略奪作戦とその結果
いきなりの登場に目を剥いているあたしをよそに、沖口は至極冷静に夏樹さんを見る。
二人の視線がかち合った瞬間、ヤツはこれでもかっていうくらい眉根を寄せると、更にあたしの腕を引っ張った。
「行くぞ。」
「…は、はぁ!? ちょ、あんた何言って、」
「いいから。」
いくら割と着慣れているといっても、やっぱり動きづらいものは動きづらい振袖。
大した抵抗もできずに半ば無理やり立ち上がらされたあたしは、沖口の力に負けてそのまま足を進めざるを得なくなる。
「っ真由さ、」
そんな状況を見てはさすがの夏樹さんも焦りをみせて、おそらく追いかけようと腰を浮かせた瞬間、誰かがテーブルを思いっきり叩いたのがちょうどあたしが夏樹さんの方を振り向いたときだった。
髪色が少し違う、夏樹さんと良く似た童顔。――水無瀬君(弟)、だった。
「行かせないよ。兄貴。」
夏樹さんを牽制した水無瀬君は、少しだけこちらを振り向く。
にっ、と。いたずらが成功した子供のように笑った彼は、ヒラヒラと手を振ってあたし達を送り出した。
なんだかもう、わけが分からない。
――――……
「ちょ、ちょっと! 沖口!!」
レストランを後にして、ホテルを後にして。
長い階段を下りきったところの大きなオブジェが鎮座している場所まで来たところであたしは沖口の名前を呼ぶ。
けれどヤツはあたしの腕を掴んだまま聞く耳持たず、と言った態度を貫き通してこちらをちらりとも見ようとしなかった。
「っ、離しなさいよ! ついでにこっちを向け!!」
自分で言うのも何だか癪だけれど、基本的に気が長いとはお世辞にも言えないあたしはついに頭の中の筋が何本か切れた。
乱暴に腕を振り回して沖口から解放されるのと、ヤツがようやくこちらを視界に映したのはほぼ同時だった。
「ったく…洋服とは違うんだから着崩れるっつの……。
本当に老舗呉服屋の御曹司かアンタは。」
重たいため息を吐きながら、少しだけ乱れてしまった襟元を直す。
そっと顔色を窺うと、沖口は相変わらずの鉄面皮で。
いきなり現れたヤツの真意を読み取ることは難しそうだった。
「…なんで、ここに来たの。っていうかなんで知ってたの。」
「……水無瀬から、お前が見合いすることを聞かされた。アイツの兄だとは予想外だったが。」
「でしょうね。あたしも目剥いたから。」
あたしから少し目線を外した沖口は、大きなオブジェを仰ぎ見る。
それは動くことも、大きくなることも小さくなることもなく、ただただそこに在り続けていた。
「どうして来たか、か。」
「……。」
「一つ暴露話をしてやろうか、真由。」
それとこの見合いを引っ掻き回したこととなんの関係があるのか。
そんな疑問は、次の言葉によって容易く吹っ飛ぶことになる。
「俺は、一度だってお前をただの幼馴染だと思ったことはなかった。」
沈黙が、走る。
それは十秒だったのか、一分も経っていたのか。時間の感覚がなくなってしまったあたしには分からなかった。
「……、は。」
何を言えば良いのか分からなくて結局そんな一言しか発せないあたしのことは見ずに、沖口は言葉を続ける。
「気づいたら一緒にいることが当たり前で、…近すぎて、忘れそうにはなっていたが。
お前がいなくなってから、はっきりと自覚した。俺は、」
ヤツとあたしの視線が絡み合う。
本能が、警告する。
この先は聞いてはダメだと。
世界が、また壊れてしまうと。
「沖口、待っ…!」
「好きだ。」
あたしの静止の言葉を待たずに、沖口は言葉を紡いだ。
全身の色々なものが時間を止めたような感覚が、あたしを襲う。
「な、」
「俺は…俺たちは、逃げてばかりだった。
自分の保身を優先して、相手とぶつかる勇気がなかっただけだった。そうだろう、真由。」
苦い表情で視線を逸らす。あたしに出来ることはそれしかなかった。
図星だから、という理由以外にない。
そう、逃げていたのは。
トラウマを忘れたかったわけじゃない。やっかみに疲れたわけでもない。
単純に、怖かったのだ。勇気がなかったのだ。
幼馴染という心地いい距離を、壊したくなかっただけだ。
髪を切られて、同性のやっかみはあたしと沖口の距離を脅かす存在だと身にしみた。
髪を切られて、…気づいてしまった。あたしが持つこの感情の存在を。
そんな存在があると、少なからず幼馴染というあたし達の世界は壊れてしまう。
だから、逃げた。
壊れた先の世界は何が起こるか分からないから。先の分からない海よりも、あたしは安心していられる小さなぬるま湯を選んだ。
例え不可抗力で身体を重ねてしまったとしても、――ぬるま湯から引きずり出されようとしても、あたしはそこから出ようとしなかった。
それは……沖口も、同じ?
「知ってたさ、お前が今の距離を何よりも大切にして、守ろうとしていたことくらい。
お前が言わなくてもなんとなく分かっていたし、俺もそれに乗っていた。」
けれど、と呟きながら沖口は少しあたしとの距離を縮めた。
元々そこまで開いていなかった距離は沖口がさらに近づいたことでゼロに等しくなる。
真冬の冷気に晒されていたヤツの指先があたしの頬に触れる。
まるで壊れ物を扱うようなその仕草に、あたしは意味もなく泣きたくなった。
「年月を重ねれば重ねるほど…駄目だった。
自分の気持ちを誤魔化すことが難しくなっていって、理性の制御すらままならなくなった。」
だからタガが外れて、あの日お前を抱いた。
沖口は珍しく、緩く微笑む。
「俺は、もう無理だ。このままお前の傍にいることはどうも出来そうにない。
――返事を聞かせてくれ、真由。」
優しく額に口づけを落とされる。それにあたしは。
――あたしは、拒むことなんて出来るわけがなかった。
「…珍しいな、お前が泣くなんて。」
ヤツは笑う。
「……誰の、せいだと…っ」
「あぁ、俺のせいだな。」
「馬鹿じゃ、ないの。
こんな女、好きになんかなっちゃって…。本当、馬鹿。」
「それはお互い様だ。俺の予想ではな。」
あやすように頭を撫でられたって、今のあたしには逆効果にしかならない。
もうぬるま湯は必要ない。
それなら贈ってやろう、言葉を。
酸いレモン水が甘いハチミツに浸透されて、レモネードになるくらい。浸食してやる。
あたしは、もうずっと前から…コイツのことが。
あたしの言葉が届いたらしいヤツは、やっぱり珍しい笑みを見せて、額を合わせる。
「あぁ、そういえば言うのを忘れていた。」
涙を掬い取られる。
「今日の振り袖姿。綺麗だ、真由。」
じんわりと、頭に染み込んでいく。
浸食されるのは、どちらだろう。
本当のハチミツは、はたしてどちらなのだろう。
そんな疑問は、涙と一緒に流れていく。
どうせ、唇を重ねてしまえば。
どちらがどちらかなんて、分からなくなってしまうのだから。
さぁ。
贈ろう、浸食させよう。
アイノコトノハを。
Fin…
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