第三層
朝日が差し込むよりも早く、アキトは目を覚ました。
アラームよりも先に、脳が勝手に“起動”したような感覚だった。
(……寝れたような、寝れなかったような)
けれど、眠気はなかった。
緊張と決意が胸の奥で混ざり合い、身体を起こす前から心臓が動き始めている。
寝返りを打つと、部屋の隅に置いた新しいライトジャケットが薄明かりを反射していた。
その横には、丁寧に磨いたツインダガー。
机には配信機材と、昨日セットアップを終えたばかりの中継機。
第三層に挑むための準備が、すべて揃っていた。
(今日は……行く日だ)
小さく呟いて、アキトは布団から抜け出した。
センターに向かう道。
朝の街は冷たかったが、その冷たさが却って頭を澄ませてくれる。
センター前の電光掲示板には最近の探索ニュースが流れている。
《第三層死亡率:新人45%》
《幻視個体の遭遇報告倍増》
《第四層調査隊、前線で待機中》
(……やっぱり怖い階層なんだよな。
でも……俺は行く)
センターの自動ドアが開くと、受付の職員がアキトに気づいて軽く会釈した。
「佐藤アキトさん。
本日は第三層入り口ゲートの調整が入っていますので、
少しだけ待合室でお待ちください」
「はい。お願いします」
待合室の椅子に座ると、妙に心拍が早くなる。
落ち着こうとしても、身体の奥がそわそわしてしまう。
(第三層……第三層……)
スマホを見ると、未読のままの師匠のメッセージが表示されていた。
《寝ろ。明日、死ぬほど疲れる》
指先で画面を撫でながら、小さく笑う。
(俺……今日は“死ぬほど戦う”かもしれないけど……
生きて帰る)
自分に言い聞かせるように深呼吸した。
「お待たせしました。第三層ゲートの調整が完了しました。
では、こちらへどうぞ」
案内された通路を進むと、
第二層までのものとは明らかに違うゲートが見えた。
巨大な円形の石造りの門。
縁には複雑な文字が刻まれ、微かに光が漏れている。
(……ここが、第三層……)
職員からヘルメットと中継機の接続確認を受け、
アキトはH-Streamを装着した。
《接続良好です。
視界送信、音声圧縮、遅延0.3秒。
——配信開始、いつでもどうぞ》
アキトはスマホで配信ボタンを押した。
《【LIVE】三層行ってきます。死なないように祈っててください》
声ではなく、タイトル文だけが配信画面に流れる。
すぐにコメントが流れた。
《うおおお三層!?》
《新人なのに早すぎじゃね?》
《番人倒したし普通に行けそう》
《いや死ぬってマジで》
《師匠いるから大丈夫だろ》
《今日生き残ったらメンバー入るわ》
無駄に賑やかで、少しだけ心が軽くなる。
(……よし)
アキトは軽く頷き、ゲートに足を踏み入れた。
ゲートを通った瞬間、
視界が“ぐにゃり”とねじれた。
「っ——」
反射的に足が止まる。
空気が変わった。
湿っていて、重い。
暗闇に近いのに、目がチカチカするような不快な光が漂っている。
足元の石畳は、見ているだけで不安になるほど“La不均一”だった。
水平に見えたかと思えば、次の瞬間には傾斜して見え、
壁の距離も縮んだり伸びたりする。
(これ……本当に視界が信用できないんだ)
心臓がドクンと鳴る。
HUDの端に、コメントが流れる。
《おお始まった!!》
《画面歪んでるんだがw》
《三層こんなにバグってんの初めて見た》
《気を付けろ!》
そして——
一行だけ違う色で表示された。
《落ち着け。視界は捨てろ》
師匠だ。
(……はい)
アキトは深呼吸し、
ヘルメットの暗視補正を最低モードへ下げた。
視界の情報量を減らし、
音と空気の変化に集中するためだ。
足裏が石畳の微妙な凹凸を拾う。
遠くから小さな水滴の音が響く。
涼しい空気が左側から滑り込んでくる。
(右は……風がない。袋小路?
左側は……空気が動いてる)
視界を頼りにしたら間違いなく右に行っていた。
だがアキトは、迷わず左へ体を向けた。
それを見て、コメント欄がざわつく。
《え、右が正しい道に見えるんだが》
《左は暗すぎてヤバくね?》
《新人、幻視に惑わされるな!》
《いや……今の判断、地味にすごくね?》
(視界が信用できないなら……俺の感覚で行く)
ツインダガーを逆手に握り、
アキトは第三層の闇へ踏み込んだ。
最初の曲がり角。
壁が波打つように揺れて見える。
足音が妙に響く。
空気がやけに冷たい。
(敵が……いる)
理由は説明できなかった。
だが“いる”と分かった。
息を殺し、足を静かに進める。
——その瞬間。
カン……ッ
何かが硬いものを弾く音。
視界には何も映らない。
(また……来た……!)
第二層の番人とは違う。
音が嘘をついている。
だが、空気が震える方向だけは“正しい”。
(右……?いや、違う。
右“から聞こえる”けど、震えは……左下!)
