第4章:絶望の旋律、あるいは卑屈のソナタ
王都の静寂を切り裂くのは、ゼノスの奇怪な喘ぎ声だけではなかった。 「マゾヒスト・アイアン」の受付に、一人の男がフラフラと現れた。背中には古びたリュートを背負い、その顔はまるでこの世の終わりを目撃したかのように青ざめている。彼は王都で名を馳せる吟遊詩人、フェリスであった。
「……終わりだ。私の音楽家人生は、ここで潰えるのだ」 フェリスは、カウンターに突っ伏しながら力なく呟いた。
「いらっしゃいませ。入会ですか? 尊厳と羞恥心は入り口のゴミ箱へ捨ててきてください。もっとも、あなたには捨てるほどの尊厳も残っていないようですが」 ミラは、絶望に浸るフェリスに対しても、いつも通り氷点下の言葉を浴びせる。
フェリスは顔を上げ、涙ぐんだ目でミラを見つめた。 「聞いてくれ、美しい受付嬢さん。私は……歌詞が書けなくなったんだ。愛も、希望も、勇気も、今の私には空虚な響きにしか聞こえない。新しい曲を書こうとすると、あまりの自分の無才さに吐き気がして、ペンが折れてしまうんだよ」
「スランプですか。高尚な悩みですね」 ミラは事務的に書類を捌きながら、冷たくあしらう。 「あちらに、高尚さとは無縁の、泥水で煮しめたような卑屈さを持つ男がいます。彼の生き様を見れば、あなたの『無才』など、可愛らしい特技に見えるでしょう。さあ、行け。無能の音色を響かせに」
フェリスが重い足取りでトレーニングルームへ入ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「あぁ……! 滑車! 滑車のこの、絶え間ない摩擦音が、私の存在の軽さを笑っているようだ! もっと私をきしませてくれぇぇ!」
ゼノスは、自らの両手首を鎖で吊るし、つま先立ちの状態で、背中に巨大な「重し」を載せていた。しかも、その重しには鋭い針がいくつも付いており、彼が少しでも姿勢を崩せば、その不浄な肉体に激痛が走る仕組みになっている。だが、ゼノスはその痛みに耐えるどころか、一歩踏み出すたびに「うふっ、最高……」と頬を染めていた。
「ゼノス、客です。言葉を失った哀れな詩人ですよ。あなたの薄汚い内面を晒して、彼の創作意欲という名の残酷な毒を刺激してあげなさい」
「はぅっ! ミラさんの声! 私の鼓膜を、錆びたナイフで削り取るような快感……!」
ゼノスは鎖を外すと、自らの背中の傷跡を見せつけるように、四つん這いでフェリスに近づいた。その目は、異常なまでの卑屈さと、期待に満ちた熱を帯びている。
「詩人様……! 歌詞が書けない、とお聞きしました! 素晴らしい! それはあなたが、まだ『まともな人間』を演じようとしているからです! 私のように、人としての価値を完全に失った者の実体験を聞けば、あなたのペンは、嫌悪感と衝撃で止まらなくなるでしょう!」
ゼノスはフェリスの足元に跪き、その靴の甲に額を擦り付けた。
「さあ! 私のこの、ドMな日常を即興で歌にしてください! 例えば……そう、昨日の夜。私はミラさんの家の前の道を、一晩中『ミミズ』の真似をして這いずり回っていた時の心境を! 警察に通報されそうになった瞬間の、あの絶望と悦びの混ざり合ったハーモニーを! さあ、歌え!」
「……な、何を……そんな、歌にできるわけがないだろう!」 フェリスはドン引きし、一歩退いた。しかし、ゼノスは執拗に追いすがる。
「できない? ならば、私がもっと『素材』を提供しましょう! 私はかつて、高貴な公爵家の嫡男でした! しかし、私はある日、父が飼っていた猛犬に噛まれた瞬間に目覚めてしまったのです! 『ああ、私は噛まれるために生まれてきたんだ』と! その時の、家族全員からの白い目! 婚約者からの『汚物を見るような目』! 完璧な天才が、一晩で『王都一の変態』へ転落した、この卑屈な転落劇を! 詩人様、あなたの力で、世界で最も醜い喜劇にしてくれぇぇ!」
ゼノスの語る内容は、あまりに生々しく、あまりに卑劣で、そして救いようのないほどに「終わって」いた。フェリスは最初、吐き気を催したが、次第にその圧倒的な「闇」の具体性に、創作の脳が強制的に再起動させられるのを感じた。
(……何だ、この男は。私が今まで書いてきた『悲劇』なんて、この男の日常の、ほんの数秒にすら及ばない。愛がない? 希望がない? そんなものは当たり前だ。この男には、尊厳すらないのだから!)
フェリスの指が、無意識にリュートの弦を弾いた。不協和音のような、しかし力強い音が室内に響く。
「……ああ、書ける。書けるぞ! 絶望なんて言葉じゃ足りない、この『究極の卑屈』! 人間の美しさなんて糞食らえだ! 私は、この世界で最も醜い男の、最も不快な真実を歌にする!」
フェリスは、狂ったようにペンを取り出し、メモ帳に言葉を書き殴り始めた。ゼノスの奇怪な喘ぎ声と、時折放たれる親父ギャグが、彼の創作意欲をさらに狂わせる。
「いいですね! 乗ってきましたね! では、サビの前にこの親父ギャグを! 『詩人』が、『自信』を失って、『死人』のようだ……! どうですか、この死ぬほど寒いやつ!」
「……今の、マイナス80度ですね」 扉の向こうから、ミラの冷徹な声が響く。 「あまりの寒さに、詩人さんのペン先が凍りついて折れてしまえば、世界は少しだけ静かになるのですが」
「あぁぁ、ミラさんの零下の一言! 筆折りの女王!」
一時間後、フェリスは興奮で顔を紅潮させ、トレーニングルームを飛び出してきた。その手には、新曲の歌詞がびっしりと書かれたメモが握られていた。
「お疲れ様でした、死人さん」 ミラが、フェリスに(汚物を取り扱うような手つきで)入会特典の喉飴を渡す。 「あんなゴミの人生を音楽にするなんて、あなたも相当な悪趣味ですね。でも、あなたの悩みなんて、彼の性癖の深さに比べれば水たまりのようなものだということが、よく分かったでしょう?」
「……ああ。救われたよ。私は、綺麗なものばかりを見ようとしていた。でも、あそこまで濁った、あそこまで終わっている真実を知れば、もう何も怖くない。ありがとう、変態のインストラクター。ありがとう、冷酷な受付嬢」
フェリスは、力強い足取りでジムを去った。その夜、王都の酒場で彼が披露した「ドM公爵の転落歌」は、あまりの衝撃と卑屈さに客たちが全員フリーズし、その後なぜか大爆笑が巻き起こるという、伝説のステージとなったという。
「ミラさん……詩人さんのあの、私を『素材』としてしか見ていない冷酷な眼差し……創作の生贄にされているようで、ゾクゾクしました……」 「そうですか。そのままあなたの人生そのものが、誰にも読まれない三流の悲劇として完結することを切に願います。掃除の邪魔なので、そこを動かないでください。可燃ゴミとして処理しますから」
「あぁぁ、ゴミ処理! ミラさんによる完全な社会抹消!」
ゼノスが再び喜びのあまりのたうち回る中、路地裏に新たな影が差す。それは、丹精込めて打った剣を売るのが寂しくてたまらない「ドワーフの鍛冶屋」。ゼノスの「剣の価値を根底から汚す究極の依頼」が、職人の頑固な心を粉砕することになるのだが……それはまた、次のお話。




