第50話 氷刃は密やかに振り下ろされる
エルディナ連邦。
大陸最大の魔導国家にして、“秩序”を何より重んじる統制国家。
その中心都市 首都ヴァルガード。
空を見上げれば、幾重もの魔導軌道が青白く走り、巨大な浮遊輸送船が静かに都市上空を滑空していく。
地上では、自律魔導機械が石畳を巡回し、魔導灯が昼なお淡い光を放っていた。
誰もが規律に従い、誰もが決められた役割を果たす。
それは理想郷のようにも見える。
だが同時に、どこか息苦しいほど完成されすぎた都市でもあった。
そのヴァルガード中央にそびえる、白銀と黒鉄で構築された超高層塔。
“連邦統制塔”。
“連邦統制塔”の最上階は、政務を司る者だけが踏み入れる静寂の領域だった。
書類の山に囲まれながら、ひとりの男が淡々と羽ペンを走らせていた。
宰相――ダリウス=クローヴァン。
表情は氷の面のように動かず、呼吸すら気配を消している。
「……次の案件を」
声は低く、乾き、しかし圧倒的な権威を帯びていた。
そこへ、黒衣の密偵が膝をつき、恭しく報告する。
「宰相ダリウス様。
聖王国ルミネリアが……再び“魔族との和平協議”を開始したとのこと」
ダリウスの手が、ペン先の動きをわずかに止めた。
ほんの一秒。それだけだった。
密偵は、その“一秒”だけで全身に冷汗が浮かぶのを感じた。
「ふむ……再び、か」
「はっ。前回は、我々の工作により」
「潰した」
短く切るように言うダリウス。
「聖王国には、すでに警告していたはずだ。
『魔族との接触は、連邦の利益を損なう』とな」
「それでも……彼らは今回、聖女セラフィア本人が出向くと」
「……聖女自ら?」
ダリウスの瞳がようやく、わずかに揺れた。
それは“興味”ではない。“計算の変動”だった。
「愚かというより、誠実と言うべきか。
あるいは、利用価値が高まったか」
ダリウスは静かに書類を閉じた。
「……利用価値、ですか?」
「聖女は民衆にとって“象徴”だ。
光、希望、救済。
曖昧な感情を集める媒体として優秀だ」
ダリウスは椅子から立ち上がり、外の街を見下ろした。
分厚い魔導ガラスの向こうには、都市景観が広がっている。
遠くで光る軌道列車。
浮遊する広告結晶。
空中を巡回する監視機。
「人は理屈では動かん。感情で動く」
「……」
「だからこそ管理が必要だ」
その声には、確固たる思想があった。
「今回も……排除を?」
密偵は深く頭を垂れる。
「当然だ」
その一言は冷気より冷たかった。
「魔族との和平など“幻想”。
魔族は決して人類に従わない。
ならば“従う方向へ導けばいい”。
聖王国が余計な理想を振りまけば、民衆は惑う。
曖昧な希望ほど、国家にとって害はない」
宰相の視線は、都市よりもさらに遠い未来へと向けられているようだった。
「……人類の統制は、連邦の管理下でのみ成り立つ」
密偵は深く頭を垂れた。
「ははっ……まさしく、宰相閣下のご威光」
「おだては不要だ。事務作業の効率が下がる」
淡々と告げる口調は“本気”だ。
この男には、誇りも虚栄も存在しない。
あるのは国家を最適化する冷徹な意志だけ。
静寂の中、突然、空気がひやりと変わった。
気温が落ちるのではない。“心の温度”が奪われていくような冷気。
密偵が身を硬くし、後ずさる。
「……来られたか」
ダリウスが扉の方を向いた。
青の髪。
深い蒼を帯びた瞳。
薄い蒼衣の裾がひらりと揺れ、周囲の空気に霜を散らす。
第四天騎士 アリア=スノーヴェル。
氷結魔剣士にして、連邦の“最高戦力”の一角。
人型の災害。
そう呼ばれる存在だった。
「宰相……呼ばれましたので参りました」
声は優しげなのに、芯がない。
温度を感じさせない、透明な響き。
その存在自体が、“静かな冷気”だった。
密偵は自然と頭を下げる。
連邦で彼女を恐れぬ者は少ない。
戦場では一夜にして軍勢を氷漬けにし、暴走した魔獣災害を単独で鎮圧した記録すら存在する。
だが恐ろしいのは、その強さ以上に――。
彼女自身が、自らの強さへまるで執着していないことだった。
「アリア」
ダリウスは書類から視線を外さず、淡々と告げる。
「聖王国が……また“和平協議”を始める」
「……そうですか」
アリアの反応は、風が植物を揺らした程度のもの。
「前回は、彼らの会合を秘密裏に消し去った。
だが今回は聖女本人が出向くらしい」
「セラフィアが……?」
アリアのまつげが少しだけ震えた。
その事実が“悲しい”と感じているようにも思えたが、顔には何の色も浮かばない。
密偵が目を見開く。
第四天騎士アリアが、感情を見せた。
ダリウスは、その変化を見逃さなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
視線が、真っ直ぐアリアへ向けられた。
「知っているのか?」
その一言だけで室内の空気が張り詰める。
アリアは少しだけ視線を伏せた。
「……何回か。
魔獣討伐を一緒にしたことがあります」
密偵の肩がびくりと震える。
沈黙。数秒。
永遠にも感じられる静寂。
ダリウスは表情を変えない。
ただ、机に置いていた羽ペンを静かに置いた。
カツ、と乾いた音。
「……報告には上がっていないな」
