25.5話 前半 明日こそ、ちゃんと話そう(純花視点)
今日の授業終了のチャイムが鳴り響いた瞬間、私は自然と教室の後ろの方へ視線を向けた。
綾君の席は、空っぽだった。
あれから一度も戻ってこなかった。
窓から差し込む夕方の柔らかなオレンジ色の光が、誰も座っていない机の上に長い影を落としている。綾君がいない。ただそれだけのことなのに、私はどうしてこんなにも気になってしまうんだろう。
……私は、なぜあんなことを言ってしまったんだろう。
胸の奥に、ずっしりと重いものが居座っている。何度考え直しても、あのときの自分の言葉をなかったことにはできない。自己嫌悪が喉の奥までこみ上げ、息をするのさえ苦しくなった。
綾君は、普段から言葉がぶっきらぼうで、近寄りがたい雰囲気を持っている。
けれど、本当はすごく優しくて、触れたくなるほど温かい人だと思う。
誰かが困っていれば、文句を言いながらも必ず手を差し伸べてくれる。素直に優しい言葉をかけることはなくても、困っている人を見捨てたりはしない。
私は、そんな綾君を知っているつもりだった。
それなのに、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
「純花は、悪いことなんて言ってないわよ。あの馬鹿、すねて昼の授業すらサボるなんて、本当にガキなんだから! まったくもう」
隣から聞こえてきたのは、シエラちゃんの呆れた声だった。けれど、その口調とは裏腹に、心配しているのが伝わってくる。彼女は小さくため息をつくと、長い髪を指先にくるくると巻きつけた。
「でも……綾君を傷つけたことには変わりないよ」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。
シエラちゃんが慰めてくれているのはわかっている。それでも、私の言葉が綾君を傷つけたかもしれないという事実は、簡単には消えてくれなかった。
なぜ、彼はあんなにも他人と距離を置くのだろう。
もちろん、世の中には近づかない方がいい人もいる。誰とでも仲良くすればいいわけじゃないことくらい、私だってわかっている。
でも、綾君の場合は違うように思えた。
まるで、自分を心配してくれる人たちまで遠ざけようとしているみたいだった。誰にも近づかせたくない何かがあって、それを守るために、わざと人との間に壁を作っているように見える。
どうしてなんだろう。
誰かと距離を置けば、傷つかずに済むのかもしれない。でも、誰もそばにいなくなったら、つらいときに頼れる人もいなくなってしまう。
孤独になればなるほど、きっと苦しくなるのに。
私はまだ、家族もいるし、シエラちゃんや沙樹ちゃんだってそばにいてくれる。だから、一人きりになることを怖いと思わずにいられる。
でも、もし私の周りから誰もいなくなってしまったら……。
想像しただけで、胸がぎゅっと締めつけられた。
きっと怖くて、夜も眠れなくなると思う。
そんな毎日を、綾君は平気で過ごしているのだろうか。
それとも、平気なふりをしているだけなのだろうか。
考えても、答えは出てこなかった。
沙樹ちゃんが、優しく微笑みながら私の肩にそっと手を置いた。
制服越しに伝わる掌の温かさに、張りつめていた気持ちがほんの少しだけ緩んだ。私は肩に置かれたその手にそっと触れ、うつむいたまま小さく息を吐いた。
今はまだ、どうすればいいのかわからない。
それでも、綾君とこのまま気まずいままでいたくなかった。
「えっとね。純花ちゃんもシエラちゃんの言うことは正しいと思うの。私はまだ綾ちゃんと話したことなんてほとんどないから、はっきりとは言えないけど……人には、触れられたくない過去や傷ってあると思うんだ。多分、純花ちゃんの言葉が、それに触れてしまったんじゃないかなぁ?」
沙樹ちゃんは、私を責めるでもなく、いつもの穏やかな口調で話していた。その言葉を聞きながら、私は小さく頷いた。
けれど、頭に浮かんだのは、少し前に綾君へ膝枕をしたときのことだった。
