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転生したら女の子みたいな見た目の男の子になってたけど……平穏なんていうのは無かった  作者: 綾
1部 出会い

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18話 俺と友達になりたいとかいう奇特なお嬢様

 リチャードさんと茉莉花さんは、仕事に出かけてしまった。

 茉莉花さんは服のデザイナーをしているらしい。昨日の食事のときに、本人からそう聞いた。ついでに、今度俺の服も作ってあげると言われたのだが、俺は曖昧に返事をしておいた。

 多分、社交辞令の類だろう。わざわざ本気にする必要もない。


 当然だが、シエラも学校へ行った。

 良いところのお嬢様だから、勉強以外にも習い事が多いんだろうな。最近の子供は、昼間は学校に通い、放課後は塾や習い事で忙しいと聞いたことがある。

 ましてやシエラは、本物のお嬢様だ。俺と顔を合わせる時間なんて、ほんのわずかしかないだろう。


 家主たちは全員出かけていて、この家に残っているのは俺と使用人だけだった。

 ……しかし、よく他人を家に置いておけるよな。

 俺みたいな素性のよくわからない人間を、これだけ警戒せずに受け入れるなんて、どういう神経をしているんだか。

 少し家の中を探れば、一財産築けるくらいの物が見つかるんじゃないかと思うほどだ。もちろん、そんなことをするつもりはないけどな。

 こちらに干渉してこないのであれば、俺としても文句はない。

 何より、寝心地のいいベッドで好きなだけゆっくりできる。それだけでも、ここにいる価値は十分にあった。

 できれば、そばに抱ける女性がいれば最高なんだが……まあ、贅沢は言うまい。

 ……とはいえ、やることがねえな。

 せっかくの自由時間だというのに、暇を持て余してしまう。


「ティア、いるんだろ」

『何もない空間に向かって話しかけると、不審に思われますよ。心の中で話しかけていただければ、こちらには伝わります』

「便利だな」


 言われたとおりに、頭の中でティアに話しかけてみる。

 ……本当に、こいつはAIというより、人間と話しているような気分になる。

 本当にこいつは、AIというより人間と話しているような気分になる。

 頭の中に直接語りかけてくる声も、受け答えの自然さも、機械を相手にしているとは思えないほどだ。

 ……まったく、便利なのはいいんだが、どうにも妙な気分になる。

 とはいえ、ティアの言い分はもっともだった。

 今は俺しかいないからいいものの、誰かがいるところで独り言を続けていたら、周囲から不審な目で見られるに決まっている。

 頭の中で会話ができるなら、その心配もない。これからティアに聞きたいことは増えていくだろうし、覚えておいて損はない機能だ。


『どうかしたのですか?』

「やることがねえから、魔法のことを教えてくれ」

『やる気があるのはいいことですね』

「最低限のことは知っておかないとな。いつトラブルに巻き込まれるかわかったもんじゃない」

『わかりました』


 こうして俺は、ティアから魔法の基礎知識や練習方法について教わることになった。

 魔法の基礎知識から、その練習方法まで、ティアの説明はどれも初めて聞くことばかりだった。

 前世には魔法なんて存在しなかったし、今の世界でも、魔法があるなんて、あのトラブルの時に知ったばかりだ。そんな俺にとって、ティアから教わる知識は何もかもが新鮮だった。

