23話 屋上で交わす、否定できない言葉
午前中の授業は、苦痛でしかなかった。
まさかこの年で、割り算を一から学び直すことになるとは思わなかった。しかも、一限目が始まる前には、朝のお祈りという習慣まであることを知った。
神仏なんてくそくらえだと思っている俺に、どうして神に祈らなきゃならないんだ。そう突っ込みたくなったが、さすがに口には出さなかった。
記憶をたどれば、授業の進み具合は普通の小学校より早いようにも思える。ただ、俺が学校に通っていたのは三十年以上も前の話だ。細かいカリキュラムなんて覚えていないし、比較したところで正確なことはわからない。
そんなこんなで午前中の授業をどうにか乗り切り、昼食の時間になった。
俺は彼女たちに連れられ、屋上へとやってきた。
シートを広げ、その上に並んで腰を下ろす。まるでピクニックにでも来たような光景だった。周囲にはのんびりとした空気が流れ、三人はそれぞれ昼食を広げている。
そんな中、シエラだけは違った。
食事をしながら、説明しろと言わんばかりの視線を俺に向けてくる。
……はいはい。さっきのやり取りの事を説明しろってわけか。
「説明って言われてもなぁ。想像の域を出ないんだけど」
「それでも構わないわよ。何か私たちにしていたんでしょう?」
シエラに促され、俺はさっきの転校生について考えを整理した。
「シエラの言う通りだな。魅了系の能力だ。じわじわと自分に好感を持つように仕向けていたんだろう。完全に堕ちたら、奴の命令なら何でも聞くようになる。たぶん、そんな感じだろうな」
「綾君、多分って……」
純花が不安そうに俺の顔を覗き込んできた。
「俺がかけたわけじゃないから、完全にはわからん」
質問に答えながら、俺は肩をすくめた。
実際、あいつの能力を詳しく調べたわけじゃない。目の前で起きたことをもとに、どういう能力なのか推測しているだけだ。断言できるほどの材料はなかった。
「そう。……でも、女って言われたときはびっくりしたわよ」
「彼女なわけないだろうが。何がうれしくて、出るとこ出てない奴を好きに……」
そこまで言いかけたところで、シエラが巾着袋を俺に投げつけてきた。
飛んできたそれを、俺は反射的にキャッチする。
「危ないだろうが!」
「そのセクハラ発言、いい加減にしなさい!」
「セクハラだと? 本当のことだろうが。何がうれしくて……いや、失言だったな」
シエラの剣幕に、俺は言葉を切った。
……さすがに言い過ぎたか。
手にした巾着袋を脇に置き、俺は改めて口を開いた。
「恋愛感情なんて、一種の興奮剤と同じだ。しょせん、人間関係なんて損得勘定か、快楽を得るための方便だろ」
「違うよ!」
普段、大声を出すことのない純花が、突然声を張り上げた。
予想外の反応に、俺は思わず口を閉ざした。隣にいたシエラも、向かいに座っていた沙樹も驚いたように目を見開き、純花へと視線を向けている。
「そういう人たちがいるのは知ってるよ。でも……綾君はそんな人じゃない」
純花は少し困ったように眉を下げながらも、俺から目をそらそうとはしなかった。
「何を知ってる、俺のことを?」
「知らないよ」
思いのほか、あっさりと返された。
もっともらしい理由でも並べてくるかと思っていた俺は、拍子抜けしてしまう。だが、純花は小さく首を振ると、すぐに言葉を続けた。
「でも、綾君はどうして日にちを繰り上げて学校に来たの?」
「本当にすごいカリスマ性を持った奴を見たかったのと、後々面倒なことを排除したかったからだ。俺の都合だな」
「うそだよ」
純花は迷いなく言い切った。
「……あ?」
こいつ、なんで嘘だと決めつけやがる。
「私たちのことを心配してくれたんだよね?」
「買い被りだ」
俺は即座に否定した。
そもそも、俺が何を考えて行動したのかは、俺自身が決めることだ。純花に勝手な解釈をされても困る。
だが、純花は俺の否定に怯むどころか、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「だって、穏やかに私の膝で寝てたから。あんな表情ができる人が、そんな風に考えるとは思えないよ」
「それだけで何がわかる。それに、膝枕はてめえが勝手にやったことだろうが」