アキトは反射的に左へ身を翻した。
風を切る音が耳元を通る。
すれ違う“何か”が、視界の端で黒い影として揺れた。
「っ——」
震えそうになる足を押し込んで構える。
《上出来だ》
師匠の文字が、視界端に静かに現れた。
ほんの数文字なのに、身体が軽くなる。
(まだ……やれる)
アキトは前を向き直り、息を整えた。
(ここからが……本当の第三層だ)
歪んだ空間の奥。
視界がねじれる薄い闇。
その中へ、アキトは一歩、また一歩と進んでいった。
第三層の通路は、歩けば歩くほど世界そのものがひしゃげていくようだった。
足元の石畳は本来平らなはずなのに、
目で見れば波打ち、手前へ迫ったり、奥へ遠のいたりする。
壁は呼吸するみたいに膨らんだり縮んだりし、
まるで生きている空間を進んでいる錯覚すら覚える。
(……視界がおかしい……いや、これが第三層の“普通”なのか)
暗視補正を弱めているのに、
光のノイズが絶えず視界を揺らす。
そのときだ。
カン……ッ
背後から小さな音が弾ける。
(来た……!)
アキトは振り返る——が、そこには何もいない。
視界には“影が上から迫る”映像が映るが、
空気の震えは真横。
その瞬間、HUD に一行が閃く。
《視界は罠。空気を信じろ》
師匠の短文だ。
(分かってる……分かってるけど……!)
アキトは視界で見える“上の影”を完全に無視し、
横へ飛ぶ。
直後、視界には巨大な爪が地面を叩きつける映像が走った。
だが地面に傷はない。
“存在しない攻撃”だ。
(やっぱり……幻視だ!!)
コメント欄が騒ぎ出す。
《今の上から来てたぞ!?》
《え?横だった?》
《画面と本人の動きが噛み合ってない》
《これが三層……?》
だが気を抜く暇はなかった。
次の瞬間——。
カッ、カカッ、カカカ!
複数の足音。
軽く、速く、蜘蛛のように地面を叩く音が三方向から襲う。
(何体……?二? 三?
分からない……!)
視界には三つの影が現れる。
一つは前から。
一つは左上。
一つは後ろから。
(全部見える……!
でも全部嘘かもしれない!!!)
混乱しかけたとき、
師匠から二行目が飛んできた。
《“位置”ではなく“タイミング”を読む》
《震えが重なる瞬間が本物だ》
(震えの……重なる瞬間……?)
アキトは一瞬、呼吸を止めた。
足裏から伝わる微細な震動。
空気の割れる音。
見えないものが複数同時に迫る“気配”。
そして——その一瞬。
(——ここだ!!)
アキトは右斜め前へ地を蹴る。
刃を逆手に持ち、軌道を最短に固定し、
闇へ向かって横薙ぎに振る。
——ザシュッッ!!
刃が何かを切り裂いた手応え。
影が霧散する気配。
(……一体!!)
すぐさま二体目が距離を詰めてくる。
カカカッ!
(近い!!)
しかし視界にはまったく違う影が映っている。
視界では“上からの攻撃”だ。
(嘘だ……!)
空気の震えは右下。
アキトは体を沈めて右下へ滑り込み、
そのまま肘を支点に斬り上げた。
——スパァン!
また一体、霧のように消える。
(……あと一つ……!)
コメント欄が暴れ続ける。
《やばい!!》
《二体連続で当てたぞ!?》
《映像全然違ったのに……》
《師匠の指示が短すぎて草》
《いや短いのに正確すぎるんだよ……》
その瞬間。
視界が、突然“真っ白”に染まった。
「っ!?!?」
何も見えない。
本当に何も。
白、白、白。
影も境界も全て喪失した世界。
(……これが第三層……
“視界ゼロ”……!)
空気の流れすら、かき消される。
音もない。
それでもHUDだけは白の上に薄く浮いていた。
《震えが消えた時こそ“気配”を拾え》
《呼吸があるはずだ》
(……呼吸……?)
アキトは目を閉じ、
耳ではなく“身体”で音を聴こうとした。
沈黙。
闇より静かな白。
そこに——。
(……ッ!)
わずかに湿った空気が動いた。
獣が息を吸い込む、それに似た微かな気配。
(いた……!!)
アキトは地面を蹴り、白世界へ飛び込む。
見えない敵へ、渾身の振り下ろし。
「うおおおおおお!!」
——ギャアアアアアアアアアアッ!!!!
耳をつんざく悲鳴が、白を破壊するように周囲へ響いた。
白が剥がれ落ち、
世界が元の暗闇へ戻る。
(……はぁ……はぁ……倒した……!!
三体……全部……倒した……!)
足が震え、膝をつきそうになる。
そのとき、HUD に短い文字。
《よく生きた》
《次に進め》
(……ありがとうございます……師匠……)
呼吸を整え、立ち上がる。
第三層の奥はさらに暗く、歪みは深い。
本番はここからだ。
(行く……俺は、行く)
アキトはツインダガーを握り直し、
歪んだ闇の中へ再び踏み込んだ。




