熾天使ミカエル
月が静かに輝く夜。
熾天使ミカエルは人間界に降臨した。
静謐なる世界に降臨した至高の天使。まるで一枚の絵のように美しい情景だったが――
「いやぁ、こんな夜中にわざわざ人間界まで。おつかれーっす、軍団ちょー!」
木陰から台無しにするような軽い声が響き渡った。
「出迎えご苦労、カマエル。だが――」
ミカエルが声のほうに顔を向ける。
降臨の準備を行ってくれたのがこの声の主だ。
「出迎えは顔を見せて行うものでは?」
「いやいや……勘弁してくださいよ、軍団ちょー。いと高き御方に許可とらずに出てきてるんでしょ? 会わない知らない気づかないでいさせてくださいよ。顕現を手伝っただけでもマジヤベーって気分なんですから」
カマエルの言うとおり、ミカエルの出撃は個人的な判断だった。
通常、天使は神の許可がなければ下界に降りられない。
――堕天使ルシフェルらしき個体を確認。
作戦行動中のカマエルからその報告を受け、常に冷静沈着なミカエルが我を失うほどに動揺した。
そして、神の指示を仰ぐこともなく、軍規すら忘れて――
ミカエルはこの地に降り立った。
「いつも軍規軍規うるさい軍団ちょーが軍規を破るなんてねえ。下のものへの示しってどうするんです?」
「示しがつくほどの厳罰をいと高き御方に与えてもらうさ」
こともなげにミカエルは言う。
その声に恐れはみじんもない。
天界の罰を普通の天使は恐れる。だが、ミカエルの鋼鉄の精神は揺るがない。それを受けるに値する行動をとったのなら、ただ報いを受けるのみ。厳罰に処されれば諾々と従い耐えるのみ。
ミカエルは何の不満も恐れも感じない。
今回の独断にはそれだけの価値がある。
「ひゅ~。マジかっこいいーっす。軍団ちょー」
ぱちぱちぱちぱちとカマエルが手を叩く。
「そこまでの覚悟でルシフェルぱいせんと相まみえるんですね!」
試すような口調でカマエルが続けた。
「ひょっとしてそれ、近親憎悪ってやつっすか?」
ミカエルの右手が動いた。
乾いた音ともに、カマエルが潜む木に孔雀の羽が突き立つ。
「言葉には気をつけることだな、カマエル。言っていいことと悪いことの区別はつけるべきだ」
再びミカエルが右腕を振るう。
次の瞬間、その右手には漆黒の剣が握られていた。
ミカエルの剣――宵の明星。
「わからないのなら、その素っ首を落としてやろうか?」
ミカエルの表情は変わらない。だが、声には殺意があふれかえっていた。
「いやいやいや! じょーだん! じょーだんですよ。軍団ちょー! ほら、自分って新参者だから、あの噂は本当なのかなーって気になってて! ごめんなさい!」
ミカエルの本気に気づき、カマエルが焦った声で取りなす。
「自分ごときに力を使うのはもったいないですよ。制限時間付きでしょ? ルシフェルぱいせんのためにとっておきましょーよ」
カマエルの言うとおり、今のミカエルは万全ではなかった。
神の許可を得ない降臨には行動制限がつく。扱える理力に限界があるのだ。何もしなければ長い滞在も可能だが、全力で戦えばすぐに底をつくだろう。
「それもそうだな」
ミカエルは宵の明星を消すと、眼下に広がる難民キャンプへと目を向けた。
「で、あそこにルシフェルがいるのは間違いないのか?」
「そりゃ大丈夫です。見間違いもないです。だって軍団ちょーと同じ顔だし」
言って、くひひひひひとカマエルが笑う。
「……やはりその首落としてやろうか?」
「いや、すいません! 今のマジうっかりで! ホント口に気をつけます!」
ミカエルは息をひと吐きして、怒気を沈めた。
難民キャンプは夜の底に沈んでいた。今は深夜。もうほとんどの人間は眠りについているだろう。最低限の明かりだけが点々と灯っていた。
あの中に、ルシフェルがいる。
その事実を思うだけで、ミカエルの心に憎しみの炎が灯る。今すぐあの場所に飛んでいって、ルシフェルの喉をかききってやりたい。
身体中が衝動で震えるほどだった。
ミカエルは両手を突き出す。
「さて……では、あそこを焼き払ってルシフェルをあぶり出すか」
ミカエルの手に理力の輝きが灯る。
「ちょっと待ってください、軍団ちょー! やることダイナミック! あそこには依り代がいますから焼かれると自分が困るっす!」
「……ああ、そうだったな。依り代との接触がお前の任務だったか。焼き払うのは問題があるな」
ミカエルは両手を降ろした。
「だが、どうやってルシフェルをあぶり出す? 明日の朝、わたし自らあそこに乗り込んでもいいが」
