鏡の中の絶望
生後三ヶ月。それが、かつて最強の剣聖と呼ばれた男、ギルフォード――現在はギルティナに与えられた現在のステータスだ。
普通の赤子であれば、ようやく首が座り、寝返りを打つことに精一杯な時期だろう。だが、中身は一〇二歳まで剣の道を極めた怪物である。転生してからというもの、私は驚異的な速度でこの肉体を「調整」し続けていた。
「ふぅ、ふぅ……。よし、関節の柔軟性は合格。筋肉の出力効率も、この短期間にしては上出来だ」
もちろん声に出せば「あうー」だの「ばぶー」だのという情けない音に変換されるため、これらはすべて脳内での独り言だ。私は揺りかごの中で、己の小さな手足を執拗に動かし、神経系の伝達速度を確認する。女神が与えたこの肉体は、驚くほど魔力親和性が高い。呼吸をするだけで大気中のマナが体内に溶け込み、細胞一つ一つを活性化させていくのが分かった。
今日の目標は、この部屋からの脱出――ではなく、まずは室内における「自由な機動力」の確保だ。
昼下がり。乳母の女性がウトウトと舟を漕ぎ始めた。絶好の機会だ。私は周囲の気配を殺す。剣聖の隠行術は、赤子の肉体であっても十分に機能する。
私は寝返りの勢いを利用して、静かに揺りかごの縁を越えた。着地。いや、着床か。フカフカの絨毯が私の転落を防ぐ。高さは五十センチほどもあったが、受け身の要領で衝撃を逃がした。
「さて、情報収集といこうかしら」
……かしら?
ふと、思考の語尾に違和感を覚えた。前世の私なら、もっと無骨な「俺」という言葉遣いだったはずだ。だが、この若く、柔らかい脳に意識が馴染むにつれ、荒々しい自認が、少しずつ、けれど確実に形を変え始めているのを感じる。肉体が精神を規定する。恐ろしい現象だが、抗いがたい心地よささえあった。
私は四つん這いになった。いや、ハイハイではない。四肢を最短距離で連動させ、重心を極限まで低く保つ、隠密機動の構えだ。私は絨毯の上を滑るように移動を開始した。その速度は、普通の人間が小走りするよりも速い。時速にすれば十キロ近いだろうか。赤子が室内を猛スピードで爆走している光景は、端から見ればホラー以外の何物でもないだろうが、背に腹は代えられない。
壁沿いを高速で駆け抜けながら、私は部屋の細部を観察する。
まず、この部屋はあまりにも広すぎる。天井には豪華なシャンデリア。壁には金糸で刺繍されたタペストリー。置かれている家具の一つ一つが、前世の帝国の王宮にあったものに劣らぬ高級品だ。私の転生先は、どうやら相当な権力者の家系らしい。
「ふむ、この紋章……。盾に絡みつく双頭の蛇か。見覚えがないわね。千年の間に勢力図は塗り替えられたかしら」
次に、私は部屋の隅にある書斎スペースへと向かった。机の脚を器用に登り――この際、握力と指の筋肉を限界まで酷使した――卓上の書類を盗み見る。
「……西暦一二〇〇年。やはり千年か。文字の形も変化しているけれど、読めないほどではないわ」
自然と一人称が「私」へと切り替わっていく。以前のゴツゴツとした自己意識が、瑞々しい肉体の檻の中で、滑らかに研磨されていくような感覚。
書類の内容は、領地の徴税記録と魔導騎士団への予算割り当てに関するものだった。どうやらこの家は、ローゼンブルク王国の有力貴族であり、軍事の中核を担っているらしい。そして何より驚いたのは「魔法」に関する記述だ。前世では一部の天才のみが扱えた魔導が、今や体系化され、兵士のたしなみとして普及している。
「剣術が廃れ、魔導が隆盛を極める時代……。面白いわ。私の剣が魔法に劣るかどうか、試してやろうじゃない」
私は机から飛び降り、次なる目的地へと向かった。部屋の中央に鎮座する、高さ二メートル近い等身大の鏡だ。
