(おまけ)空を泳ぐ魚(下)
俺たちは人の流れに沿って、金魚すくいの屋台の方へ向かった。
風に乗ってどこからか、焼きそばのソースの焦げる匂いと甘い綿あめの匂いがやってくる。子供の集団が、人混みをまるで泳ぐように駆け抜けていった。どん、と後ろから押され、思わず俺は膝をつきそうになった。
祭りの空気は、遠くから見る分には楽しいが、近くに入ると急に物理攻撃になる。人ごみに入って3分と経っていないのに、俺は早くも息が上がりかけていた。
「サヤさん、大丈夫ですか?」
「まだ大丈夫です。まだいけます」
ルミエリアさんに支えられつつ、俺はぜーぜーと息をつきながら金魚すくいの屋台へ近づいた。
金魚の水槽(?)の前には子供たちが集まっている。みな紙のポイを持って、真剣な顔で水面を見つめていた。
フィノさんは俺の隣で、フードの端を両手で押さえたまま、金魚すくいの水槽をじっと見つめている。彼女も俺と同じ人混みの中を辿ってきたはずなのに、息切れしていないのはなぜなのか。
赤い金魚たちが、浅い水の中を泳いでいる。その少し上。
水面から10センチほど浮いたところを、半透明の小さな魚が泳いでいた。
……メガロドンじゃない。
ああよかった。実物のルルもちゃんと小さい。目がくりくりしていてかわいい。
『ルル』
フィノさんが、ほとんど息みたいな声で呼んだ。祭りのざわめきに、すぐ飲み込まれてしまいそうな声だった。
宙を泳いでいた半透明の魚が、ぴたりと止まる。次の瞬間、大きなひれがぱっと開いた。ルルは水面の上を跳ねるように泳ぎ、フィノさんの方へ向かってくる。見つけたことで興奮したのか、フィノさんのフードはばっちり脱げ、ひれが丸見えになっていた。
「ママ、あれ何?」
水槽の前にいた男の子が、ルルを指差した。
その指先を、近くにいた何人かが目で追う。その先には、手を広げるフィノさん。ひれがひらひらと夜風にそよいでいる。
「あの透明な金魚浮いてない? 見てってあれ!」
「お前は知らないのかもしれないが、金魚は透明じゃないし飛ばな……ん?」
「あの子の耳、何?」
「は、半魚人が金魚を助けに来てる!」
隣にいた女子高生2人組が、反射みたいにスマホを持ち上げた。
まずい。
「あっすみません! あれうちのです!」
俺はとっさに声を上げた。
「別の屋台で買った、光る魚のおもちゃで! 水に落ちると壊れるので、今、回収してます!」
「浮いてなかった?」
「最新のやつですから! それに浮くっていうなら風船だって浮きますし! あ、肖像権があるので撮らないでいただけると!」
「最新のおもちゃには肖像権がある……?」
その間にも、スマホの黒いレンズがこちらを向く。どうやら「最新のやつ」という言葉だけではさすがに無理があったらしい。
すると、スマホを構えていた女子高生二人の体が、急にがくんと低くなった。
「え?」
「撮っちゃ、だめ」
さっきまで立っていたはずなのに、落とし穴に落ちたみたいに下半身が地面に埋まっている。正確には、地面に開いた黒い影に。二人はスマホを構えたまま、何が起きたのか分からない顔で固まっていた。
「きゃああああっ! なに!? 何これ!」
「足が! 抜けない!」
女子高生たちの足元に、黒い影が広がっている。その縁から、白い指先がほんの少しだけのぞいていた。
「リリーさん! 人はだめです!」
影の中から、リリーさんがこちらを見上げた。無表情のまま、小さく頷く。
次の瞬間、二人の体がすぽーん! と地面から勢いよく抜けた。
「え、今の何?」
「落とし穴? え? ない……?」
二人はスマホを握りしめたまま、きょろきょろと足元を見回している。周囲の人垣が、さらに一段厚くなった。スマホのレンズが、さっきの倍くらいに増えた気がする。
影から、リリーさんがするりと出てきた。俺の隣に立ち、人垣をぐるりと見回す。
「いい方法がある」
「……なんですか?」
「もっと目立つことを起こす。そうすればみんな、そっちを見る」