 疑問に思ったことをその都度質問し、ティアの説明を聞いては頭の中で整理する。そんなやり取りを繰り返しているうちに、気づけば窓の外が夕暮れに染まっていた。

 ……やばい。思った以上に時間が経っている。

 それなりに頭を使ったせいか、さすがに疲れも出てきた。

 俺はベッドに横になり、柔らかな寝具に身体を沈めた。

 ああ、やっぱりベッドは最高だ。

 このまま夕飯まで寝ていられたら、どれだけ幸せだろう。

 そんなことを考えているうちに、まぶたが少しずつ重くなっていく。

 意識がゆっくりと沈み、眠りに落ちかけた、その瞬間だった。

 コンコン。

 ……ったく。

 どうしてこう、至福のタイミングに限って邪魔が入るんだ。

 俺は重い身体を起こし、渋々ベッドから降りた。

 夕飯の迎えだろうか。そう考えながらドアを開けると、そこに立っていたのはシエラだった。


「げっ」

「ゲッとは何よ!」


 俺の声を聞いた途端、シエラが頬を膨らませて睨んできた。

 ワンピースにリボンを合わせた、いかにもお嬢様といった格好だ。普段からそれなりに様になっているが、こうして真正面から睨まれると、妙な威圧感がある。


「いや、塾だろうと思ってたんだよ。こんなに早く帰ってくるなんて思わなかったんだ!」

「残念ね。今日は塾がお休みなの」

「なぜ?」

「そんなの、あなたがいるからに決まってるじゃない」

「俺のことは気にするな!」


 頼むから、俺のことなんて放っておいてくれ。

 せっかく一人でのんびり過ごせると思っていたのに、どうしてわざわざ会いに来るんだよ。


「そうもいかないわよ。だって……えっと……一緒に暮らすかもしれないわけだし」

 シエラはそこで言葉を切ると、少しだけ顔を赤らめた。

「勘違いしないでよね……部屋が同じってわけじゃないんだから!」

 何をどう勘違いしろっていうんだ。

 シエラは落ち着かない様子で指先をもじもじと絡めている。さっきまで強気に言い返していたくせに、妙なところで歯切れが悪くなるのは何なんだ。

「そんなの俺もお断りだ! ガキの女と一緒の部屋なんて願い下げだ」

「なにそれ、私と一緒の空間が嫌だって言いたいの?」


 シエラが目を大きく見開いた。

 さっきまでの照れた様子はどこへやら。今度は、傷ついたような顔で俺を見つめてくる。


「そんなこと誰も言ってねえだろ。飛躍すんなよ。ましてや、お前はこの家の箱入り娘だろう」

「お前じゃなくて、シエラよ」

「別に構わんだろ」

「構うわよ! 私の親友が言うには、友達は名前で呼び合うものなんだって! お前とかあんたとかじゃダメなんだから!」


 ……なんだ、その理論は。

 童謡かよ。友達百人できるかな、じゃねえんだぞ。

 そもそも、いつから俺たちは、友達になったんだ?

 そんなことを真顔で信じているあたり、やっぱり俺とは住む世界が違うらしい。


「いつ友人になった? 顔見知りではあるが」

「何よ。私とは友達になれないってわけ?」

 シエラが一歩前に出た。

 そして、じとーっと上目遣いで俺を睨んでくる。

「んなこと言ってねえだろ」

「言ったわよ」

「言ってねえ」

「言った……うう……」


 ……おい。

 シエラの目尻に、うっすらと涙が浮かんでいた。

 マジで何なんだよ。今度は泣き落としか?

 さっきから、こいつの感情の切り替わりが激しすぎる。怒ったと思えば照れ、今度は泣きそうになる。こっちは普通に会話をしているだけなのに、どうしてこんなに気を遣わなきゃならないんだ。


「これじゃ水掛け論だ! もういい、シエラで良いな」

「わかればいいのよ」


 シエラはふんっと鼻を鳴らすと、急に胸を張って得意げな顔をした。

 ……こいつ、何で上から目線で勝ち誇れるんだ?

 名前で呼ぶことを認めただけで、何かに勝ったつもりなのか。

 本当にガキって面倒くさい。

 よく「これだから女と子供は」なんて言い方をするが、こういうところが同じ括りにされる理由なのかもしれない。

 それとも、上流階級のお嬢様は全員こんな感じなのか?

 ……いや、違うな。

 シエラと同じくらいの年齢でも、純花はこんなふうにはならないだろう。

 となると、こいつの性格に問題があるだけなのか。

 ……どちらにしても、面倒なことに変わりはない。


「ねえ、綾のこと教えてよ?」

 唐突に、シエラが目をキラキラさせながら聞いてきた。

「教えるって言ってもなぁ……。なんで急に知りたがるんだ? 誰彼構わず懐に入るのは危険だぞ。特にシエラみたいな箱入りお嬢様は」

「綾とは友達になりたいのよ。興味があったら聞きたくなるでしょう?」

「そんなもんか……」


 友達になりたい、ねぇ。

 生前、俺に本当の友人なんて一人もいなかった。

 そもそも、誰かと親しくなろうなんて考えたこと自体、ほとんどなかった気がする。女の情報なら寝るためにあれこれ集めていたが、目的を果たせば大抵のことはすぐに忘れていた。

