4話 俺の不幸ターンは、まだ継続中らしい
名児耶は、すごく住みやすい町だった。
悪い思い出しかないはずなのに、おやっさんと出会えたおかげで、結局は「いい街」だと思えている。
その名児耶の隣にある綿津見市は、海と山に囲まれた自然豊かな街だ。
ごちゃごちゃした頭をリセットするために、あてもなく歩き回るにはちょうどいい。
……いや、本当はただの現実逃避だ。
あの飛行機墜落事故のニュースが頭から離れない。
ようやく手に入るはずだった平穏な日常が、顔合わせの直前に、一瞬で消し飛んだ。
東雲夫妻の死を突きつけられているのが耐え切れなくて、俺は気休めの散歩がてら、少し寂れた海辺の旧リゾート地区まで足を伸ばしていた。
かつては観光客で賑わっていたらしいが、今では閉館したホテルの残骸や、不気味な廃墟が並んでいるだけだ。
道路沿いの案内看板はすっかり色褪せて文字がかすれ、手入れの止まったホテルの植え込みからは、伸び放題になった雑草が歩道にまでせり出している。
海から吹きつける風が、古びた看板をキィキィと頼りなく揺らす。
潮の匂いに混じって、長い間使われていない建物特有の、カビ臭くて湿った空気がじっとり肌にまとわりついてきた。
そんな荒涼とした景色の中で、ひときわ異彩を放つものが、強制的に俺の目を引いた。
閉鎖されたホテルの前に、ぽつんと停まっている一台の白い綺麗なワンボックスカー。
――それが、気味が悪いほどに異質にしか見えなかった。
周囲のくすんだ廃墟の中で、その車だけが世界から浮いている。
白い車体には泥ひとつなく、鏡のように磨き上げられた窓ガラスには、どんよりとした曇り空が歪んでくっきりと映り込んでいた。
潮風が四方から吹きすさぶこの場所に放置すれば、数日、いや数時間で砂と塩を被って白く汚れるはずだ。なのに、その車には指一本分の埃すら載っていない。
誰かが、ついさっきこれに乗ってここへ来た。そうとしか思えない圧倒的な不自然さが、胸の奥をチリチリとざわつかせた。
「……なんだ、あれ?」
思わず声が漏れ、足が完全に止まる。
周囲のどこを見回しても、人の気配は一切ない。耳に届くのは、遠くで白波が砕ける音と、風が建物の隙間を抜けていく不気味な風切り音だけだ。
嫌な胸騒ぎが胃の奥を重くする。だが、その正体不明の違和感に引きずられるように、俺は確かめるためにゆっくりと車へ足を進めた。一歩近づくたびに、泥のついた靴底がコンクリートを擦る音が、妙に大きく響く。
近くで見ると、やはり異常だった。薄汚れた周囲の建物とは、明らかに纏う空気が違う。鼻腔をくすぐったのは、潮の匂いではなく、洗車直後特有のワックスの、ツンとした化学薬品めいた匂いだ。
生唾をひとつ飲み込み、そっと運転席の窓から中を覗き込んだ。
シートには誰もいない。
ヘッドレストも、ハンドルも、工場から出荷されたばかりのように真っ新だ。こうしたワンボックスのバンなら、仕事用の荷物や書類、あるいは小銭といった生活感が少しは転がっているのが普通だろう。
だが、ここにはそんなものは一切ない。ダッシュボードにも、助手席の足元にも、何一つ残されていなかった。エンジンがかかっている様子もなく、車内はシンと静まり返っている。
「……管理人の車、か? いや、まさかな」
ホテルは完全に閉鎖されて久しいのに、停車している車は、あまりに手入れが行き届きすぎている。
こんな綺麗な車を放置することなんてあるのだろうか?
あの事故のショックのせいで、俺の注意力が散漫になっていたのは事実だ。
いつもなら気付くはずの「何か」を見落としている。
もしかしたら、おやっさんみたいな探偵の真似事をしたつけかもしれない。
不意に、うなじの辺りの産毛が逆立つようにチリチリと粟立った。
脳が、本能が、遅すぎる全力の警告を鳴らし始めていた。
――ここにいちゃいけない。一刻も早く、この場を離れるべきだ。
踵を返し、車の後方へ回り込んで足早に引き返そうとした、まさにその瞬間だった。
背後の空気が、わずかに、だが確実に動いた。
人の気配が、音もなく背後にまで肉薄していた。
「っ……!?」
反射的に振り返ろうとした、その頭の回転よりも早く、後頭部に凄まじい衝撃が走る。
ドゴォッ、と脳内で鉄塊が炸裂したような爆音が鳴り響いた。
何が起きたのかを理解する暇もない。視界が上下左右グニャリと反転し、強烈な激痛が神経を焼き切るように思考を白く消し飛ばす。
足元から一瞬で力が抜けた。重力に逆らう術を失い、俺の身体は硬いコンクリートの地面へと、糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。
急激に冷たくなっていく、遠ざかっていく意識の底で。
不自然なほど真っ白な車体だけが、妙に鮮明に、焼き付くようなコントラストで網膜の奥に残り続けていた。
次に目を覚ましたとき。
俺の視界は暗く、全身にじっとりとした嫌な汗がへばりついていた。
冷たいコンクリートの床の上。身動きひとつ取れない。無理に動こうとすれば、手首と足首に縄が食い込み、鋭い痛みが走る。
俺は、古びた椅子にガチガチに縛り付けられていた
「……はぁ」
最悪だ。
どんよりとした薄暗い部屋。
鼻を突くのは、長い間人が立ち入っていない廃墟特有の、埃っぽくてカビ臭い臭いだ。
視線を巡らせれば、壁紙はところどころ無残に剥がれ落ち、天井にはひび割れに沿って大きな雨染みが不気味に広がっている。
見覚えのある寂れ具合からして、どうやらさっきまで俺がいた、あの閉鎖されたホテルの客室の一室らしい。
そこまではいい。問題は、その先だ。
俺のすぐ目の前には、幼女が二人、縄で容赦なくぐるぐる巻きにされていた。
一人は、ひときわ目を引く鮮やかな明るい金髪。
もう一人は、対照的に艶やかな長い黒髪の女の子。
金髪の子は、縄で縛られながらもこちらを鋭く睨みつけるような勝気そうな目つきをしていて、黒髪の子は、こんな状況だというのにどこか深窓の令嬢のような気品を漂わせている。
何より、二人とも着ている服が、素人目に見ても明らかに仕立ての良い高級品だった。
自分自身の置かれた状況。そして、目の前の少女たちの身なり。
どう考えても、営利誘拐の現場に巻き込まれた可能性が濃厚だった。
おそらく俺は、犯行グループにとって「予定外の目撃者」として、ついでに拉致されたに過ぎない。
どうやら俺の不幸ターンは、まだ継続中らしい。
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