声色は変わらない。怒気もない。
密偵は冷汗を流していた。
アリアは静かに答えた。
「プライベートな接触でしたので」
「聖女セラフィア・ルミナスとの接触が“私的”で済まされると?」
「任務外です。偶然協力しただけですので」
淡々と返す。言い訳の色はない。
ただ事実だけを並べている。
ダリウスはしばらく無言だった。
その沈黙が、妙に重い。
「……お前らしいな」
小さく息を吐く。
密偵が驚いた顔をした。
咎めない。
いや、“理解している”。
ダリウスはアリアの性質を知っていた。
第四天騎士アリア=スノーヴェル。
強すぎるがゆえに政治へ興味を持たず、権力争いにも執着しない。
必要なら命令に従う。
必要以上に誰かへ敵意も抱かない。
戦う理由すら、“命令だから”というだけ。
だからこそ、私的な出来事を報告対象と思わなかったのだろう。
「お前は昔から、“人間関係”を報告事項として認識しない」
「……必要でしたか?」
「通常なら必要だ。
相手が聖王国の象徴ともなれば尚更な」
ダリウスは即答した。
「……失礼しました」
アリアは素直に頭を下げる。
ダリウスは椅子へ深く座り直した。
「それで?」
「……?」
「セラフィア・ルミナスをどう見た」
アリアは少しだけ黙った。
考えている。珍しいことだった。
彼女は基本的に、“考える前に任務を遂行する側”の人間だ。
「……変な人でした」
密偵が思わず顔を上げる。
聖女を、“変な人”。
連邦でそんな表現を使う者などいない。
アリアは続けた。
「強くありません」
「ほう」
「神聖術も未熟でした。魔力量も突出してはいない」
淡々と分析する。
戦闘者らしい評価。
「それなのに、前へ出るんです」
アリアの蒼い瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「魔獣災害の時も……民を庇って、一番危険な場所に立っていました」
「……」
「怖がっているのに、逃げないんです」
その言葉だけ、妙に静かだった。
ダリウスは黙って聞いている。
「だから……少し、不思議でした」
「理解できなかったか?」
「はい。
死ぬ可能性を理解していたはずです。
なのに前へ出た。……でも。
助けられた人達は、みんな笑っていました」
指先が、わずかに動く。
ダリウスは静かに目を細めた。
「感化されたか?」
「……わかりません。ただ、“敵”には見えませんでした」
アリアは正直に答えた。
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
密偵が息を止める。
ダリウスは怒らない。
むしろ、どこか納得したように小さく頷いた。
「だからこそ危険だ。理想を信じさせる者は、秩序を乱す。
アリア=スノーヴェル」
「はい」
「魔族に味方し……
不用意な“理想”を振りまく者たちを殲滅せよ」
密偵が息を呑む。
氷の魔剣士は静かに目を伏せ、
「……静かに終わらせます。
凍えるほどに」
その声は、冬の吐息そのものだった。
任務を受けたアリアは、静かに歩き出した。
廊下を抜けた瞬間、足を止める。
連邦の魔導照明が蒼く揺らぎ、彼女の影を床に落とす。
「聖女……セラフィア・ルミナス」
つぶやいた。
「あなたは……本当に“敵”なのですか」
その声は、ほとんど息のようだった。
アリアの瞳の奥には、
感情の代わりに、ほんの僅かな“疑問”が揺れていた。
「……でも」
握った氷の剣から、霜が床に散る。
「私は、人類の剣。
命じられたなら……斬るしかない」
誰にも気付かれず、氷の花が静かに散った。
一方その頃。
ダリウスは一人、書類の山の中で新たな計画書を開いていた。
「聖王国の動きは……むしろ利用できる」
淡々と。
まるで盤上の駒を動かすように。
「聖女が動けば、民衆の情緒が刺激される。
そこに“衝撃”を加えれば……」
ペン先で書類をなぞり、項目を追加する。
『陽炎の里周辺。魔族関連の噂を拡散
→ 聖女一行の信用失墜を誘導』
「……理想主義者には、現実の冷たさを教えねば」
そのつぶやきは、皮肉ではなかった。
本気でそう信じている声だった。
「人類は、強さを示した者に従う。
ならば我々が示すべきだ。“氷”の正義を」
その瞬間、塔の外で雷鳴が轟いた。
嵐の前兆だった。
宰相の命令はすぐさま連邦全体へと伝わり、
密偵部隊、情報局、天騎士達が暗い影を走らせた。
「聖王国への偽情報ルート、すでに確保済み!」
「陽炎の里周辺で“魔族の奇妙な気配”の噂を流します!」
「連邦関与がバレないよう、第三国を介して拡散だ
深夜。
ダリウスはひとり、窓辺に立っていた。
星のない空を見つめながら、
「……総帥アーク様。
あなたの時間を奪わぬよう、すべては私が処理いたします」
その声には珍しく、敬意。いや、忠誠があった。
「世界は今、再編期にある。
弱い思想は切り捨てねばならない。
そうでなければ……“あなたの理想”には届かない」
彼の視線の先には、
未来の“支配構造図”が描かれていた。
「聖王国の光も、魔族の影も……
すべては、連邦が統制するための素材」
ペンが静かに動く。
「さて。アリアはどう動くか」
不気味な静寂が、塔の最上階を包み込んだ。