 そんな俺に向かって、友達になりたいなんて言ってくるとは。

 随分と世間知らずなお嬢様だな。


「綾は今年で九歳。以上だ」

「そんなの知ってるわよ。そうじゃなくて、趣味とか好きなものとか、いろいろあるでしょ?」

「面倒くせえ……。じゃあ、先にシエラの話を聞かせろ」


 自分のことをあれこれ話すより、相手の話を聞いているほうが楽だ。適当に相槌を打っていれば、勝手に話が進むからな。


「は~い、いいわよ!」

 シエラは嬉しそうに返事をすると、ベッドの端にちょこんと腰を下ろした。

 そして、待ってましたと言わんばかりに話し始める。

 ……まぁ、聞いてみれば聞いてみたで、なかなか凄まじい内容だった。

 まず、この家には犬が数十匹もいるらしい。

 数十匹って、どんだけだよ。

 金持ちって犬好きが多いよな。いや、別に犬が嫌いなわけじゃない。むしろ、動物は好きなほうだと思う。だが、普通の家庭で飼う数じゃねえだろ。

 なんでそんなに増えるんだ?

 気になったので、シエラに頼んでスマホで写真を見せてもらった。

 そこに映っていたのは、大型犬から小型犬まで、実にさまざまな犬たちだった。毛がふわふわのやつもいれば、短い毛がツンツンしているやつもいる。犬種も大きさもバラバラで、写真を見ているだけでも相当な数がいるのがわかった。


 しかも、犬たちは家の中だけで飼われているわけじゃないらしい。

 なんと、別棟に犬専用の建物まであるという。

 その名も、犬ハウス。

 いや、名前はどうでもいいんだよ。

 別棟ってなんだ、別棟って。

 犬のためだけに建物を一つ用意するとか、どこの豪邸だよ。……いや、豪邸だったわ、ここ。

 そもそも、その犬ハウスって一般家庭の家よりデカいんじゃねえのか?

 犬の住む場所に負ける人間の家って、どうなんだよ。

 ふざけんな。金持ちの考えることは、俺の理解できる範囲を軽々と超えてくるな。


 その後は友人の話になったが、出てくる名前は純花と沙樹という子ばかりだった。

 学校の話をしていても、遊びの話をしていても、気がつけばその二人の名前が出てくる。

 ……友人、少ないのか?

 いや、待て。俺がそれを言うのはおかしいな。

 そもそも、俺には友人と呼べる相手がいなかったんだ。人数を比べたところで、勝負にすらならねえ。

 ……まあ、今は友達になりたいと言ってくる相手が目の前にいるわけだが。

 それを素直に喜べるほど、俺は人付き合いに慣れていない。


「普段はどんな遊びをしてるんだ?」

 とりあえず、話を広げるために聞いてみる。

「お茶会をしたり、テレビゲームをしたり、みんなで映画を見たりするわよ」

「お茶会って……。さすがお嬢様だな」

 小学生の遊びとして、お茶会が真っ先に出てくるあたりがいかにも金持ちのお嬢様らしい。

 俺が子供の頃に何をしていたかなんて、もう細かくは覚えていないが、少なくとも友達を集めてお茶会を開くような生活ではなかったはずだ。

 テレビゲームや映画なら、まだわかる。

 最近のガキも、そういう遊びをするんだな。

 ……いや、当たり前か。俺の中身が四十過ぎのおっさんだからって、子供の遊びまで昔のままだと思うほうがおかしい。


「学校はどうなんだ? 楽しいのか?」

「ええ。友達がいるから楽しいわよ!」

 シエラは迷いなく答えた。

 どうやら、学校そのものが好きというより、友達と一緒に過ごす時間が楽しいらしい。

「授業は?」

「つまらないわね」

「即答かよ」

「だって、テストも簡単すぎるんだもの。もっと難しい問題を出してくれればいいのに」

 どうやら、勉強ができすぎて退屈しているタイプらしい。

 なるほどな。出来すぎるせいで、学校の授業に歯ごたえがないってわけか。

 俺とはえらい違いだ。

 こっちは前世の記憶があるとはいえ、今の身体で学校に通うことになれば、面倒なことが山ほど待っているだろう。

 しかも、相手は同い年の子供たちだ。

 精神年齢が違いすぎる俺が、うまくやっていけるとは思えない。

 ……まあ、まだ通い始めてもいないんだ。今から心配しても仕方ないか。

 それよりも、目の前のお嬢様は、どうやら俺のことをもっと知りたいらしい。

 さて、どこまで話したものか。

 前世のことまで正直に話すわけにもいかないし、適当に誤魔化すしかないよな。


「ねえ、もう私の話ばっかり! 今度は綾のことを教えてよ?」

「さっきも言っただろ。俺は九歳だって」

「そうじゃなくて、好きなものとか趣味とかよ!」


 ……好きなものねぇ。

 さすがに、抱ける女とか酒とか煙草とかギャンブルなんて答えるわけにはいかないよな。

 今の俺は、どう見ても九歳の子供だ。中身が四十過ぎのおっさんだと知られたところで、まともに信じてもらえるとは思えない。そもそも、そんな話をしたところでシエラが喜ぶとも思えないしな。


