎに敏感じゃ」


「言葉だけでは伝わらぬものも 霊力ならば伝わる」


「嬉しい」


「楽しい」


「止まれ」


「来い」


「一緒に行こう」


老人は優しく笑った。


「そういう意思を霊力に込めて 音へ乗せるのじゃ」


そして――


ヒュルル――


短く草笛を吹いた。


すると――


少し離れていた一頭の野生の霊馬が顔を上げる。


老人を見る。


次の瞬間――


パカッ。


パカッ。


ゆっくり歩いてきた。


老人の前まで来ると、その顔を老人の肩へ寄せる。


「うわぁ!」


晴真が目を輝かせた。


「やってみたい!」


「ほっほっほ」


「やってみるがよい」



最初は皆、苦戦した。


「鳴らねぇ!」


刀也の草から出たのは――


プスッ。


という情けない音だった。


「なんだ今の」


迅が笑う。


「うるせぇ!」


しかし迅も――


スカッ。


音すら出なかった。


「お主も鳴っておらんぞ」


老人が言う。


「……」


今度は刀也が大笑いする。


「だっせぇ!」


「黙れ!」


草原に笑い声が響いた。


一方――


道満は草笛そのものより、霊力の乗せ方を考えていた。


「音を術式の代わりにしているわけではない……」


「ただ霊力を運ぶ媒体として使っているのか」


「頭で考えすぎじゃ」


「……はい」


珍しく老人に即座に注意される。


凛も何度か試す。


ヒュル……。


まだ弱い。


しかし霊馬が耳を動かした。


「あっ!」


「今 反応しました!」


「うむ」


「今の感じじゃ」


そして小夜は――


ヒュルルル……。


柔らかな音を響かせた。


近くの霊馬がすぐに顔を上げる。


「来て」


小夜が心の中で呼びかける。


すると――


霊馬がゆっくり歩いてきた。


「できた……!」


小夜の顔がぱっと明るくなる。


「さすが小夜ちゃん!」


晴真が喜ぶ。


小夜も嬉しそうに霊馬の鼻先を撫でた。


「声が……さっきより分かる」


老人は目を細める。


「お主には元々その才があるからのぉ」


「え?」


「なんでもない」


そして晴真も挑戦する。


草を唇へ当てる。


霊力を込める。


伝えたいことは一つ。


――おいで。


ヒュルルル――


音が響いた。


月桜が顔を上げる。


そして晴真へ近づいてきた。


「月桜!」


晴真が笑う。


月桜が鼻先を晴真の頬へ押しつける。


「分かったの?」


ブルルッ。


「すごい!」


晴真は嬉しそうに月桜の首へ抱きついた。


「意思疎通できた!」


その声に皆も夢中になり始める。


「もう一回やろうぜ!」


「今度こそ!」


「霊力を強くしすぎない方がいいのかな?」


「たぶん気持ちをはっきりさせた方がいいよ」


草原のあちこちから、不格好な草笛の音が響き始めた。



そんな中――


小夜。


道満。


凛。


三人だけは老人を気にしていた。


「……ねえ」


凛が小声で言う。


「この方 いったい誰なんでしょう」


「分からない」


道満が答える。


「少なくとも ただの老人ではないな」


小夜も頷く。


「森羅聴でも……よく分からない」


「声を聞こうとすると 大地の音まで一緒に聞こえてくるの」


「大地?」


晴真も会話に加わった。


その瞬間だった。


老人が晴真を見る。


にやり。


「知りたいか?」


「え?」


「わしが何者か」


四人が老人を見る。


「それなら――」


老人は自分の目を指差した。


「龍姫と同じ瞳で 見てみるか?」


「――っ!」


晴真の表情が変わった。


凛。


道満。


小夜。


三人も息を呑む。


「どうして……」


凛が小さく呟く。


「龍姫様を知っているんですか?」


道満の目が鋭くなる。


「それだけじゃない」


「この人は晴真の眼のことまで知っている」


老人はただ楽しそうに笑っている。