転生してから、母や乳母の反応で薄々感づいてはいた。だが、自分自身の目で確認する勇気がなかなか持てなかった。一〇二歳の老剣聖だった私が、今、どんな姿をしているのか。
私は鏡の前に立ち、ゆっくりと顔を上げた。
「…………嘘、でしょ」
鏡の中にいたのは、一言で言えば「天使」だった。
ふんわりとした銀髪は、窓から差し込む陽光を受けてプラチナのように輝いている。瞳は澄み渡るような深い蒼――サファイアをも凌ぐ透明感を持っていた。頬は桃のように赤らみ、陶器のように滑らかな白い肌が赤子特有の瑞々しさを強調している。千年前に私が見かけた、どの王女よりも、どの聖女よりも、圧倒的に「完成」された美貌の片鱗がそこにはあった。
「これが……私? この、ぬいぐるみのように愛くるしい生き物が?」
私は思わず、鏡の中の自分と同じポーズで頬をつねってみた。柔らかい。恐ろしく柔らかい。かつて魔王の首を刎ね、数多の凶刃を跳ね返した鋼の肉体はどこにもない。どこからどう見ても、将来は傾国の美女になることが運命づけられた、可憐すぎる少女だった。
「ありえないわ。剣聖ギルフォードといえば、身長二百センチを超える巨躯と、鬼神と恐れられた強面が代名詞だったのに。それがなぜ、こんな綿飴のような容姿に……」
絶望した。この体でどうやって数キログラムもある重厚な大剣を振るえというのか。重心の位置も、筋肉の付き方も、男の体とは根本的に異なる。特にこのバランスの良すぎる四肢は、力任せの破壊ではなく、流麗な円運動に適しているように見える。前世の剣筋をそのまま再現するのは不可能に近い。
だが、絶望と同時に、心の奥底で剣士としての闘志が燃え上がるのを感じた。
できないのであれば、新しい剣を作ればいい。この小さく、軽く、繊細な、それでいて底知れぬ魔力を秘めた肉体だからこそ到達できる、新たな「最強」の境地があるはずだ。
「……ふん。女の体になったくらいで、私の剣が折れると思ったのかしら、女神さま」
私は鏡の中で、自分でも無自覚に不敵な笑みを浮かべた。しかし、その顔はあまりにも愛くるしく、ただの「ご機嫌な赤ちゃん」にしか見えなかった。その直後、背後で乳母が目を覚ます気配がした。
「あら! ギルティナ様、いつの間に揺りかごから……! まあ、鏡を見て笑っていらっしゃるわ。自分が可愛いのが分かるのかしらねぇ」
乳母が駆け寄ってくる。私は瞬時に「最強の剣聖」の意識を封印し、「無垢な赤子」へと擬態した。私は乳母に向かって両手を広げ、最大限の愛想を振りまく。
「あぅー! ばぶばぶー!」(よし、この部屋の構造と歴史背景は概ね把握したわ!)
「 抱っこしましょうねー」
温かな胸の中に抱かれながら、私は冷徹に思考を巡らせる。
この国、この時代の剣。そしてこの肉体。
すべてを使いこなし、私は再び頂点へ登り詰める。
「今度は旅をしておけばよかった」などという後悔は、もう二度としない。
世界中を旅し、美食を味わい、そして邪魔するものはすべて叩き切る。
銀髪の幼女ギルティナとしての、波乱に満ちた第二の人生。その幕は、今まさに切って落とされたのだ。
私は乳母の腕の中で、密かに掌を握り直した。
今の私は、体重わずか数キログラム、自力で立つことすらままならない赤ん坊。
だがその魂には、千年の時を経てもなお、鋭利に研ぎ澄まされた剣聖の刃が宿っている。
「待っていろよ、一〇〇〇年後の世界。私が再び、伝説を書き換えてあげるわ」
……まずは、このおむつの不快感をどうにかして伝えなければならないのが、目下の最大の問題だけれど。
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