理屈としては、合っている気がした。
「目立つって何を?」
「影で、魚を作る」
リリーさんは、金魚すくいの水槽をじっと見下ろした。赤い金魚たちの中に、一匹だけ、黒いデメキンが混じっている。ぎょろりとした目で、ゆったりと泳いでいる。
「一匹だけ飛んでいるから、目立つ。たくさん飛んでいれば、そういう出し物」
止める間もなく、屋台の裏に並んだ提灯の影が、ふるりと震えた。
影の縁から、ぽこん、と何かが出てきた。黒くて、丸くて、目がぎょろっと飛び出している。
影でできたデメキンだった。
続いて、隣の提灯の影から、ぽこん。その隣からも、ぽこん、ぽこん。
あっという間に、何十匹もの黒いデメキンが、提灯のあいだをゆらゆらと泳ぎ始めた。尾びれをひらひらさせ、行ったり来たり。屋台の屋根をくぐり、綿あめの袋のそばをかすめ、人の頭の上をすいーっと横切っていく。
ルルが、フィノさんの手の中から顔を出した。そして、うれしそうにひれを震わせた。仲間だと思ったらしい。
「……ねえ、なんか飛んでない?」
「なにあれ」
「デメキン? 黒いデメキンが、空飛んでる」
「いやマジでなにあれ……?」
人垣の視線が、一斉に上を向いた。
作戦は、成功していた。確かに誰も、もうルルを見ていない。
代わりに、全員が、空飛ぶデメキンの群れを見ていた。
「プロジェクションマッピング?」
「今年の祭り、予算すごくない?」
「実行委員会に問い合わせよう」
「おい見ろって佐久間! 空飛ぶデメキンだぞ!」
人垣の後ろの方から、呆れたような声もした。
「いや、デメキンは空飛ばないだろ……それよりサヤさんが祭りの人混みでもみくちゃにされてるって目撃証言の方が気になる」
人の頭が邪魔で、何も見えていないらしい。その彼は背伸びもせず、腕組みをしたまま、スマホを掲げる友人たちを呆れた目で見ている。というかあれは元同じサークルの佐久間君によく似ている気がした。
「いや、マジだって! 見ろって!」
「見えない。見えないから信じない。金魚は水の中にいるもんなんだ」
正しい。この場で一番正しいことを言っているのは、間違いなく彼だった。
その彼の頭上を、黒いデメキンが一匹、すいーっと横切っていった。
彼は、最後までそれに気づかなかった。
スマホのレンズは、減るどころか、5倍になった。一匹の空飛ぶ魚を隠すために、何十匹もの空飛ぶデメキンを放ったのだから、当然だった。
「リリーさん! しまってください! このままだと実行委員会に問い合わせが行きます!」
デメキンたちは、ちょっと名残惜しそうに一周してから、提灯の影へ帰っていった。
「……あと少しだった」
「あと少しで、この夏いちばんのニュースになるところでした」
すると今度は、ルミエリアさんが、すっと俺の隣に立った。「負けられない」なぜかそんな顔をしている。
「サヤさん。人を抑えるなら、私にいい考えが」
「な、なんでしょう」
「風の結界で、この辺り一帯をまとめて封印しましょう」
「却下です!」
フィノさんは、ルルを両手でそっと包み込むように抱えていた。ルルはその手の中で、安心したようにひれをゆっくり動かしている。よかった。
問題は、この人混みの中心地からどうやって抜け出すかだ。
「これはその、コスプレで! ひれも、水の抵抗を抑えるとかで泳ぎが気持ち上手になるというか。この子、今度スイミングで5級の試験があるんです」
俺の言い訳は、たぶん誰の耳にも届いていなかった。さっきより明らかに人混みの密度は上がっていて、潜り込む隙間もない。俺は見たことがないが、東京のラッシュ時の通勤電車もきっとこんな感じなのだろう。
その時だった。
「みなさーん!」
人混みの向こうから、よく通る声が響いた。
聞き覚えのある声だった。というか、最近テレビでよく聞く声だった。
「友紀です! 今日、プライベートで遊びに来てたんですけど、さっき実行委員会の人に許可をいただいたので、一曲歌わせていただきます。もしよかったら聞きに来てください!」
