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1-13

「ん?あぁ、クソ!」


金閣寺の敷地の外で菊次郎は悪態をついた。金閣寺は開放時間を過ぎれば、当然のように施錠される。どこかから忍び込めやしないかと敷地の外周を数十分かけてウロチョロとして探っていたのだが、いいところは見つからず、一応、正面入り口も見ておこうと回ってきてみれば、なんと守衛所には誰もおらず、おそらく警報装置も切られている。


どんな手段を用いたのか考えたくもないが、今宵のホストのハイドリッヒが道筋をつけてくれていたのだろう。こうであれば最初から正面入り口に来ていればよかった。


敷地の中へと慎重に入りながら、持ってきていたナイフを鞘から抜く。柄の握り方のぎこちなさから、明らかに使い慣れていないことが伺える。それもそのはず、菊次郎は生まれてこの方刃物で人間はおろか動物でさえも傷つけたことなどないし、何ならこのナイフも、ソロキャンプ用に購入したのはいいものの、結局使うタイミングがわからず、未使用のまま押し入れに眠っていたものである。


それでも菊次郎は、この殺傷性のあるナイフを持ち出した。そしてナイフの握り方こそぎこちないものの、菊次郎の目には迷いの色は混じっていない。桃を救い出すためなら、躊躇なくハインリッヒの胸を貫くだろう。


現代日本で過ごし、精神状態も正常な人間であれば、人を刃物を刺すことなど選択肢にも上がらない。だが菊次郎は藤之助から、人は誰しも獲物の喉元に突き立てる牙を持っていることを教わった。そして藤之助と別れてからも、サラリーマンとして生き、社会に溶け込みながらも巧妙に牙を失わずに隠しもっていた。


今日の昼に桃と蘭丸と話していたトロッコ問題で言えば、誰を助けるかは決まっている。天秤の片方に何万人乗っていようと関係ない。問題はレバーをどちらに倒すかではない、いかに倒すかのみだ。そして、その躊躇いの無さのみが、怪人たるハインリッヒに唯一、対抗しうる武器であった。


しばらく進めば、本堂が見えてくる。菊次郎も昼間に訪れたことはあるが、月光と篝火に照らされる金閣寺は状況を忘れて、息をのむほどであった。


そしてついに訪れたハイドリッヒとの対面で、菊次郎は完全に虚を突かれてしまう。


「お、お前…」


「オや、あなただけでしたか」


本堂で待ち構えていたハイドリッヒは蘭丸がいなかった事に少し、拍子抜けした様子。しかし、菊次郎はそれどころではなかった。


ハイドリッヒの姿があまりにも異様であった。30後半の年嵩であったのに、菊次郎の目の前にいる人物はどうみても10代にしか見えない。


日本人から見て白人男性の年齢はわかりにくいなどというレベルの話ではない。それに菊次郎は喫茶店と鴨川で二度、ハイドリッヒの姿を見ている。


『あいつの親戚の子供か?…いや、お前みたいな奴が二人といてたまるか。どういうトリックだ?』


『おやおや、これはこれは。わざわざ私の国の言葉でどうも。この姿は…、そうですね、あなたならお分かりになるのでは?』


『…』


問答無用にハイドリッヒを刺してしまうことも選択肢にあったが、菊次郎は問いかけに答えることにした。


『…“猿の手”か。あれの手の甲には2本の傷跡があった。俺達の手元に来た時点で、3回の願い事の内2回は使用済みだったってことなんだろ』


この手のタイプは話し相手に飢えている。ましてや仕込みから何十年も経ってようやくの種明かしで、舞台に金閣寺を選び、ご丁寧に篝火まで焚いて場を整えている。


気取り屋のナルシストだ。このまま気持ちよく喋らせてやれば、何か漏らすかもしれない。


『素晴らしい。あなたも評価“A”だ。ふふっ、そうです。 “猿の手” ですよ。本当はこんなものに頼るつもりはなかったのですがね。仕方がなかったのですよ。


そして…痛い目を見た。


“猿の手” の伝承通りに、望んでいない叶い方をしてしまった』


『…あんたが俺の想像通りの、いや、名前通りの人物だったとして、若返った姿で何をするつもりなんだ、前世紀の亡霊さん?今更、 “猿の手” でおたくらのボスも蘇らせて世界にリベンジでもするか?』


