初めての外
転生から一年が過ぎた。
かつて戦場を蹂躙した最強の剣聖ギルフォードの面影は、今や鏡のどこを探しても見当たらない。
現在の私は、ローゼンブルク王国の名門エリスフォード家の愛娘、ギルティナだ。
歩くことはおろか、走ることさえも一歳児の肉体としては「異常」なレベルでこなせるようになった。もちろん、周囲に不気味がられない程度に加減はしているけれど、この瑞々しい肉体は動かしているだけで心地よい。
驚くべきは、肉体の変化に伴う精神の変容だった。
かつての荒々しい「俺」という自認は、この繊細な神経系に塗り潰されるようにして、すっかり影を潜めてしまった。今では自分のことを「私」と呼ぶことに何の違和感もない。肉体が精神を規定するというのは真理ね。言葉遣いも、思考の端々も、すっかりたおやかな少女のものへと変わっている。
「ギルティナ、今日は隣領のセレスティア家へ伺うわよ。あちらにも一歳の女の子がいらっしゃるの。仲良くできるかしら?」
母様の腕に抱かれ、私は「あー」と可憐に返事をした。
脳内では(貴族間の血縁と親睦、将来の派閥形成の第一歩ね)などと冷徹に分析しているのだが、こぼれるのは天使のような微笑みだ。
屋敷を出て、私は初めて外の空気に触れた。
その瞬間、私の肌を震わせたのは、圧倒的な密度のマナだった。
千年前とは比較にならないほど、大気中に魔力が溢れている。まるでスープの中に浸かっているかのような濃密な感覚。深呼吸をするだけで、体内の魔力回路が歓喜の声を上げ、細胞が活性化していくのが分かった。
(素晴らしいわ。これほどの魔力があれば、前世では不可能だった領域の剣技も、魔力との融合によって昇華できるかもしれない)
馬車に揺られる道中、窓の外では街道の警備兵が魔物と交戦していた。これが現代の「魔法戦闘」というものかと目を凝らしたが、すぐに私は落胆した。
(……何かしら、あの効率の悪さは。あんなに長い詠唱をして、漏れ出した魔力の半分以上が霧散している。術式の構成も甘いわ。あれではただの熱い玉よ)
現代の魔法は体系化されたがゆえに普通すぎる。
千年前、魔法がまだ未知の力だった頃、術者たちは己のイメージを極限まで研ぎ澄ませ、魔力を文字通り編み上げていた。今の魔法は、用意された術式に魔力を流し込んでいるだけ。魂がこもっていない。
(剣術だけでなく、魔法まで劣化しているなんて。この時代の『最強』の基準は、随分と低いようね)
期待外れの戦闘を見送りながら、馬車はセレスティア家の屋敷に到着した。
そこで待っていたのは、私と同じ銀髪の、けれど少し気の強そうな瞳をした赤ん坊――フィオナだった。
「あら、フィオナ。ギルティナちゃんよ。ご挨拶できるかしら?」
母親たちが優雅にお茶を楽しみながら談笑を始める中、私とフィオナはふかふかの絨毯の上に並べられた。
一歳児同士。まだまともな会話はできない。フィオナは私をじっと見つめ、何かを確認するように手を伸ばしてきた。
「だ、だぅ……」
「……あぅ」
(よろしくね、フィオナ。あなたがこの時代の平均的な才能なら、私の遊び相手には不足かもしれないけれど)
私が心の中で不遜な挨拶を交わした、その時だった。
突如として、大気が凍りついた。
溢れていたはずの魔力が一瞬で掻き消え、代わりに喉を焼くような強烈な圧迫感が押し寄せる。
談笑していた母親たちが、顔を真っ青にして窓の外を見上げた。
「……嘘、でしょう? なぜ、こんなところに!」
屋敷の庭の空が、巨大な影に覆われる。
雲を割り、日光を遮り、巨大な翼を広げて降臨したのは――伝説の生物、龍だった。
その金色の瞳が爛々と輝き、放たれる「龍圧」だけで庭の木々がなぎ倒され、噴水が蒸発する。
「きゃあああああ!」
「すぐに騎士団を! 結界を張りなさい!」
阿鼻叫喚の叫び声。母親たちは腰を抜かし、乳母たちはパニックに陥って赤子を置いて逃げ惑う。
幸か不幸か、その恐怖の波動に当てられた大人たちは次々と意識を失い、崩れ落ちていった。
今、この広いサロンで動けるのは、私と、腰を抜かしながらも私の裾を掴んで離さないフィオナだけだ。
(……やれやれ。お茶会を邪魔されるのは、淑女として見過ごせないわね)
私はフィオナの手をそっと外し、一歳児の頼りない足取りで窓際へと歩み寄った。
目の前には、大地を揺らす巨躯。龍が大きく顎を開く。その喉の奥で、全てを焼き尽くす「龍息」の光が収束し始めていた。
(千年も待たせるなんて、随分と気の長い再会ね……トカゲ風情が。魔法が劣化したこの時代の連中に、本物の『力』を教えてあげるわ)
私は小さな右手を、ガラス越しに龍へと向けた。
使うのは術式ではない。純粋な魔力の「定義」だ。
大気中に溢れる莫大なマナを、私の指先一点に集束させる。
一歳児の小さな肉体が一瞬できしみ、血管が浮き出るほどの負荷。だが、それを剣聖の精神力でねじ伏せる。
(魔力とは、意志。私の意志は、空をも断つ刃となる。……収束。臨界。そして――)
私は心の中で、一振りの見えない剣を振り下ろした。
「《真空断千界》」
音はなかった。
ただ、龍が放とうとしたブレスの光が、中で縦に割れた。
それだけではない。龍の巨躯を、そしてその後方の雲さえも、目に見えない巨大な断層が通り抜けた。
龍は絶叫を上げることさえ許されなかった。
金色の瞳に驚愕を浮かべたまま、その全身が砂の城のように、数千、数万のサイコロ状の魔力粒子へと分解されていく。
血の一滴も流れない。私の放った魔力の刃は、龍の肉体を構成する分子結合そのものを切断し、純粋なマナへと還元してしまったのだ。
直後、荒れ狂っていた龍圧が霧散し、庭には静寂が戻った。
残ったのは、キラキラと空から降り注ぐ、龍だったはずの魔力の残滓だけ。
「……ふぅ。一歳児の体でこれは、少し堪えるわね」
私は膝をつきそうになるのをこらえ、何食わぬ顔で絨毯の上に戻った。
気絶している大人たちが目を覚ますまで、あと数分といったところかしら。
龍が現れ、そして一瞬で消え去った。その理由を知る者は、この場に一人もいない。
……いいえ。一人だけいたわ。
「あ、あぅ……」
背後で、フィオナが目を見開いて私を見ていた。
彼女はまだ喋れない。けれど、その瞳には確かに、私が何をしたのかを焼き付けたような、強烈な光が宿っていた。
(見ていたのね。……まあいいわ、これも何かの縁かしら)
私はフィオナに向かって、人差し指を口元に当てた。
「内緒よ」という、淑女の約束。
「ばぶ」
微笑む私の頭上から、美しい魔力の雪が降り注いでいた。
史上最強の美少女剣聖、一歳。
彼女の伝説は、目撃者不在のまま、けれど確実にその産声を上げたのだった。




