セシル、幼少のころ Ⅱ
話の通じない狂人と付き合うには、正論をぶつけるよりも表面上は受け入れ同意しているフリをするのが一番楽だと思う。
自分以外はどれも同じと軽んじて、当主からとうに切り捨てられているのに女王のように振る舞う母の姿に、父も僕も恐怖を覚えた。
母の言いなりなメイドや侍女、従者たちに眉を顰めた父は、執事長を呼び出し事情を聴いた。
母は久しぶりに会った僕を手元に置きたがったが、父が許さなかった。それだけ領地の屋敷は異常な空気に包まれていたんだ。
執事長が弁解するには、この状態が一番平和に過ごせるとのこと。
なにやら帳面を父に見せて説明している執事長の必死な様子に、僕は幼い頃メイドたちが短いスパンで辞めていったときと同じことが起きていると理解した。
父は執事長の説明に一応の理解は示した。あまり使用人が辞めるのも貴族としての体裁がよくない。しかも辞めた使用人がこちらに不服があれば、どんな悪評を立てられるか。
社交界に姿を現さなくなった侯爵夫人の悪評など、貴族夫人の大好物だろう。
父は熟考のうえ、屋敷での母の振る舞いを黙認することにした。
その代わり、社交は許さない。どこかへ誘われて行くのも、招くのも禁止した。王都へ来ることも許さないと。
ただ、領地での買い物や外食、観劇などは咎めなかった。侯爵夫人としての潤沢な予算も取り上げることはなかった。
父は母の凶行を止めるために領地の屋敷の使用人を犠牲にした。それは息子である僕も同じだった。母が求めるから僕は数年に一度、領地を訪れなければいけなくなったのだから。
……父を責めることはできない。貴族であるならば簡単に離縁などできないし、原因が母にあっても面白おかしく噂されるものだから。
それに……僕は兄に負い目があった。あんな母の狂った愛情など欲しくはなかったが、兄にとっては渇望するものだったろう。
僕はその愛を独り占めしていたのだから、狂った母の相手をするのも兄に対する贖罪の気持ちだった。
こうして、ハーディング侯爵家の歪な屋敷が完成する。
「え? 父上から外出は禁じられているはずです」
「あら、あの家はいいのよ。お隣ですもの」
母が上機嫌で、僕を着飾っていく。上質な布で仕立てたジャケットとズボン。肌触りのいいシャツ、鮮やかな色のタイ。
怖いのは、サイズがぴったりなことだ。たぶん王都の使用人から僕の体のサイズを聞いて、こちらで仕立てたんだろうけど……背中がゾワッとするぐらい怖いと思った。
父はこちらの屋敷でも仕事で忙しい。なるべく夕食は一緒に取ろうとしてくださるが、近隣の領主が訪ねてきては仕事の話になってしまう。
しかも母は同席させられないから、恐ろしいことに僕と母と二人だけの食卓となる。
そんなに母と他家との接触を徹底して排除しているのに、父の許可がある家への訪問なんて……有り得るのか?
僕がもの問いたげに周りの使用人へと視線を巡らせれば、みんな僕から顔を背けてしまう。
「母上。やはり父上にちゃんと許可を取ってください」
「いやね。大丈夫だって言っているじゃない」
クスクスと軽い笑い声を立てて母は僕の髪を丁寧に梳く。もうメイドが何度も梳いた髪を。
「お隣のオールポート伯爵家はハーディング侯爵の寄り子貴族なのよ。あちらにはセシルより少し年上のお嬢様がいらしてね。その子のお茶会に呼ばれたの。隣の領地なのだもの、仲良くしなくては。そうでしょう? 将来、レイフの婚約者になるお嬢様かもしれないのよ」
「あ……兄上の?」
父が母に外出の許可を出したのは、もしかして兄上の婚約者候補の家だから? いずれ侯爵家を継ぐ兄上の伴侶には、この母のことを隠してはおけない。
それに、オールポート伯爵家がハーディング侯爵家の寄り子ならば、ハーディング侯爵家にとって不利になることは口にしないだろう。
僕はそのまま母と一緒に馬車に乗って出かけてしまった。
父が外出の許可を出したのは、オールポート伯爵家で開かれるお茶会に誘われたのは本当は僕だけで、付き添いのメイドと執事だけを連れ顔だけ出したあと、すぐに帰ってくる手筈だったと知ったのは、すべてが終わったあとだった。
僕は、母という狂人から逃れようとして、ルチア・オールポートという魔女に出会ってしまった。