私の太ももに頭を預けた綾君は、しばらくすると寝息を立て始めた。普段はぶっきらぼうな彼が、あんなふうに無防備な姿を見せるなんて思わなかったから、最初はどうしていいのかわからず、落ち着かない気持ちで彼を見下ろしていた。
そのとき、綾君が寝返りを打った拍子に、シャツの裾が捲れ上がった。
目に入ったのは、背中から腰にかけて広がる、無数の傷跡だった。
鞭で打たれたような赤く長い線。刃物で深く切られたのか、白く引きつれた傷。さらに、火傷の痕らしき歪な模様まである。どれも古い傷のようだったけれど、数があまりにも多く、彼の背中を覆い尽くすほどだった。
私は思わず息を止めた。
ランプの明かりに照らされた傷跡は、肌の上にくっきりと浮かび上がっていた。普段、何気なく接している綾君の身体に、こんな傷が残されていたなんて……。
いったい、どんな目に遭えば、これほどの傷ができるのだろう。
気づけば、私は彼の背中へ手を伸ばしかけていた。けれど、指先が触れる寸前で止める。眠っている彼に触れていいのか、私にはわからなかった。
結局、何も聞けないまま、捲れたシャツの裾をそっと引き下ろした。
綾君は目を覚まさなかった。私の膝の上で穏やかに寝息を立て、ときおり小さく眉間の皺を緩めていた。
その姿を見ているうちに、私は彼が目を覚ますまで、できるだけ動かずにいようと思った。
膝に伝わる重みも、すぐそばから聞こえる寝息も、あのときのこととして今も覚えている。
あの傷跡は、きっと私たちの知らない過去と関係しているのだろう。けれど、本人が話してくれない限り、私にできることは何もない。
そう考えると、胸の奥が少し苦しくなった。
私はスカートの上で両手を握り合わせ、そっと俯いた。
そのとき、沙樹ちゃんの声が聞こえた。
「そしてね。綾ちゃんは純花ちゃんを怒ってないと思うの」
「沙樹、なんでそう思うの。よくわからないんだけど」
シエラちゃんが不思議そうに首を傾げた。
私も顔を上げ、二人を交互に見る。綾君が本当はどう思っているのか、私にはわからない。だからこそ、沙樹ちゃんの言葉が気になった。
「んー、シエラちゃん。そう言われてもそう思っただけなんだけど」
沙樹ちゃんは少し困ったように笑っていた。
はっきりとした理由があるわけではなさそうなのに、その表情には不思議な確信が感じられた。
沙樹ちゃんの勘は本当に鋭いから、もしかすると綾君が私を怒っていないというのも、当たっているのかもしれない。
「純花は、今同じ家にいるんだからさぁ、帰ってきたら話し合えばいいんじゃない?」
「話してくれるかな……」
「でも、もやもやするんだから仕方ないじゃない」
「うん……」
シエラちゃんの飾らない言葉に、張り詰めていた気持ちが少しだけ和らいだ。
綾君が何を考えているのか、私にはわからない。話しかけても、まともに答えてくれないかもしれない。そう考えると、どうしても一歩を踏み出す勇気が出なかった。
それでも、シエラちゃんは帰ってきたら話せばいいと言ってくれた。
難しく考えすぎていたのかもしれない。顔を合わせる機会があるのなら、まずは自分から声をかけてみればいい。答えてくれるかどうかは、そのときにならなければわからないのだから。
シエラちゃんのそういう、思ったことをまっすぐ伝えてくれるところは、本当にすごいと思う。
彼女が背中を押してくれなかったら、私は今日も勇気を出せず、家で綾君の帰りを待つだけだったかもしれない。
「でも綾ちゃんは、何かあれば呼べって言ってたよ」
今度は沙樹ちゃんが、私に柔らかな笑顔を向けてくれた。
綾君がそう言ってくれたことを、沙樹ちゃんも覚えていてくれたんだ。
あのときの言葉を思い返すと、少しだけ気持ちが軽くなった。綾君が私をどう思っているのかは、まだわからない。それでも、何かあれば呼べと言ってくれたことまで、なかったことにする必要はないのかもしれない。
「二人とも……ありがとう」
「友達なんだから当たり前でしょ」
シエラちゃんは少し恥ずかしそうにそっぽを向きながらも、はっきりと答えてくれた。
そんな彼女の様子に思わず笑みがこぼれる。普段は遠慮なく言いたいことを言うのに、こういうときには照れてしまうところが、なんだかシエラちゃんらしかった。
