(おまけ)空を泳ぐ魚(上)
最近、うちには異世界からのお客さんがよく来る。
よく来る、という表現が正しいのかは分からない。普通の家に異世界からのお客さんが来る頻度の平均値を、俺は知らないからだ。
お姉さんが言っていた通り、二週間に一度くらいの割合で、どこかから何かが来る。どこかから。必ずしも玄関からでないのがおそろしい。
押し入れを開けたら、鹿の角を生やした商人みたいな人(?)が、うちの布団を「柔らかい岩」として真剣に値踏みしていたことがある。ベランダに干していたタオルの間で、羽のある小さな人が昼寝をしていたこともある。
排水口から顔だけ出した水棲の人に、「この川は狭い」と苦情を言われたこともあった。どこから入ったんだ。
以前、チャイムを押してうちにやってきたぬりかべさん(仮)は非常にマナーをわきまえた客であったのだなぁ、と俺はあらためて感心した。
そんな生活にも、少しだけ慣れてきた。
慣れていいのかは、置いておくとして。
その日も、夕方近くになって、リビングの隅がふわりと揺れた。
カーテンが風もないのに持ち上がり、床に置いてあったクッションの上に、ぽとん、と小さな影が落ちる。
俺は洗濯物をたたむ手を止めた。
リリーさんが、台所から顔を出す。
「またきた?」
「たぶん」
ルミエリアさんはすでにメモ帳を持っていた。判断が早い。最近は異世界客対応用の質問項目まで作っている。おそらく後世では彼女の基準が採用されることだろう。
俺たちが見守る中、カーテンの向こうから出てきたのは、小さな女の子だった。
見た目だけなら、小学生くらいに見える。淡い水色の髪が肩のあたりで揺れていて、耳の横には、薄く透き通ったひれのようなものがある。
可愛い。でも、人間じゃない。たぶんだけど。普通の人間はカーテンの陰からいきなり現れたりはしないのだが、世の中にはいくらでも例外があるし。
女の子は、両手を胸の前で握って、きょろきょろと部屋を見回している。怯えているというより、何かを探しているようだった。
『こんにちは。何かお探しですか』
俺ができるだけやわらかい声で言うと、女の子はぱっとこちらを見た。
『わたし、フィノ。観光に来たの』
『フィノさんですね。私は通訳のサヤ。こっちは同居人のリリーさんとルミエリアさん』
なんだか魔女の宅急便みたいな挨拶になってしまったが、ふむ、どうやら異世界からのお客さんで間違いないらしい。名前はフィノさん。
ルミエリアさんがきっちり頭を下げると、フィノさんも慌ててぺこりと頭を下げた。水色の髪がふわっと揺れて、耳の横のひれが少しだけ開く。その仕草だけ見ると、本当に普通の小さな女の子みたいだった。……ひれはあるけど。
『帰り道は分かりますか?』
ルミエリアさんが続けて確認する。
これは大事だ。
異世界からの観光客は、だいたい帰り道を持っている。デパートの屋上だったり、裏路地の古い鏡だったり、閉店後のエレベーターだったりする。そこに案内すれば済むことも多い。
『帰れる。屋上の道、知ってるの』
ルミエリアさんがメモ帳に何かをさらさらと書き込む。
俺も少しほっとした。
ところが、フィノさんの表情は晴れなかった。
彼女は胸元をぎゅっと握ったまま、ぽつりと言った。
『でも、ルルがいないの』
『ルルって誰です?』
『空を泳ぐ、わたしの魚』
言葉だけ聞くと、意味が分からない。
けれど、うちに来る異世界のお客さんはだいたい言葉だけ聞くと意味が分からないので、俺は落ち着いて続きを待った。
『一緒に観光してて。少し目を離したら、いなくなったの』
『ペットですか?』
『うん。家族なの』
フィノさんの声が、少しだけ細くなった。
それを聞いた瞬間、ルミエリアさんの顔つきが変わった。
「保護対象ですね」
「切り替えが早いですね」
「家族とはぐれたのなら重大な問題ですし……あちらの世界の生き物が迷い込んだのなら、同じくらい重大です」
それはそう。魚と言っているが、空飛ぶメガロドンみたいなやつの可能性もある。この前そんな映画ちょうど見た。サメは空を飛ばないという概念が間違いであったことを、あれで俺は学んだのだ。ルミエリアさんも同じものを思い出しているらしく、緊張した面持ちでペンを握り直している。
『ルルは、どんなところに行きそうなんですか? あと大きさと好きな食べ物をお願いします』
ルミエリアさんが尋ねると、フィノさんはしばらく考えた。
『ルルは、ひとりが苦手なの』
『寂しがりなんですね』
『うん。いなくなると、仲間を探すんだ。大きさはこれくらいで、好きな食べ物……? 雨粒とか……?』
フィノさんは両手で、このくらい、と示してくれた。だいたい15センチくらいか。空を泳ぐ魚の仲間で、人は食べなさそうと。俺は部屋の中を見回してみた。当然、いない。
うちにはゾンビの料理人のリリーさん、風の巫女のルミエリアさん、色々おかしくなった俺はいるが、空を泳ぐ魚はいない。あんまり外にもいないだろう。
空を泳ぐ魚? こ、こいのぼりとか……?
