ミファーとセーラと(下)
緑が生い茂る森の一帯――
だがそこは、足の踏み場もないほど真っ赤に染まっていた。
一〇を超える狼人種があちこちに倒れている。死体から流れ出る血が森を赤く染めていた。
倒したのはミファーだ。
ミファーもまた血で赤く濡れていた。返り血だけではない。ミファー自身も大小さまざまな傷を負っている。疲れはとっくの昔に限界を超えていて、動かない身体を気力で動かしている状態だ。
すでに二本の手斧は壊れ、護身用に持っていた短剣を握りしめている。
(セーラさんを連れて帰る!)
その想いが今のミファーを突き動かしていた。
ミファーの前に最後の狼人種が立っている。
狼人種の双眸には怒りの激情が燃え上がっていた。狼人種は血の気の強い種族だ。圧倒的な力の差を見せつけられても、戦意を失うどころか意気をますます盛んにしている。
狼人種が吠え、鋭い爪を振り下ろした。
ミファーはそれを回避、すれ違いざまに狼人種の首にある頸動脈へと斬りつける。
狼人種の分厚い筋肉がそれを阻むが――関係ない。
理力で向上したミファーの筋力はそれをたやすく両断、ぶつりと血管をかき切る。
刃が抜けた瞬間、狼人種の首から真っ赤な鮮血が飛び散った。
己の死を悟り、狂ったように両手を振り回す狼人種。指先の鋭い爪が、かわしきれなかったミファーの肩をえぐる。
「ぐ……!」
それでもミファーは戦意も、冷静さも失わない。
狼人種の身体がぐらりと揺れた瞬間、ミファーは地面を蹴って跳躍、狼人種の眉間に短剣を突き立てる。
びくんと狼人種の身体が震えると同時――
短剣の刀身がへし折れた。
「……あっ!」
バランスを崩したミファーは尻餅をつく。
ミファーの頭上に大きな影がさした。
さっきの狼人種が覆い被さるようにミファーへと襲いかかる。
(かわせない!)
息を呑んだミファーだったが、狼人種の身体はわずかれにそれ、横へと倒れた。
力を失った巨体が大きな音を立てて地面へと倒れ込む。
その目はすでに死者のそれだった。
「やっ……た……」
狼人種は全滅した。
ミファーたちを害する敵はもういない。
ミファーがひとりで成し遂げたのだ。だが、満足感に浸っている暇はなかった。
ミファーは重い身体を引きずり、重傷のセーラへと駆け寄る。
セーラの容態はさっきよりもひどくなっていた。血の流れすぎで顔は白く、浅く息をするだけでも苦しそうだった。
ミファーはセーラの手を取り――息を呑む。
その手はひやりと冷たかった。
まるで死者のように。
「セーラさん! セーラさん! 終わりました! 帰りましょう!」
必死にミファーが呼びかけた。
セーラの目がうっすらと開く。
「……見てたよ……。ありが、とう……」
その声はとても弱々しかった。注意深く耳をすまさなければ、吐いた息と変わらないほどだ。
「さすが、だね……勇者……。これからも、たくさんの……人を、守ってね……」
「セーラさん! そんな、お別れみたいな……」
お別れなのだ。
ミファーだってわかっていた。
もうセーラは助からない。これだけ血を流した人間が、これだけ冷たくなった人間が助かるはずがないのだ。
すべては遅すぎた。
「ごめんなさい……助けられなくて……」
セーラは首を振った。
「……ミファーが助かって……よかった。効果、あったかも……」
小さく笑って、セーラが震える手をミファーの首へと伸ばす。
ミファーの首に掛かった赤いネックレスに。
「幸運の、ネックレス……。ね? ……言った、でしょ……?」
「……でも、それならセーラさんにつけていて欲しかったです……」
「……ねえ、ミファー……それさ……もらってくれない?」
「え……?」
「形見……本当にいいもの、だからさ……」
「で、でも……」
「お願い」
セーラがじっとミファーの目を見ていった。
その目には強い意志が宿っていた。己の最後の命のかけらを使ってでも想いを伝えたい、そんな瞳だった。
ミファーはセーラの手を強く握って言った。
「わかりました。大切にします」
セーラは幸せそうに、にっこり笑った。
「……似合ってるよ、ミファー……」