「人が多いところは避けましょうよ、軍団ちょー。穏便穏便ですよ。今回の件、自分の関与を疑われるのは勘弁してほしいので。うまくルシフェルぱいせんを釣り出しますから」
「ルシフェルを釣る? どうやって?」
「痕跡を残しておいたっすよ。気づいてくれていれば、明日うまく釣れるかもしれないっす」
「わかった。ではとりあえずお前に任せるとしよう」
それができなければ皆殺しにしてあぶり出すだけ。
ミカエルの思考は常にシンプルで無駄がなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日。
ミファーはキャンプ近くの森に薪拾いに来ていた。
あれだけの数の難民を支えるには落ちている木の枝だけではとうてい足りない。すでに何本もの木が切り倒されて解体されている。ミファーの仕事はそれを持って帰ることだ。
ミファーがせっせとかごに木の枝を積んでいたとのことだ。
「やっほー、ミファー」
後ろから声がした。
振り返ると、同じくかごを背負ったセーラがやってきた。
「セーラさん、おはようございます!」
セーラはミファーの近くまでやってくると、つんつんとミファーの二の腕をつつく。
「それで――昨日の夜はどうだった?」
「え?」
「ほら~。そのネックレスの効果はあったのか、って」
セーラの視線の先に、ミファーの首に掛かった赤いネックレスがあった。
それはセーラが貸してくれた、セーラ曰く幸運のネックレスだ。
――ひょっとすると、オウマくんが告白してくれるかも。
そんなことを言って、セーラはミファーを送り出してくれた。
「告白されちゃった?」
「そそそそそ! そんなのないっす! あるわけないっす!」
ミファーは首をぶんぶん振って否定する。
「あら~、そうなの?」
まったく信じていない表情でセーラがミファーの顔をのぞき込む。
「昨日の夜、ぽーっとした顔で歩いているミファーを見て、あっ、大人の階段を上っちゃったのかな、って思ってお姉さんは感慨深かったんだけど」
ぽーっとした顔――
それはおそらく、ルシフにあんなことやこんなことをされた後の様子だろう。
ミファーは思い出した。
うなじをなぞる、ルシフの鼻先の感触を。至近距離から肌に降りかかる生暖かい息を。
思い出して、顔を真っ赤にした。
反応したのはセーラだった。
「あ、やっぱり何かあったんだ!?」
「ち、違うっす! ここここれは! オウマさんじゃなくて、オウマさんとは何もなくて、妹さんの――」
「え、女の子同士!? ミファーってそっち系なの!?」
「ちちちち違うっす! とにかく、何もなかったです!」
ミファーの慌てっぷりを見てセーラが笑った。
「はいはい。何もなかったんだね。でもきっとネックレスのおかげで楽しい経験ができた夜だったとお姉さんは信じているよ!」
セーラはくひひひひひと笑うと、離れた場所にうつって作業を始めた。
ミファーは胸を手で押さえて大きく息を吐いた。とてもすぐに作業を再開できる気分ではなかった
数分後、ようやく落ち着いたとき、ミファーは違和感を覚えた。
空気に異臭を感じたのだ。まるで獣のような臭い。そして、こちらへと近寄ってくる複数の気配を。
かすかな、土や草を蹴る音がだんだんと近づいてくる。
明らかに人間の気配ではなく――
友好的なものでもない。
ミファーは作業用の手斧をぎゅっと握りしめて意識を集中した。
勘違い?
いや、そんなはずはない。
「セーラさん! 気をつけ――」
振り返りながらミファーはセーラに声をかける。
その声は途中で止まった。
薪を拾っているセーラのすぐ近くに、それがいたからだ。
背丈は二メートルを超えている。肩にも胸にも分厚い筋肉がはりついている。身体中は獣毛に覆われて、腰から下は粗末なズボンをはいている。
特筆するべきは、頭。
頭部は完全に狼のそれだった。むき出しの鋭い歯の隙間からだらだらと唾液がこぼれている。
(狼人種!)
ゴブリンやオークのような亜人種のひとつだ。強い筋肉と敏捷性、いくばくかの知性を持ち、亜人種の中では強力な部類に入る。
この森に狼人種がいるというのはミファーも知っていた。だが、それは森の奥の話で入り口からほど近いこの辺に出没するとは思ってもいなかった。
「んー? なに、ミファー?」
セーラがのんびりとした声を出してミファーに振り返り――
その動きが狼人種を見て固まる。
「逃げて!」
ミファーが叫ぶと同時、狼人種の鋭い爪が動く。
肉を切り裂く音がして、ぱっくりと割れたセーラの胸から血しぶきが噴き出した。




