堕天使の追憶
オウマと別れたあと、ルシフェルは森には向かわず部屋に戻っていた。
結果がわかりきっていたからだ。
みずからが最強とみなす主が動いたのだ。ルシフェルの計が破れるなど当然の帰結。そんなものを見届けたいと思うほどルシフェルは暇ではないしセンチメンタルでもなかった。
部屋に戻ったルシフェルは、静かに本を読んでいた。
オウマが部屋に戻ってきたのは朝方だった。
手短にオウマがぼやいた内容をまとめると「教師に捕まって事情聴取されていた」らしい。
「ううう……眠い」
頭をがしがしとかきながら、オウマは寝室へと直行する。
数分後、ルシフェルは本を置くとそっと寝室へと入った。
カーテンを閉ざした部屋でオウマが眠っている。寝息が一定のリズムを刻んでいた。
主の顔を見ながら、ルシフェルは昨晩の出来事を思い出していた。
――お前にとって俺はその程度の主だったというのか、ルシフェル!
あの一喝は今もルシフェルの耳に残っていた。
いや、ルシフェルが死ぬその日まで忘れぬ言葉だろう。
言われた瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。オウマから放たれたのは本気の怒りだった。冗談でも「はいそうです」と言えばその瞬間――有無を言わさずルシフェルはオウマに叩き伏せられていただろう。
だから言えなかった。
別に、オウマに叩き伏せられるのが怖いのではない。
自分の居場所を失うことが怖かったからだ。
いつもかぶっている冗談の仮面を即座に外して膝を折った。自分が世界で唯一忠義を捧げる主に、見捨てないでくれと懇願した。
それほどにルシフェルのオウマへの忠誠心は深い。
ルシフェルはオウマがちょうど魔界を統一した前後くらいに神によって生み出された新しい天使だ。
与えられた使命は魔王の抹殺。
ゆえにパラメタは戦闘用に極振りされている。
その使命を果たすため、配下の天使たちを率いて何度もルシフェルはオウマたち魔王軍に戦いを挑んだ。
オウマはとんでもなく強かった。神により戦闘専用として創造されたルシフェルが本気で戦ってもオウマを倒すことができなかった。
しかも恐ろしいことにオウマはかなり本気で戦っているようだが――まだ余力を残しているふしすらあった。
(化け物か、あいつは)
ルシフェルは自分を棚に上げてそう思った。
二人が最後に戦ったのはある雨の日のこと。
その数日前、とある理由でルシフェルは神への信頼も忠義も尊敬もすべて失った。投げ捨てたのだ。
「そうか。わたしの信じていたものに意味などなかったのだな……」
配下の天使たちを連れてルシフェルは神の元を離れた。
当時のルシフェルにとって神の存在とはすべてだった。
自分を生み出した父であり母であり、自分が仕えるべき唯一の主であった。自分の命のすべては神のためにあり、神が死ねと命じれば笑って死ぬのみ。それがルシフェルの価値観のすべてだった。
だが、その想いは踏みにじられた。
ルシフェルは信じるものを失ったのだ。
(死ぬか)
ルシフェルはそう思った。神の人形でしかない自分に、神の元を離れて生きる意味などない。
自刃してもよかったが――
そのとき頭に浮かんだのはオウマだった。
(ああ、そうか……どうせならば、あの男と戦って死のう。わたしの命は魔王と戦うために生まれたのだ)
ならば、魔王に殺されることこそが正しい命の使い方。
ルシフェル率いる天使軍は魔王軍に最後の決戦を挑んだ。ルシフェル自身もまたオウマと相対する。
「魔王、今日はとことんまでやろう。お前かわたしが死ぬまでだ」
「どういう風の吹き回しだ? ……いいけどさ」
そしてルシフェルとオウマはぶつかり合い――
あっさりルシフェルは倒された。
「ぐはっ……!」
ルシフェルは血を吐いた。両手両膝を地につき、背中の翼はぼろぼろに痛んでいる。
「やはり……強いな、魔王は」
勝てるはずがないとルシフェルは最初からわかっていた。信じるものが自分の心を強固に支えていたときでさえ、ルシフェルはオウマに勝てなかったのだ。がらんどうになってしまった今の自分に勝てるはずなどない。
これは名誉ある戦死という形をした、ただの自殺だ。
オウマが口を開いた。
「そうか? 俺が強いんじゃない。お前が弱くなっただけだろ」
あっさりとルシフェルの状態を見抜いている。
「ふふ、そうか……まあ、そうだろうな……だが、どうでもいい」
きっとルシフェルはオウマを見た。
「殺せ」
「断る」
「なっ――!?」
オウマのあっさりとした返答にルシフェルは言葉を失う。
オウマは冷たく言い放った。
