第12章:不屈の盾、あるいは最強のサンドバッグ
王都の平和を象徴する白銀の鎧が、路地裏の湿った空気に鈍く光る。ジム「マゾヒスト・アイアン」の受付に現れたのは、全騎士の憧れであり、王国の盾と称される騎士団長・アイゼンだった。 ミラが、ゼノスが「ミラさんの蔑みの視線を熱エネルギーに変換する永久機関」の設計図を描いた床を冷徹に雑巾がけしていると、アイゼンは重い兜を脱ぎ、深く項垂れた。
「……もう限界だ。民を守る誇りも、正義を貫く意志も、この重圧の前には無力だった。私は、戦うことが怖くなってしまったのだ……」
「いらっしゃいませ。入会ですか? その無駄に立派な肩書きと、鉄板のように固まった責任感を入り口のゴミ箱へ脱ぎ捨ててきてください。あそこの変態を斬っても、不快な脂が刃にこびりついて名剣がなまくらになるだけですから」 ミラの、王国の英雄に対しても一切の敬意を払わない氷の言葉がアイゼンを貫く。
アイゼンは震える声で告白した。 「……最強でなければならない、負けてはならないという恐怖が、私の剣を鈍らせる。敵を斬るたびに、その命の重みが私の腕にのしかかり、もう一歩も踏み出せないのだ……!」
「命の重み、ですか。鼻で笑ってしまいますね」 ミラは事務的に、トレーニングルームの中央に設置された、四方八方から鎖で吊るされた「超合金・人間吊り下げ台」を指し示した。 「あそこに、命の重みが羽毛よりも軽く、斬っても叩いても良心が一切痛まない、生ける産業廃棄物がいます。彼を、あなたのすべての恐怖と重圧を叩きつける『世界一無責任なサンドバッグ』だと思って全力で演武してごらんなさい。あなたの正義がいかに矮小な悩みであるか、その卑劣な肉体が教えてくれますよ」
アイゼンが重い足取りでトレーニングルームへ入ると、そこには騎士道の対極にある地獄が広がっていた。
「あぁ……! 威圧感! 王国最強の男が放つ、この逃げ場のない殺気の波動! 私は今、巨大な重機にプレスされる直前のスクラップのような、最高の高揚感を感じているぞぉぉ!」
ゼノスは、上半身裸で自らを頑丈な鎖で吊り下げ、全身に「弱点はこちら」「全力でどうぞ」と書かれたターゲットマークを貼り付けていた。さらに、アイゼンが剣を抜く前から、その殺気だけで勝手に悶絶し、頬を赤らめていた。
「騎士団長様……! お待ちしておりました! 私は今日から、あなたの輝かしい経歴に刻まれる『唯一の汚点』になります! さあ! その折れかけた剣で、私のこの鍛え抜かれた、しかし中身は空っぽの不浄な肉体を思う存分蹂躙してください!」
「……っ! ふざけるな! 騎士の剣は、守るべき者のためにある! 貴様のような、戦う意志なき者をいたぶるためではない!」
「意志がない!? 心外ですねぇ! 私には『あなたに完膚なきまでに叩き潰されたい』という、鋼鉄よりも堅い意志があります! ほら、この鎧……! 『騎士団長』が、『既視感』のある、『既製品』の筋肉を叩く! はぁ、最高に規律が乱れる!」
「……今の、絶対零度ですね」 ミラが背後から、アイゼンの背中に氷の剣を突き立てるように囁く。 「団長さん。あなたが守ろうとしている世界には、こういう『救いようのないゴミ』も含まれているんですよ。こいつを斬ることに躊躇いを感じるなら、あなたの正義なんてその程度のものです。さあ、王国の盾としての誇りをかなぐり捨てて、目の前の害虫を駆除してはいかがですか?」
「……おおおおお! 許さん! 貴様のような存在が、我が愛する王国にのさばっていること自体が、最大の汚辱だぁぁ!」 アイゼンの心の中で、恐怖が「純粋な排除衝動」へと塗り替えられた。 ゼノスの挑発、耳を汚すギャグ、そして何よりその存在の不快さ。それらがアイゼンの重圧を「目の前の汚物を消し去る」という単純な目的に集約させ、一人の「修羅」としての剣気を呼び覚ました。
アイゼンは抜刀し、演武用の木刀とは思えぬ速度と威力で、ゼノスに猛攻を仕掛けた。 「死ね! この変態! 貴様の存在ごと、この世の邪気を切り裂いてくれるわぁぁ!」
「ひぎゃあああ! 素晴らしい! その迷いのない一撃! 私が……私が『存在そのものが汚辱』として断罪されている! 最高の公的処刑だぁぁ!」
一時間後、アイゼンは全身から湯気を立ち昇らせ、清々しいまでの覇気を纏ってトレーニングルームを出てきた。その瞳からは迷いが消え、王都を導くリーダーとしての光が戻っていた。
「お疲れ様でした、王国の掃除夫さん」 ミラが、アイゼンに(指先でつまむように)入会特典の最高級スポーツタオル(に見える雑巾)を渡す。 「あんなゴミを全力で叩き伏せた経験があれば、どんな魔王もただの行儀の良い隣人に見えるでしょう。その調子で、王都の秩序(と変態の隔離)をよろしくお願いしますね」
「……感謝する。私は、守るべきもののために戦うのではない。こういう奴を生み出さないために、私は強くあらねばならんと気づいたのだ。あの変態に比べれば、戦場の恐怖など、ただの心地よい刺激に過ぎないな」
アイゼンは兜を被り、堂々たる足取りで王宮へと帰っていった。
「ミラさん……団長様のあの、私を『害獣』として根絶やしにしようとした無慈悲な一閃……。私の魂に、国家規模の強制退去命令が下されました……」 「そうですか。そのままあなたがこの国の国籍を剥奪され、地図にない無人島で微生物に分解されることを切に願っています。空気が汚れるので、鼻息を荒くしないでください」
「あぁぁ、国家からの追放! ミラさんによる完全なデリート!」
ゼノスが喜びのあまり床を転げ回る中、ジムの外には新たな行列が。 こうして、変態店主と毒舌受付嬢による、世界一不快で、しかし世界を一歩だけ救うジムの毎日は続いていく。 ――『不快の鉄人』、第1章・完。