「別にない」

「面倒なだけでしょう?」

「俺のことを知っても面白くねえぞ」

「それを決めるのは綾じゃなくて、私よ」


 ……それはごもっともだ。

 自分のことを面白いと思うかどうかは、相手が決めることだからな。

 とはいえ、改めて趣味を聞かれても困る。

 酒、煙草、ギャンブル、女。このあたりを除けば、寝ることくらいしか思いつかねえ。

 ただし、一人で寝るのが好きってわけじゃない。女付きなら、なおさらいい。

 ……なんて、口が裂けても言えるか!


「どうあっても言いたくないのね」

「仕方ないだろ。思いつかねえんだよ」

「う~……」

 シエラは頬をぷくっと膨らませ、不満そうに唸った。

 そんな顔をされてもな。ないものはないんだよ。

 俺だって、好きで話をはぐらかしているわけじゃない。今の自分にふさわしい趣味を考えたところで、前世の趣味をそのまま答えるわけにもいかないんだから、どうしようもねえだろ。

 ……まあ、こいつとしては、俺のことを知りたくて聞いているんだろうけどな。

 ふっ。

 それにしても、シエラのおしゃべりに付き合うのも、意外と悪くない。

 さっきまでは暇を持て余していたが、こうして話しているだけでも、それなりに時間は潰せる。

 ガキの相手は面倒だと思っていたが、案外こういう過ごし方もありなのかもしれない。


「やっと笑ったわね」

「笑った? 見間違いだろ」

「ううん、ちゃんと笑ったよ。そうやって笑ってればいいのに。きっと、もっと楽しいと思うわよ」


 シエラは少し照れくさそうに微笑みながら、そう言った。

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが引っかかった。

 ……何も知らないくせに。

 次の瞬間、俺はシエラの細い肩を掴み、勢いよくベッドに押し倒していた。


「何も知らないくせに……てめえみたいなガキが、偉そうに……」

 シエラの背中が、柔らかなシーツに沈む。

 俺は彼女の上に覆い被さるような格好になり、逃げ場を塞ぐように顔を近づけた。

 ほんの少し前まで、他愛もない話をしていたはずなのに。

 自分でも、どうしてこんなことをしたのか、すぐには整理できなかった。ただ、あの言葉を何も考えずに受け流すことができなかった。

「何よ! 知らないわよ、だって教えてくれないんだもん! 何する気……!? 襲いたかったら襲いなさいよ! 一応、そういう知識だけはあるんだから……!」


 シエラは俺をキッと睨みつけた。

 強気な言葉とは裏腹に、その声は明らかに震えていた。頬は耳まで真っ赤に染まり、俺の胸元を押し返そうとする手にも力が入っていない。

 それでも、彼女は目を逸らさなかった。

 いきなり押し倒されれば、誰だって驚く。ましてや、ついさっきまで普通に話していた相手が突然こんな真似をしたのだから、シエラが動揺するのも当然だろう。

 なのに、シエラは必死に強がっていた。


 ……まったく、何をやっているんだ、俺は。

 目の前にいるのは、まだ九歳の子供だ。

 俺が何を考えていようと、どんな過去を抱えていようと、こいつにぶつけていい理由にはならない。

 それに、こいつのこういう意志の強さが、俺がシエラたちを突き放そうとしても、そうしきれない理由の一つなんだろうな。


「……興が覚めた」

 俺は低く吐き捨てると、すぐに身体を離した。

 ベッドから立ち上がり、乱れた息を整える。

 シエラは起き上がることも忘れたように、ベッドの上で俺を見つめていた。その表情には、まだ怯えが残っている。

 ……当然だ。いきなりこんな真似をされたんだからな。


「ガキを襲うわけねえだろ」

 吐き捨てるように言ってから、俺は小さく息をついた。

「……悪かった。手荒な真似をして。本当に何もない。ただ、少しカチンときただけだ」

 謝ったところで、やったことがなかったことになるわけじゃない。

 それくらいは、俺にもわかっている。


 シエラはベッドの上でゆっくりと上体を起こし、乱れた髪を手で整えた。頬にはまだ赤みが残っていたが、やがて顔を上げると、俺のことをじっと見つめてきた。


