百二十一人目
記録は、その晩のうちに写された。
十枚、写すことになっていた。九つの国と、立会人の控えが一つ。空いている卓のぶんは、写さない決まりだった。
写すのは、各国の書く者だった。天幕の中に卓を寄せて、十人が並んで、同じものを書き写した。
わたしは、その脇に立っていた。
写し間違いがないかを見る役だった。原本を持っている者が見るのが決まりで、原本を持っているのはわたしだった。
一晩かかった。
明け方に、十枚が並んだ。
わたしは、それを一枚ずつ読んだ。
三枚に、写し落としがあった。直させた。二枚に、字の当て違いがあった。直させた。一枚は、行を飛ばしていた。書き直させた。
書き直させているあいだに、日が昇った。
「よく見るな」と、隣で書いていた者が言った。ザルハーンの卓の者だった。
「数えるのが、癖なんです」
「数えるのと、読むのは違うだろう」
「同じです」とわたしは言った。「どっちも、合ってるかどうかを確かめるだけです」
十枚が揃って、封がされた。
蝋を落として、それぞれの国の印を押す。押した紙は、それぞれの国が持ち帰る。持ち帰ったものは、それぞれの国の書庫へ入る。
わたしは、その行き先を訊いた。
訊いてよかったのかどうかは、分からない。誰も止めなかったので、訊いた。
聖都の書庫。ロヴァ第三倉。ホルム峡の王家蔵。トルヴェクの坑主会議所。ザルハーンの水盤宮。ほかにも五つ。
十のうち、九つが、互いに敵か、敵になりうる国の中にあった。
一つが、オルサの控えだった。
条約は、その日の午後に署名された。
九つの署名が並んだ。十番目のところは、空いたままだった。
署名が済むと、みんな帰り支度をはじめた。天幕を畳むのに、また何日かかかる。三国見の者が、その仕事で銭を稼いだ。
アルディエルの一行が出るとき、わたしは道の脇に立っていた。
彼は、馬に乗る前に、こちらへ来た。
「聖都の書庫は、地下だ」と彼は言った。
「はい」
「湿る。紙は、五十年でだめになる」
わたしは、その言葉を受け取った。
「写しますか」
「二十年ごとに写す決まりがある」と彼は言った。「決まりはあるが、写す者が足りん。優先の順があって、条約の記録は上のほうではない」
「上げられますか」
「上げる」と彼は言った。「わたしは、書庫の順を決める側にいる」
彼は、それだけ言って、馬のほうへ戻った。
戻りかけて、止まった。
「あの記録の中に、認可の数の話がある」
「あります」
「あれを、あんたのために読み上げたのか」
わたしは、答えなかった。
「そうか」と彼は言った。
彼は、馬に乗った。
一度だけ、振り返った。
その夜、宿の板の間で、わたしは針を火にかざした。
母が握らせた針だった。三年半、ずっと持っていた。ヘルヴィが名を入れるのに使い、トルヴェクからの帰り道に、わたしが自分で使った。
オルサは、土間から見ていた。
「刻むか」
「刻みます」
「何をだ」
「行き先です」
わたしは、左の腕をまくった。空いているのは、あと少しだった。線が三つ入っていて、その周りが白い。白いところは、肘を越えていた。
四つ目を入れたら、あとはない。
ヘルヴィは言った。二つのうち一つは残せ。刻めるものがあると、使う理由のほうが後から出てくる。
そのとおりになった。二度、そのとおりになった。
「十のうち、どこへ行ったかを覚えとくのか」
「はい」
「覚えるだけでは、いかんのか」
「わたしが死んだら、消えます」
オルサは、そのことについて何も言わなかった。
「体に書いても、死んだら消えるだろう」
「消えます」とわたしは言った。「でも、死ぬまでは残ります」
「頭でも残る」
「頭は、落ちます」
わたしは、霧の中で落とした二年ぶんのことを言わなかった。言わなくても、この人には伝わった気がした。
「腕は、落ちません」
針を当てた。
自分で彫るのは、二度目だった。一度目より、手が止まらなかった。慣れたのではない。慣れるようなものではない。ただ、どこで手が引くかを知っていた。知っていれば、引く前に押し込める。
十の行き先を、線にした。
北の谷の柱と同じやり方だった。列にして、頭に印を置く。誰が見ても読めない。わたしには読める。
彫り終わるまでに、夜が明けかけた。
血は、ほとんど出なかった。線の周りが、そばから白く盛り上がりはじめていた。
四つ目だった。
あとは、ない。
わたしは、その線を見ていた。
シグリは、腕に六つ刻んでいた。そのうち五つ目は、何もしない刻みだった。負けた年に刻んだもので、持ち帰るものがないから数えられるものもない。それでも、その年に出たことは残さねばならない。
減るから数えられる、とあの人は言った。
減らないものは、数える値打ちがない、とも言った。
わたしは、あのとき、その意味が分からなかった。
いまは、分かる気がした。
朝、宿を出た。
三国見の道は、いつもどおり混んでいた。天幕を畳む者と、荷を運ぶ者と、通り過ぎる者。誰の領土でもないので、誰もが通っていく。
わたしは、荷を担いだ。
腰に、綱を巻いていた。島で、綱をなう子がくれたものだった。三年半、ずっと巻いていた。ほつれてきたので、二度結び直した。
袖の中に、針があった。
腕の内側に、四つの線があった。
頭の中に、北の谷の柱十九本と、島の四十年と、トルヴェクの四つの数と、灰海の杭の四列があった。
それから、この七日の記録が全部あった。
十枚の写しが、九つの国と一人の女のところへ散っていった。九つは、互いに焼き合うかもしれない国だった。焼き合っても、全部は焼けない。全部焼けるほど仲がいい国は、あの円の中に一つもなかった。
五十年もつかどうかは、分からない。
もたなくてもよかった。
もたせるためにやったのではなかった。
わたしが黙れば、この計算は一行になる。持っていかれたあとに残ったもの、という一行になって、意味の分からないまま次の誰かへ渡っていく。
一行にしないために、書いた。
書いたものは、取られる。なくす。燃える。濡れる。それでも、十枚ある。
三年半前、わたしは銀の盆に手を入れた。
その年、生かされる者は百二十人だった。数は六百年変わっていない。豊作の年も凶作の年も、戦のあった年もなかった年も、百二十。
使う者の数を決めておかないと、量が読めない。
その一行が、いま十枚の紙の上にある。
わたしは、そのどれにも名前が載っていない。円の外に、丸が一つ書いてあるだけだった。
丸には、罰が当たらない。
罰が当たらない者は、数に入らない。
数に入らない者が、その数を書いた。
道の先で、荷馬車が止まっていた。西へ行く車だった。御者が、こちらを見て、顎で荷台を示した。
わたしは、乗った。
腕の内側が、まだ熱かった。