「勝とうって気がなかったよな、お前。最初から負けて死ぬつもりだった。違うか?」
「どうだっていいだろ、そんなこと!」
「どうだってよくないさ。死にたがりを殺す趣味はないんでね。自殺なら勝手にやってくれ」
「ふざけるな! 情けか!? くだらない! そうだ! わたしは死ぬためにここに来たんだ! 死ぬために! お前と戦って死ぬために! だから、さあ、約束どおり殺してくれ!」
「……その顔だよ」
「なに?」
「そんな顔してるやつ殺せるかよ」
「そんな、顔?」
「捨てられた子供みたいな顔してるぜ」
オウマがじっとルシフェルの目を見た。
「そうか、お前。神と袂をわかったんだな」
ルシフェルは何も答えなかった。
「行くところがない、そういうことか」
オウマは肩を落とし、はあ~~~と大きなため息をつくと戦場全域に響き渡るような大声を上げた。
「停戦だ! お前たちやめろ! 今から天使どもに手をあげるやつは俺が許さん! 天使ども、お前たちもだ!」
突然の魔王の命令に魔族も天使も混乱した。だが、魔王の強さは誰もが知っている。彼らは戦いを止め、オウマとルシフェルの二人に視線を注いだ。
ルシフェルは地面を叩いた。
「いい加減にしろ! 情けなどいらないと言っている! 今すぐ殺せ! 殺してくれ!」
「黙れ。お前の言い分など知るか。俺がどうしたいかだ。勝者は俺だ。勝者が己を通すのが魔界のルールだ。知らなかったのか?」
オウマがルシフェルに背を向ける。
「俺は帰る。黙って俺についてこい、ルシフェル。寝床と仕えることへの矜持くらいは与えてやる」
「お前に仕えろだと……? バカな! 天使のわたしが? 傷が癒えればお前の首を刎ねるぞ!」
顔だけ振り返ったオウマの表情は――笑っていた。
「ああ、そうしろ。それでいい。強きものが弱きものを駆逐する。裏切り上等。それが魔界のルールだ。知らなかったのか?」
そうしてルシフェルはオウマの配下についた。
ルシフェルが正式に堕天したのはそれからしばらくしてだった。
――寝床と仕えることへの矜持くらいは与えてやる。
その言葉どおりのものをオウマはルシフェルに与えてくれた。ルシフェルは神に仕えていたとき以上の充足を感じていた。
ルシフェルがオウマを裏切るなどありえないことだ。
ゆえにオウマに絶対の忠義を誓うルシフェルの命題は『主の命を守り通すこと』。
ミファー殺害計画もその一環だった。
フレイアとの戦いを見て、ミファーの理力が異常であることをルシフェルは即座に見抜いていた。
少なく見積もってもその推定最大値は五〇万。
本気のルシフェルに匹敵するほど――否、ひょっとするとそれをも超える理力をミファーは秘めていた。
もちろん、それはあくまでも『埋蔵量』であって、平時のミファー本人はその一〇%も引き出せていないようだったが。
なぜ、ただの人間が?
ルシフェルは神々が進めていた計画のいくつかに心当たりがあったが、まだその詮索は進めていない。
大事なことはひとつ。
ミファーはいずれオウマにとって強力な敵となる可能性がある。
だから、副官としてルシフェルは即決した。
ミファーを殺すと。
これはルシフェルが非道というより優先順位の問題だった。
ルシフェルにとってオウマの命と安全は何よりも重い。
ミファーを狙う理由をオウマに言えなかったのはとても単純だ。
無敵のオウマは退屈が嫌いだ。退屈しないほどの強敵がいるなら歓迎するだろう。
そんなオウマにミファーの理力値を告げれば嬉々として「じゃあ、強く育つまで待とうじゃないか」と言い出すに決まっている。
だから、オウマにミファーの力を知られるわけにはいかなかった。
無敵のオウマに敗北はないだろうが、万難を排するのが副官である自分の仕事だとルシフェルは考えている。
ミファー暗殺をルシフェルは諦めていなかったが、今回の件でやりづらくなるのは明らかだった。
だが問題ない、とルシフェルは思う。
最悪、もしもミファーがその才能に目覚めてしまい――例えそうなったとしてもありえないことではあるが、ミファーがオウマを追い詰めた場合、ルシフェルがその身を捨ててオウマを守るだけだ。
その結果、命を落としてもルシフェルは後悔しないだろう。
ルシフェルが仕える主には、天界の元最高位天使が命を賭けるだけの価値があるのだから。
ルシフェルが独り言をこぼした。
「まったく……副官にどれだけの苦労をかけているのかご存じなのですか、魔王さまは?」
オウマは返事しない。ぐーすか寝ている。
しかし、それでいいとルシフェルは思う。
副官であること、仕えることの喜びと矜持は確かに胸の中にあるのだから。
ふふふ、と笑ってルシフェルはドアを閉めた。