「私も、気に障ることを言ったみたいね。ごめんなさい。でも、綾と友達になりたいって思ったのは本当よ」

 思いがけない言葉に、俺は返事に詰まった。

 さっきのことを考えれば、怒鳴られたって文句は言えない。なのに、こいつは自分の言葉にも原因があったと認めたうえで、まだ俺と友達になりたいと言っている。

「あぁ……気持ちだけもらっておく。ありがとうな」

 俺は少しばつが悪くなり、シエラから目を逸らした。

 真正面からそんなことを言われると、どうにも調子が狂う。適当にあしらって終わらせるつもりだったのに、これではこっちまで気まずくなるじゃねえか。

「今回はそれでいいわ。でも、諦めないんだから」

 シエラはそう言って、くしゃっと顔をほころばせた。

 その笑顔には、さっきまでの怯えはもうほとんど残っていなかった。むしろ、こちらが何を言おうと簡単には引き下がらないという、妙な強さが感じられる。

 ……本当に、面倒なガキだ。

 そう思う一方で、俺はもう一度、シエラの顔を見てしまった。


「じゃあ、またね、綾!」

 シエラは名残惜しそうにこちらを振り返ってから、部屋を出て行った。

 扉が閉まると、部屋の中は急に静かになった。

 その後、夕飯に呼ばれたが、俺は「体調が悪い」と嘘をついて断った。

 今は誰とも顔を合わせたくなかった。

 シエラと話す前なら、こんな気分にはならなかったはずだ。適当に相手をして、暇を潰して、それで終わり。そういうつもりだったのに、どうしてこうなったんだか。

 ……友達になりたい、か。

 奇特な奴だ。

 人間、一人じゃ生きていけない。それくらいは分かっている。誰かと協力しなければできないこともあるし、困ったときに助けてくれる相手がいるのは悪いことじゃない。

 だが、俺には最低限の人間関係だけで十分だった。

 深く関われば、相手のことを考えなきゃならなくなる。相手の事情に巻き込まれることもあれば、こっちの事情に巻き込んでしまうことだってある。

 そういう面倒は、もうたくさんだ。

 まっすぐで、純粋で、厄介なほど優しいあいつらを、俺は巻き込みたくない。

 シエラも、純花も、何も知らないからこそ、あんなふうに近づいてこられるんだろう。

 俺のことなんて、知らないままでいい。

 ……そのほうが、きっといいんだ。


 俺はベッドに腰を下ろすと、服の内側に隠していた煙草を取り出した。一本を指で挟み、火を付ける。

 先端が赤く灯り、煙がゆっくりと立ち上った。

 ……生前は、これが癒しだったんだがな。

 仕事やら何やらで嫌なことがあっても、煙草を吸っている間くらいは余計なことを考えずに済んだ。別に健康にいいわけでもないし、今となっては身体に悪いことくらい分かっている。それでも、長年の習慣ってのは簡単には抜けないものだ。

 ところが、今の身体はそうはいかなかった。

 ひと息吸い込んだだけで、喉に引っかかるような刺激を感じる。慌てて煙を吐き出したものの、胸の奥まで妙な違和感が残った。

 ……おいおい。煙草すらまともに吸えないのかよ。

 まったく、どこまで不便なんだ、この身体は。

 二、三度だけ煙を吐き出し、俺は煙草を灰皿に押しつけて火を消した。

 短い時間だったが、気分転換にすらなりゃしない。

 諦めて横になると、ふかふかのシーツが身体を包み込んだ。

 静かで、広くて、柔らかい。

 ベッドの寝心地は文句のつけようがない。こんな贅沢な寝床で休めるだけでも、十分すぎるほど恵まれているはずだ。

 それなのに、どうにも気分が晴れなかった。

 俺は天井を見つめたまま、小さく舌打ちした。

 厄介だ。

 来週から、学校に通うことになる。

 そうなれば、シエラや純花と毎日のように顔を合わせるわけだ。今日みたいに適当に話を逸らして済ませられるとも限らない。

 あいつらは、俺が距離を取ろうとしても簡単には引き下がらないだろう。

 ……特にシエラはな。

 俺は腕で目を覆い、暗い天井に向かって小さく呟いた。

「はぁ……何でこうなったんだ。めんどくさいな」

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