熾天使と堕天使と(下)
「大丈夫か、ルシフェル?」
ルシフェルはオウマが差し出した手を取り、立ち上がった。
「ええ……ありがとうございます」
「……たいした傷はないようだが、えらく疲れた顔してるな?」
「そんなにひどい顔ですか?」
ルシフェルは自分の頬を触る。
顔の様子はわからないが、実際に疲れていた。全身が鉛のように重い。オウマが現れた安心感で張り詰めていたものが切れたのもあり、身体中に疲労感がのしかかっている。
無理もない、とルシフェルは思った。
相手は軍団長ミカエル。
もうひとりの自分。
一瞬の気の緩みすら許せない相手なのだから。
「すいません、どうしてここが?」
「ん? たぶん、こっちの空間に転移したからだと思うが、お前の気配がおかしな感じになっているのに気づいてな。気配探知してから場所を特定して飛んできたんだよ」
「……どうやって入ったんですか? ここはかなり特殊な次元で、普通は勝手に入れないはずなんですが……」
「え、そうなの? 確かに何だかめんどい感じだったけど、ちょっと頑張ったら入れたぞ?」
反射的にルシフェルは笑った。
(むちゃくちゃすぎますね!)
そもそも頑張ってどうこうできるレベルの話ではないのだ。
「え、え!? なに、どうしたの!?」
「いやー……いつもデタラメだと思っていましたけど、本当にもうインチキですね。この次元にそんな雑に割り込むなんて!」
「褒められたんだよな、一応?」
そのとき、ざしっと草を踏みしめる音がした。
音のほうを振り向くと、左頬を腫らせたミカエルが立っていた。
「まさか魔王が現れるとはな……」
ミカエルが口にたまった血を地面に吐き出す。
「なかなかきいたぞ。さっきのこぶしは」
「そうか、ありがとよ」
オウマがルシフェルを守るように立ちはだかる。
「まだやるつもりか?」
ミカエルは首を振った。
「さすがの我も、天界の元最高位天使と魔王を同時に相手どって戦うほどの蛮勇は持たぬ」
言ったと同時、どさりと音がした。
「それにちょうど時間だ」
落ちたのはミカエルの左腕だった。肩からもげたミカエルの左腕が地面に転がり、同時、塵に変わって消えた。
「な、なんだ!?」
「神の裁可を受けぬ顕現をしたのでな、このかりそめの肉体はもう限界というわけだ」
「よくわからんが、今日は退くということか?」
「そういうことだ」
ミカエルがルシフェルへと視線を向けた。
「出直すとしよう。次は神より正式な裁可をいただき、完全なる正義の名のもと貴様らに厳罰を執行してくれよう」
「月の出ない夜は気をつけろとか言わないのか?」
オウマのからかいに、ミカエルが隻眼を険しくする。
「口をつつしめ、卑しき者どもの王が!」
ミカエルの指先が怒りを表すかのようにわなわなと震えた。
「なぜ至高なる御方に仕える我々が貴様ら下郎を討ち果たすがごときのために不意を打たなければならない? 闇に身を潜めなければならない? 闇で息を潜めるのは貴様らの領分であろう、薄汚い魔族どもが! 我ら天軍が行くは光ある正道! 刃向かう敵は真正面からことごとく押し潰すのみ!」
ミカエルが指を鳴らし――
「いずれ落ちる死の刃を待つがいい。ルシフェル、魔王!」
世界にひびが入り、砕け散った。
一瞬の暗転。
視界に広がったのは転移する前の見慣れた世界。ルシフェルたちは元の世界に戻ってきた。
すでにミカエルの姿はそこにはない。
脅威は去った。
同時、ルシフェルの気も緩んだ。まるで肌の上から全身を締め上げるかのような緊張感がようやく消えたのだ。
ルシフェルの足下がふらついた。
「おっと、大丈夫か?」
オウマがルシフェルの身体を支える。
オウマの手を感じて、ルシフェルは身体中の細胞が弛緩するのを感じた。
ふっとルシフェルの表情がほころぶ。
そして、こう思った。
少しばかりこの偉大なる王の胸元で身を休めたい、と。
その直後――
ルシフェルは己の甘さを恥じた。
「ありがとうございます、魔王さま」
そう言うと、ルシフェルはオウマの手から離れた。
(わたしは何を――)
副官とは主と並び立ち、主を支える者。支えられる者ではない。
そんなこと自分に言い聞かせるまでもなく自明なのに。
(なぜ忘れた?)