『あんなヒステリックなだけの能無し、直属の部下にもう一度なるなんて御免ですよ。それ以上に、もう一度 “猿の手” を自分で使うことこそ考えられない』


『ならあいつに何を願わせる気だったんだ?…いや、何でもよかったのか?あいつに三回目の願い事を使わせることで何になるっていうんだ?』


『くっくっく、その通り。私はランマル君が何を願おうと構わなかったのですよ。大事なのは3回の願いを叶え終えた “猿の手” 自体にある。 どの伝承も願いを叶え終えた “猿の手” がどうなったかは伝えていない。


しかし私にはわかるのですよ。これに願い事を()()()()()()()()()私には。


これは三回の願い事を叶えてこそ完成し、そしてより高次の位階に達するのだと』


『だったらそのパーフェクトな“猿の手”に4回目の願いを叶えてもらうのか?』


『おっと、それはハズレです。これが叶える願い事は3回のまま変わりません、単体では何の効力もない上等な置物になるだけですよ。古い教会の涙を流す石像と同じだ』


『だったら本命はその小さい方の箱の中身か?』


菊次郎は問いかけながら、サバイバルナイフを握り直した。ラインハルト自身の気配に紛れて、気付くのが遅れてしまったが、ラインハルトの手の中にある古くて小さい木箱からただならぬ気配が漏れている。


“猿の手”を直接触って感じ取ったときの比ではない。


『くっくっく、これが、これこそがこの物語の核心だ!


ふふふ、ふはははっ!


お見せしましょうか?いや、せっかくなのでぜひ見てもらうとしましょう!!』


『!』


ハイドリッヒが古い木箱から取り出したのはさらに古いワイングラスのような形をした杯であった。苔むしていて、輝きを失っている。装飾のような意匠はなくシンプルなデザイン、金属製のようだが黄金でできているとも思えない。


『見た目はただの古い杯ですがね。くっくっくっ、どうやらあなたは物の価値を見る目をお持ちのようだ。


わかりますか?この杯こそ、2000年以上の間、数多くの権力者が追い求めた“聖なる杯”そのものなのですよ!


そして80年前、我々がヨーロッパ中をひっくり返して、偶々発見に至った。


ベルリンが共産主義者の手に墜ちる寸前に、私はこれをなんとかなんとか盗み出すことが出来ましてね。


伝承によれば、この杯で汲んだ水を飲めば、どんな傷でもたちまち治してしまうだけでなく、一口で寿命を数年、飲み続ければ永遠の命を与えるという。


ただそれだけじゃない、それだけじゃない! !


くっくっく、この杯に水ではなく、特別な物を食らわせて満たすとどうなると思います?』


『…なるほど、繋がったな』


『そう!三回の願いを叶え終えた“猿の手”は“聖なる杯”が満足する格に至るのですよ。


そして “聖なる杯”は “猿の手”をより高位の段階へと昇華させ、ありとあらゆる願いを望んだままに叶えてくれる存在となるのです!


“聖なる杯”も“猿の手”も私の手に集ったのですよ?これを運命と呼ばずに何と言います!


くっくっく、あははっはは!


さてさて、ここからはあなただけではいささか物足りない、せひランマル君にも聞いてもらいましょうか。隠れていないで、出てらっしゃい』


『っ!』


『OKわかった、出ていくよ』


ハインリッヒに促され、物陰から蘭丸が姿を現した。 どうやら菊次郎が金閣寺の敷地内への侵入に時間をかけている内に、蘭丸が追い付いてしまったらしい。


「お前、なんでここに…。なんでついて来た!?」


「俺だけ家でジッとしていられるわけないだろ!?」


「子供のお前に何ができる!」


『仲がいいのはけっこうですが、そこまでです。私が整えたせっかくの舞台なのですから、私が脚本家で演出家で、そして主演だ』


『だったら、とっととモモを返せよ、ビチクソ野郎!』


『君はドイツ語になると途端に口が悪くなりますね、ランマル君。彼女の身は丁重に扱ってますよ。擦り傷一つ付いていない。


私が彼女を傷つけるわけがないのですよ。


くっくっく、彼女は大事なスペアプランだ。


そして…私の母になるかもしれない女性です』


「…Mutter(母親)?…おい、俺の聞き間違いか?」


「いや、俺もそう聞こえたけど…」


『いいえ、聞き間違いでも詩的な表現でもありませんよ。ふふふっ、改めて話すとなるとお恥ずかしいですね。いやなに、私も望んでこういう状況になったのではないのですよ。


すべては“猿の手”のせいだ。


あの日、何十年も前にプラハで死にかけた時、私は咄嗟に“この人生をやり直したい”と願ってしまった。“命を助けて”じゃなくてね。


最初の数年はこんな状況になるなんて思いもしなかった。実際に致命傷ともいえる傷を負っても生きながらえたわけですからね。


逃亡先の日本で終戦を迎えてましてましてね、ドイツに帰ろうとも思いましたが、わたしの故郷のザクセンは共産主義者に支配されてましてね。特に会いたいと思う親類も知人もいなかったので、日本での生活をしばらく楽しむことにしたのですよ


