至高天はいと香(かぐわ)しき
「違うんだって、本当に! そういうのじゃないんだ!」
俺はルシフェルを呼び戻して必死に釈明した。
「別に俺はミファーをそういう気持ちで、その、押し倒していたわけじゃなくて!」
「そそそそうなんです! オウマさんは、うっかりして――!」
「はあ……それをわたしに信じろと?」
ルシフェルは、おいおい冗談はやめてくれよ、みたいな顔で俺たちを見ている。
そりゃ信じられないよなあ……。
普通、男は女を押し倒さない。犯罪である。
完全に俺のミスだった。においに集中しすぎて自分が何をしているのか気づいていなかった。
あのとき――
我に返った俺が見た光景は――
目を少しばかり潤ませて、小動物のようにぷるぷると震えているミファーだった。
思い出しても罪悪感しかない。
「本当にごめんな……ミファー……」
「だ、大丈夫です! オウマさんに変な気がないこと、小生は知っていますから! 師匠を信じていますから!」
ええ……子や……。
それに比べて俺というやつは……。
「……二人がそう言うなら信じるしかありませんが……」
ルシフェルが首をかしげる。
「別に隠さなくてもいいですよ? むしろ、わたしも未経験なので後学のため、ここで実演してもらっても構いませんが?」
「いやいやいやいや! 本当だから! 本当だから!」
こいつは何を言っているんだ……。悪ノリなのかマジなのかわからないのも、たちが悪い。
「不幸な事故だったとして、何であんなことになったんですか?」
「えーと、ミファーのにおいが気になってな……」
「ミファーのにおい?」
ルシフェルがミファーを見て、鼻をひくひくさせた。
「……? 別に何もにおいませんが?」
「いや、違うんだ。ルシフっぽいにおいがするんだよ」
「は?」
ルシフェルが眉間にしわを刻む。
「きもいですね、兄上さま」
「いやいやいやいや! そういう意味じゃなくて!」
「ミファーからわたしのにおいがするはずありませんよね?」
「してるんだって!」
ルシフェルがじいぃぃぃぃっとミファーを見た。
ミファーはびくっとした様子で身体を震わせる。
「失礼」
「きゃっ!?」
言うなり、いきなりルシフェルはミファーを押し倒した。
うつぶせになったミファーの背中にのしかかり、そのうなじに鼻を近づける。
ふんふん、ふんふん。
俺とは違って、容赦なく鼻をこすりつけていた。
「や、やめてくだ――ひゃん!?」
こそばゆいのかミファーが「あっ」とか「うっ」とか「んっ」とか言いながら悶絶している。
えええ……うわあ……。
俺はそっと目を背けた。
なんかこう、じっと見ているだけでも悪いことしているような気分になってしまう……。
ていうか、俺は反省した。
ルシフェルほどではないが、俺もあれに近いことをしていたと思うと本気でやるせない。
まじでごめんな、ミファー……。
「なるほど、そういうことですか」
そう言って、ルシフェルが顔をあげる。
その後よろよろとミファーが身を起こした。
「ミファー、大丈夫か……?」
「す、すいません……小生、外で頭を冷やしてきます……」
そんなことを言いながら、ミファーはテントから出ていった。
「魔王さま」
二人だけになったのでルシフェルは遠慮なく俺を魔王と呼ぶ。
「魔王さまの言っていることは半分だけ正しいですね」
「そうだろう? ……って、半分?」
「確かにミファーから独特なにおいがします。ただ、あれはルシフェル臭ではなくてですね、天界臭です」
「天界のにおい?」
「はい。天界は地上と空気の組成が異なりますので、少しにおいが違うのですよ。わたしにも染みついているので、わたしのにおいだと勘違いしたのでしょう」
「だけど、どうして天界? ミファーにそんなにおいが?」
「……可能性があるとすれば、天界の住人――天使と接触したかと」
「天使? この難民キャンプで?」
「はい」
「ルシフェルのにおいがうつったとかは?」
「そんなに濃密な接触はしてないと思うんですけどね」
「ここに天使がいるのか……? だけど、俺はお前とミファー以外にそんなにおい感じなかったけどな」
「閉じたテントの中でこれほど近いから気づけたんだと思いますよ。かなり微弱な香りですから。外だと気づけないでしょう。ていうか、テントの中でもよほど注意しないと気づきません。魔王さまの嗅覚がおかしいんですよ」
「そうか……」
「このキャンプにいる間、ミファーはこちらで監視しておきましょう。天使の影が見えるとなると捨ておけませんからね」
天界の元最高位天使はそう言って、気合いを――
気合いが抜けるようなため息をついた。
「どうしたの?」
「いやー……もう堕天してかなり経つと思うんですけど、いまだにわたしの身体に天界臭がこびりついていると思うと憂鬱で憂鬱で……」
この堕天使は創造主の神ですら『名前を口走るのも虫酸が走るあのクソ野郎』呼ばわりなのだから、その気持ちも当然だろう。
ルシフェルは消臭魔法を発動し、指先から霧吹きのように自分へと噴射し始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
時刻は午前ゼロ時ゼロ分。
場所は難民キャンプを見下ろせる小さな丘。
まるで星が夜空を流れ落ちるかのように、天から幾筋もの光芒がこぼれ落ちていた。光芒は地面に落着すると、光輝く筋となって地面に文様を刻む。
やがてそれは人間が両手を広げたほどに大きい魔法陣を大地に描き出した。
魔法陣が完成すると同時に光の雨がやむ。
続いて、大気が軋みをあげた。
まるでそれは空気、否、空間そのものが悲鳴を上げるかのような、そんな音と震えだった。
魔法陣を中心に暴風のような理力と魔力が渦巻いていた。
もしも強固な結界魔法が張られていなければ、オウマでなくても、普通の一般人ですらこの異常事態に気づいていただろう。
やがて、雷鳴のような光が天から落ちて――
轟音とともに、それは顕現した。
魔法陣は消え、代わりにその中央に一人の女が立っていた。
ロングコートのような軍服を羽織り、背中には巨大な羽毛の翼を広げている。両腕を組み、周囲を威圧するかのような傲岸な気配を全身から放っていた。
顔立ちは美しい。
とても、美しい。
豊かな金髪に色白の肌。コートのような軍服でも覆い隠せないほど、身体のラインも美しい。
彼女はルシフェルのように美しかった。
いや、それは正しくない。
ルシフェルとうり二つだった。
違う点は二つだけ。
ひとつ目は翼の色。堕天使であるルシフェルの翼は漆黒だが、彼女の翼は染みひとつない純白。
ふたつ目は左目。彼女の左目は黒い眼帯に覆われていた。
彼女はそっと眼帯に触れる。
「わざわざ来てやったぞ、ルシフェル。会うのは何年ぶりかな。ずっとお前を殺したくて殺したくて――飢え渇いた日々だったよ。堕天使になった天使の面汚しが……」
その声は憎悪に満ちていた。
彼女の名はミカエル。全天使を統括するもの。
それすなわち、彼女こそが天使のなかの最強。
今ここに――
至高なる熾天使、軍団長ミカエルが降臨した。