一瞬の静寂。
それから、人混みの一角が爆発したみたいにどよめいた。
「え!? 友紀ちゃん!? 歌手の!?」
「本物?」
「うそ、どこどこ!?」
人の流れが、ぐいっと向こうへ傾く。
続いて、別の声が聞こえた。低くて落ち着いた声だった。
「中止にしたくなければ、素直に並びたまえ。そこの君、割り込むな。日本に住んでいながら並ぶという文化を知らんのか。ああ安心したまえ。今から覚えればいい。最後尾はあちらだ。……吾輩はマネージャーだ。文句はあとで事務所に言え」
中條さんだった。ぜったいマネージャーじゃない。でも、あの声で言われると、なんとなく従ってしまう迫力がある。
さらに、少し離れたところから、子供たちに向かって叫ぶ声がした。
「おーい、ガキども! あっちの射的屋で、でっかいぬいぐるみが倒れそうになってるってよ! 今なら取れるかもしんねーぞ!」
「マジで!?」
「行こうぜ!」
健斗君だった。
子供の集団が、反対方向へ駆け出していく。それに釣られて、何人かの大人も向こうを振り返った。
姿は見えない。三人とも、分厚い人混みの向こう側にいる。
それでも、声だけで分かった。
大きな騒ぎで、上書きする。発想は、リリーさんと同じだった。やり方が、だいぶ人間向けなだけで。
……なんでここに、とか、どうして、とか。聞きたいことはたくさんあった。でも、今は。
「チャンスです!」
俺は叫んで、人の流れが緩んだ隙間に飛び込んだ。
俺は、人の流れの中で、洗濯機の中のタオルみたいになった。
右から押され、左から押され、前の人の背中にぶつかり、後ろの人の肘が脇腹にガッ! と入る。浴衣の袖に顔をばちーん! と叩かれ、誰かのかき氷が肩に降ってくる。片方のサンダルが、どこかへ脱げていった。
……まずい。これは本当にまずいぞ。俺はこのまま人混み死するかもしれん。
そう思った時だった。
足首を、ひんやりした手に掴まれた。
次の瞬間、足元の地面が、とぷん、と水面みたいに揺れた。
音が消える。真っ暗な中を、誰かが俺の手を引いて、すいすいと泳いでいく。頭上を、たくさんの足音が遠く通り過ぎていく。
ぷは、と影から顔を出すと、そこは川沿いの土手の下だった。
「……リリーさん。ありがとうございます」
リリーさんは、影から半分だけ体を出している。その手には、俺のサンダルが握られていた。拾ってきてくれたらしい。
人混みにいたのは、たぶん一分くらいだったと思う。
それでも俺は、髪はぐしゃぐしゃ、服はよれよれ、肩にはかき氷のシロップ。あと息をするとなんかわき腹が痛い。
たった一分で、完全に、ぼろ雑巾だった。
あの屋台のおばさんの顔が思い浮かんだ。「人混みの真ん中に行くんじゃないよ」。……まさしく。あのおばさんは現代の凄腕占い師であった。
少し遅れて、ルミエリアさんとフィノさんも土手を下りてきた。ルルは、フィノさんの肩のあたりを嬉しそうにくるくる泳いでいる。
スマホが震えた。メッセージが一件。友紀さんからだった。
『サヤちゃん、無事?』
俺は少し考えて、返信した。
『ややぼろ雑巾です』
すぐに既読がついた。
『知ってた』
……なんで知ってるんですか。
* * *
日が沈んで、空が濃い群青色になった。
土手の上には、花火を見に来た人たちがずらりと並んで座っている。俺たちが座り込んだ場所も、気づけばすっかり人に囲まれていた。
どん、と遠くで一発目の音がした。
夜空に、明るい光の花が開く。遅れて、ぱらぱらと火花の散る音。周りから「おおー」と声が上がる。
ただ、少し遠い。それに、空の半分くらいに、薄い雲がかかっている。花火の一部が雲に隠れて、ぼんやりとにじんで見えた。
『……見えない』
フィノさんが、背伸びをしながら言った。前に立っている人たちの頭で、花火の下半分が隠れているらしい。小さなフィノさんからは、ほとんど見えていないのかもしれない。……よし、ここは俺が!