「ほっほっほ」


晴真は少し迷った。


そして――


「……失礼します」


そっと目を閉じる。


意識を集中する。


再び目を開いた瞬間――


その瞳に金色の桜が咲く。


金桜眼。


晴真は老人を見る。


「――え?」


言葉を失った。


そこに――老人はいなかった。


見えたのは――


亀。


あまりにも巨大な亀だった。


山ではない。


大地ではない。


だがそう錯覚するほど巨大だった。


甲羅は長い年月を重ねた大地のように広がり、その上には木々すら生えているように見える。


四肢は巨岩のように太く。


ただそこに存在しているだけで、地面そのものと繋がっているようだった。


晴真は呆然と見上げる。


「お……大きい……」


「晴真君?」


凛が尋ねる。


晴真は老人と、その向こうに見える巨大な大亀を交互に見る。


以前話を聞いたことがある。


印旛大龍王に仕える眷属。


内郷の大地を守る大亀。


「まさか……」


老人がにやりと笑う。


そして――


人差し指を口元へ。


「しーっ」


「内緒じゃぞ」


晴真は目を見開いた。


「土浮――」


「しーっ!」


老人が慌てて止める。


晴真も慌てて自分の口を両手で塞いだ。


道満が額に手を当てる。


「……そういうことか」


凛も驚きながら老人を見る。


小夜は納得したように呟く。


「だから……大地の声が聞こえたんだ」


老人――笛吹き爺さんは楽しそうに笑った。


「ほっほっほ」


周囲を見る。


刀也たちはまだ霊馬との意思疎通に夢中だ。


「来い!」


プスッ。


「なんで来ねぇんだよ!」


「まず笛を鳴らせ!」


「迅だって鳴ってないだろ!」


誰一人こちらを見ていない。


老人は再び四人を見る。


「わしのことは内緒じゃ」


「今日はただの――」


草を一本持ち上げる。


「笛吹き爺さんじゃ」


晴真たちは顔を見合わせた。


そして小さく頷く。


「分かりました」


その時だった。


――ドォォォォン!!


「!?」


大地が揺れた。


鳥たちが一斉に森から飛び立つ。


「なんだ!?」


刀也たちも振り返る。


ドゴォン!


バキバキバキバキッ!!


森の奥から、とてつもない音が響く。


木々が揺れる。


いや――


違う。


「木が……倒れてる!」


凛が叫ぶ。


何かが。


こちらへ向かっている。


一直線に。


バキィッ!


ドゴォォン!!


巨大な木がへし折られる。


次の瞬間――


森を突き破り。


巨大な影が姿を現した。


「なっ……!」


豪太が目を見開く。


それは――巨大な猪だった。


普通の猪とは比べものにならない。


岩のような巨体。


太く鋭い牙。


地面を踏みしめるたびに土が跳ね上がる。


「でっけぇ……」


刀也が呟く。


だが――


晴真たち四人は、別のものを感じていた。


「これ……」


凛の表情が険しくなる。


道満もすぐに気づく。


「ああ」


巨大な猪の身体から――


黒く濁った気配が漏れている。


「瘴気……」


小夜が呟いた。


猪は苦しそうに頭を振る。


「ブォォォォォォォ!!」


咆哮が草原を震わせた。


野生の霊馬たちが一斉に逃げ出す。


「みんな!」


凛が叫ぶ。


「霊馬を下がらせて!」


生徒たちが動き出す。


そんな中――


ただ一人。


笛吹き爺さんだけは動かなかった。


先ほどまで浮かべていた飄々とした笑顔が消えている。


巨大な猪を見つめる。


その目にあったのは、驚きではない。


心配だった。


老人は一歩前へ出る。


そして――


静かにその名を呼んだ。


「――豪斎」


巨大な猪の耳が、ぴくりと動く。


笛吹き爺さんは眉をひそめた。


「豪斎……」


「どうしたのじゃ」

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