隣では、沙樹ちゃんが「うんうん」と何度も頷きながら、私の肩をぎゅっと抱きしめてくれる。
腕に触れる柔らかな感触と、そばにいる沙樹ちゃんの温もり。二人がこうして一緒にいてくれるだけで、さっきまで頭の中を占めていた不安が少しずつ薄れていった。
「あ、今日塾の日だった。ごめん純花、今日は……」
「大丈夫だよ。歩いて帰るから」
「なら途中まで私と一緒に帰ろ」
「うん、今日は沙樹ちゃんと帰るから。塾頑張ってね」
「うん、それじゃあ、また明日」
沙樹ちゃんは申し訳なさそうにしていたけれど、私は首を横に振った。塾があるのは仕方のないことだし、途中まで一緒に帰れるだけでも十分に嬉しい。
私たちは三人で顔を見合わせ、少しだけ笑い合ってから教室を出た。
廊下には、帰り支度を終えた生徒たちの声が響いていた。窓の外では夕日が傾き、校舎の壁や床を赤みのある光で染めている。
外へ出ると、夕方の風が頰を撫でた。
……家に帰ったら、ちゃんと話そう。
同じ屋根の下にいるんだから、いつまでも避けてばかりはいられない。
そう自分に言い聞かせながら、私は心の中でそっと綾君の名前を呼んだ。
校門まで来ると、シエラちゃんとはそこで別れることになった。
「じゃあね、純花。また明日」
「うん。また明日ね、シエラちゃん」
手を振って見送ると、シエラちゃんは帰り道を歩いていった。
私は沙樹ちゃんと二人で、家へ向かって歩き始めた。
昨日見たテレビドラマの話や、最近ハマっているお菓子の話をしているうちに、会話は自然と弾んでいった。いつもの分かれ道を通り過ぎても話は尽きず、私たちはそのまま並んで歩き続けた。
沙樹ちゃんの好きなお菓子は、やっぱりお母さんの杏さんが作った手作りのお菓子が多かった。
喫茶「杏」で出されるケーキや焼き菓子は、どれも杏さんが一つひとつ丁寧に作っている。見た目もきれいだし、何より本当においしい。
ふわふわのスポンジに、口当たりの軽い生クリームをたっぷり重ねたショートケーキ。ひと口かじると、さくっとした食感とともに優しい甘さが広がるクッキー。しっとりとした生地から、バターの風味がふわりと感じられるマドレーヌ。
どれも思い浮かべるだけで、また食べたくなってしまう。
特に私のお気に入りは、杏さんのクッキーだった。
噛むと心地よい音を立てて崩れ、甘さも控えめで、ついついもう一枚と手を伸ばしてしまう。食べ終わったあとに残る優しい味わいまで、杏さんの人柄に似ているような気がする。
だから、沙樹ちゃんがお母さんの作ったお菓子を好きなのも、よくわかった。
そんな話をしているうちに、気づけば家の近くまで来ていた。
「またね、純花ちゃん」
「ここまで送ってくれてありがとう」
家の敷地へ続く森林の入り口が見えてきたところで、沙樹ちゃんは足を止め、柔らかな笑顔で手を振ってくれた。
あの事件があったばかりだから、私は一人で行動しないようにと言われている。だから沙樹ちゃんは、わざわざ森林の小道へ入る手前まで一緒に来てくれたのだ。
沙樹ちゃん自分の帰り道から少し遠回りになるはずなのに、何も言わずに付き合ってくれた。その気遣いが嬉しくて、私はもう一度お礼を伝えたくなった。
「ううん。気をつけて帰ってね」
「沙樹ちゃんもね。また明日」
もう一度手を振ってから、私は森林へ続く小道に目を向けた。
木々の葉が夕方の風に揺れ、さらさらと音を立てている。地面には枯葉が幾重にも積もり、歩くたびに足元でくしゃりと乾いた音がした。
木々の間から差し込む夕日も、奥へ進むにつれて届きにくくなっていく。薄暗くなり始めた地面には、葉の隙間を通り抜けた光がまだら模様を描いていた。
さっきまで隣にいた沙樹ちゃんの声が聞こえなくなると、周囲は急に静かになったように感じられた。
私は小道へ足を踏み入れ、家へ向かって歩き始めた。
綾君は、もう帰ってきているだろうか。
もし顔を合わせられたら、今度こそ自分から話しかけよう。
そう考えながら、私は木々に囲まれた小道を進んでいった。
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