しかし、しばらくして身体の異変に気付いてしまった、…身体が年を取らないと。


ふふっ、最初は人並みに喜びましたよ。日本での生活が10年、20年と経っても、あの日と同じ39歳のままだ。くっくっくっ、不老不死になったのだと』


『身につまされる話だが…すべてがうまくいくはずがない』


『そう、その通り。の“猿の手”は物語に伝わる様にイジワルでね。


ある日を境に急速に始まったのですよ、若返りが。


若返りに気付いてから一年と経たずにあきらか10代前半の身体になっていた。ちょうど今の姿と同じくらいですかね。


焦りましたよ、このままだとどうなるのかと。


くっくっく、どうなったと思います?』


『っ…思いついたが、口にすら出したくないね。』


『たぶん正解ですよ。若返りを止めることなどできなかったのですよ。


そしてそのまま子供、幼児となっても止まらなかった。そして胎児となり、受精卵の状態にまで戻ったのです。


そしてその時点でようやく若返りが止まり、細胞分裂から人生の再スタートが始まったのです。


そしてまた老化が始まり、39歳の身体に…おそらく “猿の手”に願った時点の身体まで老化してから、また若返りだ。


分かりますか?“人生をやり直したい”という願いに対する“猿の手”の回答がこれですよ』


『ちょっ、ちょっと待てよ、受精卵に戻ったって、そんなの、ど、どうやって生まれたんだよ』


『…』


菊次郎には予想がついていたが、口を閉ざした。


『まぁそこら辺は少しグロテスクなので割愛しますが、ランマル君の疑問の通り、受精卵には着床するための子宮が必要です』


『お前…まさかモモのことを』


『そうですよ。彼女は私を産んでもらう貴重な母体だ。あの日からもう…80年近く経ちますか…。彼女は私のちょうど10人目の母となる女性なのです』


『お前の気持ち悪ぃ性癖と生態はおいといて、80年で10人じゃ計算が合わねぇだろ。そもそも飯田サオリが行方不明になってから2週間と経ってない』


『どうも母体と私の相性があるようでしてね。飯田サオリはその中でも最悪でした。相性が悪いと39歳の身体のキープ期間が極端に短くなるのですよ。それでご指摘の通り、2週間で新たな母を探すはめになった。


くっくっく、ランマル君、君のおかげですよ。君があの日、あの場所に彼女を連れてきて、私と引き合わせてくれた。


川の向こう岸で夕日に染まる彼女の髪を見た瞬間わかりましたよ、彼女なら私の最高の母になってくれると。


あぁ、ただただ口惜しいのは “猿の手”に呪われた我が人生。いかな素晴らしい女性と巡り会っても私の母になって、私を産んでもらうには彼女たちに死んでもらわなくてはならない』


『…じゃあ飯田サオリさんは』


『とっくに死んでます。だいたい着床から私が生まれるのにたった3時間ぐらいですよ?本来、十か月以上の期間をかけて出産に向けて身体を作り変えていくのに、母体が耐えられるわけないじゃないですか。


遺体はもう丁重に処分させてもらいましたよ、ご両親にみせるには少々ショッキングでしょうから』


「っ!」


「…」


飯田サオリがすでに死んでいるという事実に歯を噛む蘭丸と、ハインリッヒへの警戒を強める菊次郎。


ハインリッヒの話も佳境だ。だが菊次郎か蘭丸に猿の手を使わせる手段がわからない。桃を人質に取ろうとも、ハインリッヒにとっても桃は大事な存在のよう。


ならどうやって使わせる?


『…ふふっ、くっくっく、少しお話しすぎたようですね。さて…』


「ぐふっ!!」


「…え?」


蘭丸が普段、聞きなれない弾けた音が聞こえたと思ったら、菊次郎が膝から崩れ落ちた。


『そのナイフでどうするつもりだったのやら…言ったでしょう?私が主演で、脚本家だと』

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