ルシフェルは内心で首をひねる。
「大丈夫か、ルシフェル」
「はい。もう大丈夫です」
ルシフェルはうなずいた。
そして、森の奥を指さす。
「この奥でミファーが戦いに巻き込まれています。少し危ない状況だと思われますので見にいってもらえますか?」
「わかった。お前はどうする?」
ルシフェルはついていこうとしたが――
さすがに身体が重かった。覇気のない姿をオウマに見せたくもなかった。
ルシフェルはやや無理をして、いつもの皮肉げな笑みを浮かべた。
「魔王さまひとりで助けに行ったほうが、ミファーは喜ぶんじゃないですかね?」
「そうかなあ……」
オウマが小首をかしげる。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。お前は休憩しとけ」
そう言うと、オウマは森の奥へと走っていった。
ひとりになった後、ルシフェルはふぅとため息をついて近くの木へと背中を預けた。そのままずるりと下がり、地面に腰を下ろす。
「さすがに疲れましたね……」
ルシフェルは自分の右腕を見た。
「この腕でミカエル相手によくやったものですよ」
絶望的に不利な状況であったが、ミカエルの猛攻をしのぎきった。
とはいえ、万全ではないのはミカエルも同様。
活動限界がなければミカエルの攻勢はより激しさを増していただろう。
おまけに、ミカエルは本気ではなかった。
厳密に言うとミカエルの一撃一撃は確かに本気だった。すべてが必殺の一撃で直撃すればルシフェルの首は飛んでいただろう。
だが、ミカエル本人に本気の殺意はなかった。
『挨拶のつもりで来たのだ』
『防いでくれるだろうと思って放った一撃が、うっかりお前の首筋を撫でそうになるので困ったものだ』
『頼むから、この程度で死なないでくれ?』
ミカエルの言葉はどれも本当なのだろう。
そんな相手に五分という事実。
――弱くなったな、ルシフェル。
ミカエルの言葉がルシフェルの脳裏に蘇る。
「ひょっとすると、それは事実かも知れませんねえ……」
ルシフェルは自嘲まじりにつぶやく。
だが、そんなことルシフェルには興味のない話だった。
天界時代の自分などとっくの昔に捨てていた。
足のつま先から頭のてっぺんまで鋼鉄製になることで維持する強さなど欲しいとも思わない。
今は魔王の副官であるルシフェルでしかない。
昔と比べることに意味などないのだ。
魔王の副官として正しくあること。それだけがルシフェルの価値観を支えるすべてであり、誇りだった。
「ミカエル……わたしはね、今わりと幸せなんですよ……。仕えるべき――仕えるに値する主と巡り会えて……。あなたは幸せですか、ミカエル……?」
ここにはいない者への問い。だが、ルシフェルはミカエルの返答を正確に予想できた。
――神の従僕たる天使に幸せなどという感情は不要だ。価値などない。
「あなたなら、そう言うでしょうね……」
ふふふとルシフェルは笑った。
「つまり……わたしとあなたは同じですけど……違うんですよ。別の感情、別の魂を持った存在なんです。だから、わたしの堕天をあなたの責任のように……あなたの恥だと感じる必要はないのです……」
疲労による睡魔がそっとルシフェルによりそった。
ルシフェルの身体から力が抜け、いつもは鋭敏な思考がだんだんと速度を落としていく。
「……あなたの忠義がいつか報われるといいですね……」
ルシフェルは小さなあくびを噛み殺すと――
そのまま短い眠りへと落ちた。