「うん。私が勝手にしたことだよ」
純花は素直に頷いた。
反論してくると思っていた俺は、思わず言葉に詰まった。ここで否定されると、かえって調子が狂う。
「でも、綾君は嫌がらなかったよね? 嫌だったら、あの時点で起きてたはずだよ」
「眠かったからな」
「それだけ?」
「それだけだ」
間髪入れずに答えると、純花は少しだけ頬を膨らませた。
……おい。話の趣旨が変わっているだろうが。
「もう。綾君って、すぐそうやって誤魔化すんだから」
「誤魔化してねえよ」
「じゃあ、私の膝枕は嫌だった?」
「……そういう話じゃねえだろうが」
真正面から問い返され、俺は返事に詰まった。
嫌だったと答えれば、あのとき穏やかに眠っていたことと矛盾する。かといって、嫌じゃなかったと認めれば、それを理由にまた何か言われるに決まっている。
くそっ。普段はおっとりしているくせに、妙なところで鋭い奴だ。
俺が答えに窮していると、純花はふっと表情を和らげた。
「わかることもあるよ。私たちに心を開いてくれてるってこととか。それは情欲や損得勘定じゃないよね?」
「そうだと言ったら?」
俺はわざと突き放すように問い返した。
純花はすぐには答えなかった。いったん口を閉じ、考えるように視線を落とす。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、私は綾君を信じるよ。私が勝手に信じてるだけだから、綾君に許可を取る必要はないよね?」
「何を根拠に?」
「綾君が、私たちを助けてくれたから」
「それは面倒事を避けるためだと言っただろうが」
「うん。綾君は、そう言うと思った」
純花は小さく笑った。
その笑顔が、なぜか妙に癪に障った。俺の言い分を理解しているくせに、それでも自分の考えを曲げるつもりはないらしい。
「綾君は、自分に嘘をついてるよ。私たちを助けてくれたことも、私の膝枕で穏やかに眠っていた綾君も、私は信じてる」
純花の声には、さっきよりも少しだけ力がこもっていた。
それでも、俺を責めるような口調ではない。俺が何を言おうと、自分の信じたいものを信じる。そんな意思が伝わってきた。
「勝手にしやがれ。それはてめえが勝手に思ってるだけだ。てめえの考えを変える権利なんて、俺にはねえからな……何かあれば呼びやがれ。お前らに何かあれば目覚めが悪い」
口にしてから、俺はわずかに眉をひそめた。
何をガキ相手にムキになっているんだ。大人げない。
結局、何かあれば呼べとまで言ってしまった。これじゃあ、純花の言い分を認めたようなものじゃないか。
いや、違う。こいつらに何かあれば面倒だからだ。
そう自分に言い聞かせていると、純花が嬉しそうに笑った。
「……うん。ありがとう、綾君」
礼を言われるようなことはしていない。俺は自分の都合で動いただけだ。それなのに、どうしてこいつは、そんなに嬉しそうにするんだ。
俺は純花から目をそらした。
……くそっ。図星を突かれて、むかつくぜ。
純花に腹を立てているわけじゃない。自分の言い分を否定しきれない俺自身に腹が立つのだ。
こいつらが傷つくのを嫌だと思う理由なんて、多分、家賃代わりだ。金を払う代わりに、こいつらのことを見守る。それだけの話だ。
「……俺は帰る」
「あ、綾君? もう帰っちゃうの?」
「用事は済んだ。学校にいる理由もねえだろ」
「でも、まだお昼だよ?」
「知るか」
素っ気なく返すと、純花は何か言いたそうに口を開きかけた。けれど、結局は何も言わず、心配そうに俺を見つめている。
……そんな顔をするな。
これ以上ここにいたら、また余計なことを考えてしまいそうだった。
俺は三人に背を向け、そのまま早退することにした。
直近の目的は達成できた。あのオッドアイの男の能力も確認できたし、今後の対策も考えられる。
今は、それで十分だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は河川敷へ向かった。小さく息を吐き、頭の中を切り替えようとする。
……まったく、面倒な奴らだ。
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