第3章:モンスター・ペアレンツvsモンスター・ドM
王都の片隅に佇む「マゾヒスト・アイアン」の受付。ミラが冷徹な手つきで、ゼノスが床に撒き散らした謎の「不快潤滑剤」をモップで拭き取っていると、扉が悲鳴を上げるような音を立てて開いた。
入ってきたのは、高級なシルクの衣装に身を包みながらも、目の下に深い隈を刻んだ中年の男性だった。彼は王都でも有数の老舗旅館の支配人、モーリス。最近、彼は深刻な悩みを抱えていた。
「……ここが、どんな無理難題も解決してくれるという場所か」 モーリスの声は枯れ、心労で今にも倒れそうなほどに震えていた。
「いらっしゃいませ。入会ですか? 尊厳と羞恥心は入り口のゴミ箱へ捨ててきてください。回収は不可能です」 ミラの定型句とも言える「絶望の洗礼」が飛ぶ。
モーリスは力なく首を振った。 「……無理だ。私の尊厳は、すでにクレーマーたちによって踏みにじられ、粉々に砕け散っている。客の理不尽な怒号を聞きすぎて、最近では風の音すら誰かの罵声に聞こえるのだ」
ミラは手に持ったモップの手を止めず、淡々と答えた。 「クレーマー対応で心が折れた、と。安心してください。あちらに、クレーマーの皮を被った『究極の甘えん坊』がいます。彼の異常性に比べれば、あなたの宿に来る客など、ただの行儀の良い赤ん坊に見えるでしょう」
モーリスが恐る恐るトレーニングルームの扉を開けると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
「あぁぁ……! もっと、もっと私を無視してくれ! 存在そのものを否定されるこの寂しさ……! 私の筋肉が、孤独という名の酸欠で歓喜に震えているぞぉぉ!」
ゼノスは、自らの手足を壁に固定された鉄のリングに繋ぎ、目隠しをした状態で、全自動で飛んでくる「腐ったトマト」を腹筋の収縮だけで弾き飛ばすという、理解不能な「拒絶訓練」の最中だった。
「ゼノス、仕事です。クレーマーに心を壊された支配人様ですよ。あなたの『最も言うことを聞かないダメな部分』を全開にして、彼の心を逆説的に癒やしてあげなさい」
「はぅっ! ミラさんの声! 腐ったトマトより刺激的!」
ゼノスは拘束を外すと、まるで獲物を見つけた野獣……というよりは、餌を強請る巨大な犬のような勢いでモーリスに這い寄った。
「支配人様……! お待ちしておりました! 私、今日は最高に『わがままな客』になりたい気分なんです! さあ、私を世界で一番厄介な、理不尽の塊として扱ってください!」
モーリスがたじろぐ間もなく、ゼノスの「オーダーメイド不快提供」が始まった。
「さあ、接客を始めてください! 私は今から、このジムの床に落ちている埃が『私の前世の記憶に触れて不快だ』と訴える、超次元クレーマーを演じます! あなたはどう対応しますか!? 謝るんですか? それとも私を抱きしめて『よしよし』してくれるんですか!?」
「なっ……何を……。埃に前世? そんな理不尽な……」
「理不尽!? 最高だ! もっと言ってください! ほら、私は今、あなたの旅館の最高級の布団を全部繋ぎ合わせて、外で巨大な『てるてる坊主』を作ろうとしています! 止めてください! 全力で、しかし私の自尊心を傷つけないように、這いつくばって懇願するんです!」
ゼノスはそう言いながら、トレーニング用のマットを引き剥がし、自分の体に巻き付け始めた。その瞳は完全に濁り、常識の通用しない「幼児性」と「変態性」が混ざり合った、この世で最も危険な熱を帯びている。
モーリスは、そのゼノスのあまりの「甘え」と「異常」が融合した姿に、激しい嫌悪感と共に、ある種の悟りを開いた。
(……ああ。私が今まで相手にしてきたクレーマーたちは、まだ『言葉』が通じる人間だった。でも、この男は……この生き物は、何だ? 理屈も、損得も、羞恥心すらもない。ただ、私に『構ってほしい』という欲望を、最悪な形で発散しているだけではないか)
モーリスの中に眠っていた「支配人」としての矜持が、怒りと共に爆発した。
「……いい加減にしろ、この不潔な肉の塊が!」
モーリスは、ゼノスが巻いていたマットを力任せに剥ぎ取ると、彼を床に押し倒し、腹の底から声を張り上げた。
「てるてる坊主だと!? 客なら客らしく、その醜い体を鍛えて、さっさと金を払って帰れ! 埃がどうした!? 文句があるならお前の鼻の穴を全部雑巾で埋めてやる! 私を舐めるのも大概にしろ!」
静寂。
ゼノスは床に転がったまま、全身を小刻みに震わせ、頬を赤らめていた。
「……ひぎぃっ! 素晴らしい……! その、一切の妥協を許さない『怒り』! 私の魂が、あなたの怒号で洗濯されているようです……!」
「……今の、マイナス70度ですね」
いつの間にか入り口に立っていたミラが、ゴミを見るような目で二人を見下ろしていた。 「支配人様。今のあなたの怒声、王都の裏路地まで響き渡りましたよ。クレーマーに怯えていた面影はどこへやら。その『キレ味』があれば、どんな客も震え上がって逃げ出すでしょうね」
モーリスは、ハッとして自分の手を見た。肩で息をしながら、自分の中に力が戻っているのを感じた。
「……ああ。私は、何を怖がっていたんだ。あんな、ただの甘えん坊たちを。この男に比べれば、彼らなど可愛らしいものだ」
モーリスは、ゼノスの異常な「甘え」を目の当たりにしたことで、逆に自分の「正気」を取り戻したのだ。
「お疲れ様でした。あんなゴミの相手をして、逆にストレスが溜まったでしょうが、それが肉体の活性化には一番です」 ミラの毒入りアフターケアを受け、モーリスは晴れやかな顔でジムを去った。
「ミラさん……支配人のあの『不潔な肉の塊』という言葉、私の心臓に深く突き刺さって、最高の鼓動を刻んでいます……」 「そうですか。そのまま心停止して、永遠の静寂という名のマゾヒズムに浸っていただければ、私も平和なのですが」
「あぁぁ、永遠の静寂! ミラさんによる強制的な冥福!」
ゼノスが再び喜びのあまり四つん這いで走り回る中、路地裏にまた一人の迷える者が現れる。それは、歌詞が書けずスランプに陥った「吟遊詩人」。ゼノスの卑屈すぎる実体験が、彼の琴線に最悪な形で触れることになるのだが……それはまた、次のお話。