しかし、今は8月。夏真っ盛りである。この時期にこいのぼりがはためている場所があるとは思えなかった。うーん……。
話し合いの結果、魚がたくさんいる場所を探せばいいのでは、という案が出た。
問題は、この街に魚がいる場所だ。この街に海はない。
『魚がいる場所……』
『公園の池とか』
『ああ、鯉がいますね』
『ぺっとしょっぷ、とやらにも観賞魚がいるはずです』
ルミエリアさんがメモ帳に候補を書き込む。確かルミエリアさんは街に何があるかを歩き回って把握しようとしていたとき、ペットショップのショーウインドウに張り付いてじっと店内を1時間見続けて通報されたことがあった。あの時のことをきっと覚えているのだろう。
『スーパーにも魚はありますが……いや、スーパーの鮮魚売り場は違いますね。あそこにいるのは仲間というより、元仲間です。もう死体というか』
『死体……?』
フィノさんが不安そうな顔をした。
『あっ違います。ルルがそこにいるという意味ではなくてですね』
とにかく、俺たちはルルさんを探しに出ることにした。
フィノさんはフード付きの薄い上着を着て、耳の横のひれを隠した。隠した、と本人は思っているようだったが、フードが薄くて普通に透けている。
ま、まあ、少し変わった服装の子供、くらいで済む可能性もある。たぶん。たぶん済む。
俺はそう自分に言い聞かせながら、玄関の鍵を閉めた。
最初に俺たちが向かったのは、公園の池だった。
大きな公園ではない。住宅街の中にある、滑り台とブランコと、小さな池があるだけの場所だ。
池の前まで来ると、フィノさんは身を乗り出した。
『魚。大きいね』
『鯉ですね』
池の中では、黒や白や赤の混ざった鯉がゆっくり泳いでいた。水面には日の光が映っている。風が吹くたび、薄く波紋が広がった。
フィノさんはじっと池を見ていたが、すぐに首を横に振った。
『ルル、いないよ』
リリーさんは木の影に下半身をずぶずぶ沈めながら、池の周りを確認してくれていた。見た目はかなり怖い。通りがかった近所のおじいさんが二度見していた。
俺が会釈すると、「ああなんだ君の連れか」と頷く。
「今日は暑いから、池のそばに長くいるんじゃないよ」
「あ、はい。気をつけます」
おじいさんは持っていた団扇を俺に渡してから、何事もなかったように去っていった。
俺は団扇を見下ろした。……え? なんでくれたの?
