24話 河川敷での会話
夕暮れの川面がオレンジ色に染まり、流れる水に揺れていた。
俺は河川敷の草むらに腰を下ろしていた。コンクリートの階段を降りた先で、膝を立てて座り、すぐ横には携帯灰皿を置いている。
川から吹きつける風を片手で遮りながら、煙草に火を点けた。ゆっくりと煙を吸い込み、肺に溜めてから吐き出す。
気分転換にはなる。けれど、この身体で煙草を吸う感覚には、今でも少し違和感があった。
「そこの不良」
不意に、斜面の下から落ち着いた青年の声が聞こえてきた。
俺は煙を吐き出してから視線を向けた。堤防の斜面に立っていたのは、刹那だった。
白いシャツにチノパンというラフな格好で、肩にはブレザーを軽く掛けている。姿勢はまっすぐで、こちらを見つめる眼差しにも慌てた様子はない。
「刹那さんか?」
「俺でよかったと思うぞ。ったく、小学生が煙草を吸うなんてな」
呆れた口調だったが、そこにはどこか優しさも感じられた。
俺は苦笑し、口元から煙を逃がした。
「気分転換にはいいんだけど」
「本当に小学生らしくないな、お前は」
俺は煙草を携帯灰皿に押しつけ、火が完全に消えたことを確かめてから顔を上げた。川風が草を揺らし、俺たちの間を吹き抜けていく。
「それを言うなら、あの三人娘も小学生らしくないし、刹那さん自身……大学生って感じじゃなく、もっと上に見えるよ」
「そういう意味じゃないことは分かってるだろう」
刹那は軽く肩をすくめた。
確かに、大学生らしい若さはある。けれど、落ち着いた眼差しや物腰には、年齢以上のものを感じさせる雰囲気があった。
「説教なら勘弁してくれ」
「純花ちゃんか沙樹に、何かを言われたのか?」
「なんでシエラが出てこないんだ?」
俺はわざと声を弾ませた。三人娘なんだから、シエラもちゃんと入れてやらないと可哀想だろう。
「シエラちゃんとなら、口論してるだろうな」
「ああ言ったらこう言うって奴だからな」
確かに、シエラとは何かにつけて言い合いになる。あいつが突っかかってきて、俺が言い返す。気づけば、互いに一歩も引かない応酬になっている。
面倒な相手ではあるが、あのテンポのいいやり取りは、妙に癖になるところもあった。
俺は膝を抱え直し、目の前を流れていく川を眺めた。
「不破探偵から大まかには聞いてる。……年齢が実年齢と離れてるらしいな」
……まったく、あのおやっさんにも困ったものだ。
俺の事情を、もう刹那に話していたのか。
いや、ちょっと待て。
俺の事情を知ったうえで、家に住まわせようとしていたのか? こいつら、俺を毒牙にかけるつもりじゃないだろうな。
そんな考えが頭をよぎり、俺は思わずため息を漏らした。
そういう奴らじゃないことは、わかっているはずなんだがな。
俺は小さく息を吐き、夕日に染まった川面へ視線を向けた。水面を眺めながら、頭に浮かんだ考えを振り払うように、ゆっくりと息を吐いた。
「なっちまったのは仕方ないから受け入れるけど……酒、たばこ、女、ギャンブルも全部ダメなんて、何を楽しみに生きればいいんだよ」
口にした途端、自分でも情けない愚痴だと思った。だが、これまで当たり前にできていたことが、今の身体ではまともに楽しめない。頭の中は昔のままなのに、身体の都合に合わせて生活を変えろと言われても、そう簡単に割り切れるものじゃない。
「それだけっていうのは、だいぶダメ人間みたいに聞こえるんだが」
刹那は呆れたように言いながらも、声を荒らげることはなかった。むしろ、俺の愚痴をまともに受け止める気もないらしい。
「何言ってる。呑む、打つ、買う。これが男の基本原理だろうが」
俺が肩をすくめて言い返すと、刹那は軽く首を傾げた。口元には、呆れとも苦笑ともつかない笑みが浮かんでいる。
「まず、そこから直す必要があると思うぞ。だから不破探偵は、もう一度学校に通わせたんじゃないのか?」
「まぁ、実を言うと、タバコはストレス緩和にはなるけど……この身体が受け付けないのか、昔みたいにうまく感じられなくなってきた」
煙草を吸ったときの感覚を思い返し、俺はわずかに顔をしかめた。火を点けて煙を吸い込んでも、以前のような満足感がない。気分転換にはなるものの、身体のほうがついてこないらしい。
「なら、やめるんだな」
「簡単に言ってくれるな」
思わずそう返したものの、刹那の言うことが間違っているわけでもない。うまく楽しめないものに固執したところで、仕方がないのは確かだった。
「買うとは違うけど、近くに女はいるが……あれはさすがに、許容範囲外だしな」
純花たちの顔を思い浮かべながら言うと、刹那の表情から笑みが消えた。静かだった眼差しが、わずかに鋭さを帯びる。
「沙樹に手を出したら……」
「十年後はどうかわからんが、今はないだろう。それでも、下衆を一人、忠告しておいたけどな」
俺がそう答えると、刹那はすぐには言葉を返さなかった。こちらの様子を窺うように、じっと俺を見ている。
刹那の目が細くなった。妹の沙樹を心配するのは、兄として当然だろう。
俺は、ここに来るまでのあらましをゆっくりと話し始めた。
転校生のこと。あいつが使っていたと思われる魅了系の能力。そして、俺がそれを警戒して行動したこと。