その言葉を最後に、セーラの身体がぐったりと力を失う。
その死を、ミファーははっきりと感じた。
セーラとのつきあいは長くない。会った回数は片手ほど。それでも同じ時間を過ごしたのだ。一緒に難民たちのために汗を流したのだ。とりとめのない会話をかわし、ともに笑いあったのだ。
無視できる死などではない。
両親を失って以来の悲しみを、ミファーは感じていた。
「セーラ、さん……」
その手をとり、ミファーはしばらく瞑目する。どれくらいそうしていただろうか。やがて大きく息を吐いて立ち上がった。
悲しくて疲れていたが――ミファーは再び気を張る。
すべてを投げ出したい気持ちには蓋をした。
狼人種のことを報告しないといけない。早急に手を打たなければ犠牲者が増えるかもしれない。セーラの亡骸だってあのままにはしておけない。
キャンプに戻って人を呼ぶ。
ミファーの孤独な戦いはまだ終わっていない。
疲れた身体を引きずるようにしてミファーが歩き始めた、そのときだった。
「ミファー……大丈夫か?」
オウマが姿を現した。
その姿を見た瞬間、ミファーの視界が急にぼやけた。
頼れる存在が、そこにいる。
安堵感がミファーの胸に広がる。その温かい感情がミファーの目から涙をこぼれさせた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ミファー……大丈夫か?」
俺はそう声をかけたが、とても大丈夫そうには見えなかった。
激闘があったのは明らかだった。
両手の指の数を超える狼人種の死体が転がり、鼻がバカになりそうなほどの血のにおいが森に充満していた。
土ぼこりと返り血でミファーの身体は汚れきっていた。あちこちに深い傷を受け、その動きには疲労の色が濃い。
だが、気は萎えていなかった。
表情はぴんと張った糸のように張り詰めている。
緊張感と責任感がミファーを支えているのがありありとわかる。
だからこそ、俺はミファーの身を心配した。
まさに精神が肉体を支えている状態。そんな状況がまともなはずがないのだ。
「師匠……?」
俺の呼びかけにミファーは足を止めた。
驚いたような顔で俺を見つめて――やがてその表情から張り詰めていたものが消えた。
ミファーの表情が緩み、両目から涙がこぼれた。
「師匠!」
俺はミファーに近づく。ミファーは声を上げて泣きながら俺の胸に額を押し当てた。
俺は少しばかり迷ったが、落ち着いてくれればいいと思ってミファーの背中を撫でてやった。
「どうしたんだ、ミファー?」
「……助けられなかったです……セーラさんを……!」
セーラ……確かミファーの知り合いの……。
視線を奥にやると、見覚えのある女が木のかたわらで倒れている。
そうか……。
ミファーはあいつを守るために無茶をしたのか……。
「すまんな……俺がもう少し早く来てやれれば」
「違うんです……! もっと強ければ……もっと早く敵を倒せていれば……治療が間に合ったかもしれないのに……弱かったから……」
「あまり自分を責めるな、ミファー。お前は充分にやったよ」
なんて俺は言ってはみたが――
そんな言葉が慰めにならないことを俺は知っている。
なぜなら俺も魔界統一戦で多くの仲間を失ったからだ。俺の覇道のために笑って死んでいってくれた仲間たち。その命がこの手からこぼれるたびに俺も自分を責めたものだ。
充分にやったなんて言葉に意味などない。
俺はそれを知っている。
知ってはいるけども……結局、俺がミファーに言えた言葉はそれしかなかった。
ミファーは強く首を振る。
「もっと……! 強くなりたいです……オウマさん……!」
「そうだな。強くなろう」
「はい……これからも……ご指導お願いします……師匠……」
そう言ってからミファーはしばらく泣き――
やがて泣き疲れたのか、俺に寄りかかるようにして眠った。
俺はずっと撫でていたミファーの背中を軽くぽんと叩く。
「お前は自分を責めるけど……俺はお前がよくやったと思ってるよ。お前は自慢の弟子だ、ミファー」
俺は眠っているミファーの茶色い髪をそっと撫でてやった。