『フィノさん、肩車しますよ!』
『サヤさん、それは……』
ルミエリアさんが何か言いかけたが、俺はもうしゃがんでいた。
『どうぞ。乗ってください』
フィノさんが、おそるおそる俺の肩に足をかける。ふわっと体重がかかる。
……あ、思ったより重い。
立ち上がろうとした瞬間、膝がかくんと落ちた。そのまま、べちゃ、と前のめりに潰れる。
フィノさんは、ルミエリアさんがさっと抱きとめてくれていた。俺はいつの間にか地面に寝そべってスタンバイしてくれていたリリーさんにそっと受け止められた。2人には結果が見えていたらしい。
『ごめん、フィノさん……』
『ううん。ありがとう』
フィノさんは、ルミエリアさんの腕の中から、少しだけ背伸びして空を見上げた。
『ここからだと、小さいね』
『そうですね。雲もかかってきましたし……』
するとフィノさんが、ふと思いついたように言った。
『雲の上からなら、見られるよ』
『雲の……上……?』
『ルル、行ける?』
フィノさんの肩のあたりを泳いでいたルルが、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと、空の方へ泳ぎ出す。
ルルは、上へ上へと泳いでいく。その体が、少しずつ、大きくなっていく。15センチだった体が、1メートルになり、3メートルになり、小型の船くらいの大きさになった。
サメは空を飛ばない。魚は巨大化しない。
そのどちらの概念も間違っていたことを、俺はこの夏に学んだ。
メガロドンじゃなくてよかった、とか思ってたのに。何あれでっかい。
周りの人たちは、花火の方を見ていて、誰もルルに気づいていない。空が暗いのと、ルルの体が半透明なので、うまく夜に溶けているらしい。
そしていつの間にか、俺たちはルルの背中に乗せられていた。
土手が遠ざかり、人の頭が小さくなる。屋台の明かりが、光の粒になって川沿いに並んでいく。
一瞬、あたりが真っ白になる。ひんやりした空気が肌に触れる。雲の中に入ったらしい。雨粒の匂いがして、ルルがうれしそうに体をくねらせた。
そして。
ふっと、視界がいきなり開けた。
足元には、どこまでも白い雲の海が広がっていた。頭の上には、地上から見るよりずっと近くに、大きな月が浮かんでいる。
その雲の海の中で、ぼう、と光が灯った。
赤い光だった。雲の内側から、まるで提灯みたいに、雲そのものがぼんやりと赤く光っている。続いて、少し離れた場所が、緑色に光る。今度は、金色。
雲の中で開いた花火が、雲を内側から染めている。
そして、ひときわ大きな一発の端が、雲を突き抜けて、俺たちの目の前で開いた。
下から見上げる花火じゃない。目の高さで、雲を抜けた光の花弁の端っこが開いていく。その光が雲の海に映って、足元までぱあっと赤と緑に明るくなった。
少し遅れて、どん、と音が届いた。雲に吸われたみたいな、くぐもった音だった。
フィノさんが、ルルの背中にそっと手を置いている。ルミエリアさんは、祈るみたいに両手を胸の前で組んでいた。リリーさんは、じっと、瞬きもせずに光を見つめていた。
その時、ポケットの中で、スマホが震えた。
健斗君からだった。
「……もしもし」
「おい。お前、今どこ?」
健斗君の声の後ろで、どん、と花火の音がした。俺の耳に届いた音と、ほんの少しだけずれていた。
俺は、少し考えてから答えた。
「上にいるよ」
「上?」
「うん。雲の上」
電話の向こうで、健斗君が黙った。たぶん、空を見上げているのだろう。見えるはずはない。俺たちは、雲の上にいるのだから。
「……そうか」
そして健斗君は何も言わなくなった。俺も、何も言わなかった。電話の向こうでも、こっちでも、同じ音。同じ花火が上がっている。
「……そっちから、見えてる?」
「見えてる。雲が光ってて、なんか、すげー綺麗だわ」
「こっちも。すごく綺麗だよ」
「……そっか」
そのまま、俺たちは――同じ花火を、雲の上と下で眺めた。
電話の向こうで、友紀さんの「サヤちゃん!? 代わって!」という声がして、それから中條さんの「押すな、吾輩の番だ」という声がした。電話の向こうが、にわかに騒がしくなる。
俺は、少しだけ笑った。
* * *
花火が終わると、ルルは俺たちを少し離れた土手に下ろしてくれた。いつの間にか、ルルの体は元の15センチに戻っていた。
そしてフィノさんとルルは、そのまま、デパートの屋上の道から帰っていった。
『ありがとう。楽しかった』
フィノさんは、そう言って手を振った。ルルも、フィノさんの肩のあたりで、ひれをひらひらと振っていた。
翌日。
俺は空になったラムネの瓶を持って、屋台のおばさんのところへ返しに行った。
「あら、サヤちゃん。昨日は花火見えた?」
「はい。ちょっと、上の方から」
おばさんは首を傾げたが、それから俺の顔と、手足に巻かれた包帯をじっと見て、ため息をついた。
「あんた、行ったね。真ん中」
「……行きました」
おばさんは呆れたように笑って、俺の頭をぽんぽんと叩いた。
「……しょうがない子だねえ」
遅ればせながらホラー映画「ドールハウス」を見ました
親子愛がテーマの素敵な作品なので皆さんもぜひ見てください
(なんかホラー(モキュメンタリーじゃないやつ)が書きたくなってきました)