とりあえず、ぱたぱたと仰いでみた。温い風だったが、気持ち、涼しい気がした。
次に向かったのは、駅前のペットショップだった。
店員さんは俺たちを見ると、少し緊張した顔をした。正確には、ルミエリアさんを見て緊張し、俺を見てほっとしたような顔をした。そして笑って奥を指さす。
「どうぞ、涼しいですよ。あと、疲れた時は奥の店員用の椅子使ってください」
店内には犬や猫の写真が貼られ、奥の方に観賞魚コーナーがある。水槽の中で、小さな熱帯魚が泳いでいた。青、赤、黄色。水草の間を、ぴかぴか光りながら行き来している。ふむ。ここも人口密度ならぬ魚密度がなかなか多いと言えるだろう。
フィノさんは水槽に顔を近づけた。
店員さんがまた少し緊張した顔でこちらを見る。
俺も緊張した。
フィノさんの耳のひれがひらひらと動き、水槽の光を受けてかなり目立っていた。フードの意味がほとんどない。
「綺麗ですね」
ルミエリアさんが感心したように言った。
「はい。癒やされますよねえ」
「しかし彼らはひょっとしてここに閉じ込められているのでは……?」
「その話をここでするのはやめましょう」
フィノさんは水槽をいくつか見て回ったが、やはり首を横に振った。
『いないよ』
その次に、俺たちはスーパーへ向かった。
向かうべきかどうかは迷った。しかし、魚がいそうな場所を順番に潰していくなら、候補には入る。入ってしまう。
入口近くで、品出しをしていた店員のおばさんが俺に気づいた。
「今日はみんなで買い物?」
「あ、はい。ちょっと魚を探してまして」
「重いもの買うならカート使いな。前に牛乳持ってふらふらしてたでしょ」
「覚えられている……」
「あんな危なっかしい持ち方されたら覚えるわよ」
そして、鮮魚売り場の前に立った瞬間、俺は早まったと思った。氷の上に、切り身や刺身のパックが並んでいる。丸ごとの魚もある。値引きシールが貼られたアジが、虚ろな目でこちらを見ていた。
フィノさんは無言になった。俺も無言になった。ルミエリアさんが、そっとメモ帳を閉じた。
「ここは違いますね」
探しているのはペットであって、夕食ではない。
俺は強く心に刻んだ。
スーパーを出る頃には、空が少しずつ橙色になっていた。
駅前の方から、人の流れが増えている。浴衣姿の人もいる。子供が光る腕輪を振り回し、親に手を引かれて歩いていた。
遠くから、空気を響かせる太鼓の音が聞こえる。
そういえば、今日は夏祭りだったっけ。俺たちはあんまりアウトドア派ではないので、全然チェックしていなかったけど。というか俺が人混みに紛れたらバラバラになってしまう気がする。いろんな意味で。
ちょうど道端で屋台の準備をしていたおばさんが、俺を見つけて手を振る。
「あら、サヤちゃん。今日は大所帯だねえ」
「はい。魚を探していまして」
「魚?」
おばさんは少し首を傾げたが、すぐに発泡スチロールの箱からラムネを取り出した。
「まあいいや。ほら、あんたらも。暑いから持っていきな」
「いえいえ! 買いますよ!」
「いいよ。空き瓶だけ返して。あと、あんたは人混みの真ん中に行くんじゃないよ」
「私、そんなに危なっかしいですか?」
おばさんは答えなかった。
代わりに、リリーさんとルミエリアさんを見た。
「見ててあげてね」
「うん」
「もちろんです」
本人の確認がないまま、監視体制が強化された気がする。
ちょうど電信柱に貼り紙があったので見てみると、ふむ。商店街の先、川沿いの広場でたくさん屋台が出るらしい。夜にはけっこう盛大に花火も上がるのだとか。そういえば、大学の掲示板にもポスターが貼ってあった気がする。
しかし……そのせいか、人が多い。
こちらは体力に不安のある俺と、フードでひれを隠しているつもりのフィノさんと、大量の人を見て既に逃げ腰になっているリリーさんと、最近パトロール中の警察によく声を掛けられるルミエリアさんである。祭り会場に突っ込むには、少々編成が不安定すぎた。
「サヤさん」
ルミエリアさんが、ふと足を止めた。
「どうしました?」
「あちらに、水を張った器があります。小さな魚がたくさんいます」
俺は彼女の視線の先を追った。
屋台が並び始めている。その中に、青いビニールシートを張った低い水槽が見えた。赤い小さな魚が、浅い水の中を何匹も泳いでいる。
金魚すくいだ。
生きた魚。
しかも狭い水槽の中に、かなりの数がいる。
この街の中で、今この瞬間、もっとも魚密度が高い場所。
『……フィノさん』
俺は声を落とした。
『あそこ、見てもらえますか』
フィノさんが、フードを押さえながら水槽の方を見る。
赤い金魚が、浅い水の中で何匹も泳いでいた。屋台の裸電球が水面に映り、ゆらゆらと揺れている。
その揺れの少し上で。
水面から、ほんの少しだけ離れた空中で。
何かが、すいっと尾びれを動かした。