話している間、刹那は余計な口を挟まず、静かに耳を傾けていた。川の流れる音が途切れることなく響く中、俺は膝を抱えた姿勢のまま、必要なことを順番に説明していく。
「それは助かったのだが、それなら、言い合いになる要素がないのではないか」
話を聞き終えた刹那が、不思議そうに首を傾げた。
「人間関係なんて、損得勘定か快楽のための方便しかないだろう」
俺にとっては、ごく当たり前の考え方だった。相手と付き合うことで何かしらの利益があるか、一緒にいて楽しいか。わざわざ関係を続ける以上、そこには何かしらの理由がある。俺はそう考えている。
「それは違う」
刹那は静かに首を振った。
「あと一つ忘れていた」
「それだ!」
思わず声が弾んだ。ようやく、俺の考えを補強する材料が出てきたと思ったのだ。
「義務感だ」
「違う」
即座に否定すると、刹那は呆れたように息を吐いた。
「なんでだよ。義務感で人間関係を続けることだってあるだろうが」
「そういう話をしているんじゃない。お前が言っているのは、結局、自分にとって都合のいい人間しか必要ないということだろう?」
「当たり前だろ。何の得もない、楽しくもない、それどころか面倒なだけの相手と、好き好んで付き合う理由がどこにある」
俺は肩をすくめた。刹那の言いたいことはわからなくもないが、だからといって納得できるわけじゃない。
「それなら、義務感はどうなんだ。自分にとって得がなくても、楽しくなくても、果たさなきゃならないことはあるだろう」
「あるとすれば、子供に対する責任くらいだな」
俺は間を置かずに答えた。
「やることやって子供が生まれたんだ。責任をもってやらないとダメだろう。恋愛感情があろうとなかろうと、子供を作った以上、親としての責任は果たすべきだ。俺にとっては、それだけの話だ」
自分たちの行為で子供が生まれたのなら、その子に責任を持つ。それは好きだの愛しているだのといった感情とは別の話だ。恋人同士がどんな気持ちで付き合おうと勝手だが、子供まで巻き込んでおいて、気持ちが冷めたからと責任を放り出すのは筋が通らない。
刹那は俺の話を黙って聞いていた。すぐに反論することもなく、こちらの言い分を確かめるように視線を向けている。
「……お前の言いたいことはわかった。だが、それだけで人間関係のすべてを説明できるとは、俺には思えないな」
「そうか? 俺はそういうものだと思ってるけどな」
俺が肩をすくめると、刹那は小さく息を吐いた。
「まあ、考え方は人それぞれだ。俺はお前がどんなつらい過去を経験して、どうしてそう考えるようになったのか、詳しくは知らない。当事者じゃない俺が、わかったようなことを言うつもりもない」
刹那はそこで一度言葉を切り、俺の顔を見た。
「ただ、俺も純花ちゃんと同じ意見だ。綾は悪い奴じゃないと思ってる。あの子たちは結構警戒心が強いんだ。それでもお前と関わろうとしている。それがどういうことなのか、少しは考えてみてもいいんじゃないか?」
警戒心が強いね。俺は心の中で苦笑した。
めちゃくちゃゆるゆるじゃないか。
沙樹なんて、親友に何を言われたのか知らないが、それだけで俺と友達になろうとしている。ガードが甘すぎるだろう。
シエラと純花にしたって、危険な目に遭ったところを助けただけだ。たまたまその場に居合わせて、手を貸しただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。それだけなのに、俺がいい人認定? ゆるゆるな査定じゃないか。
「どう考えても、吊り橋効果だろ?」
自嘲気味に口にすると、刹那は否定するでもなく、穏やかな笑みを浮かべた。
「そこまで自分を卑下しなくてもいいだろう。その心の氷が解けることを祈ってるぞ。どうしても暴れたくなったら、うちの道場に来い。武術の相手くらいならしてやる」
「それだけはありがたく受け取っておく」
道場か。家に道場まであるのか?
やはり如月家も、相当な規模の家らしい。茶店って、そんなに儲かるものなのか?
そんなことを考えているうちに、刹那はゆっくりと立ち上がった。チノパンについた埃を軽く払い、俺に手を上げてから堤防の階段へと向かう。
その背中が夕陽に染まり、階段を上っていくにつれて小さくなっていく。やがて姿が見えなくなると、俺は草の上に仰向けに倒れ込んだ。
俺があの子たちに好意を持っている?
馬鹿らしい。
ただ家に住まわせてもらっているだけだ。何かあれば気分が悪いから、気にかけている。それだけのことだ。
別に、あいつらのことが特別に気になるわけじゃない。これは好意なんかじゃなく、やはり義務感だろう。
寝転んだまま空を見上げていると、夕焼けは少しずつ薄れ、空が紫色に変わり始めていた。
それにしても、このまま帰ったら純花と鉢合わせするか。
……なんとなく気まずいな。
俺は小さく息を吐き、重い体を起こした。携帯灰皿をポケットにしまい、草を払ってから河川敷を後にする。
街の方へ歩き始めると、街灯が一つ、また一つと点灯し始めた。淡い光が足元を照らす中、俺は帰り道をたどっていった。
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