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国を守る嘘  作者: アゴウオカダ
第一部 若き外交官編 第二章 境界線
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第二十話 記録の名前



「エドガー・ヴァイス。」


 その名前が会談室に落ちてから、誰もすぐには言葉を発しなかった。


 アシュレイは机の上の記録を見る。


 粗末な紙ではない。


 帝国の国境監視所で正式に使われている書式。


 日付。


 入国地点。


 所属。


 目的。


 そして名前。


 確かに、そこには記されている。


---


「この記録。」


 アシュレイが口を開いた。


「いつのものですか?」


---


 文官が答える。


「三週間前です。」


---


「ヴェルナへ入った?」


「はい。」


---


「帝国側から?」


「記録上は、そうなっています。」


---


 アシュレイは紙から目を離さない。


---


「記録上は、というのは?」


---


 文官が少し困った顔をした。


「入国を確認した兵士が、本人を直接確認していません。」


---


「どういうことです?」


---


「同行者が提出した書類をもとに記録されたものです。」


---


 レオンが紙を受け取る。


---


「同行者?」


---


「二名です。」


---


「名前は?」


---


「こちらには記録されていません。」


---


 レオンの眉がわずかに動いた。


---


「それはおかしいですね。」


---


「はい。」


---


 アシュレイも同じことを考えていた。


---


 国境を越える人間が三人。


 そのうち一人だけ名前が残っている。


 しかも、その名前がエドガー。


---


「エドガー本人を確認した記録は?」


---


「ありません。」


---


「荷物は?」


---


「ありません。」


---


「職業は?」


---


「鉱山技師。」


---


 アシュレイは目を細めた。


---


 そこだけは一致している。


---


 エドガーは鉱山技師だった。


 第一章で出会った時もそうだった。


 地下施設の奥にいた彼は、研究者でも軍人でもなく、あくまで鉱山技師としてそこにいた。


---


「この記録を書いた兵士は?」


---


「襲撃時に負傷しています。」


---


「話は聞けますか?」


---


「今は治療中です。」


---


 アシュレイは椅子に深く腰掛けた。


---


 偶然ではない。


 そう考えるのは簡単だった。


---


 しかし。


---


 外交官にとって、一番危険なのは簡単な答えだった。


---


「レオン。」


---


「はい。」


---


「この記録が本物だと考えるには、情報が足りません。」


---


「同感です。」


---


「ですが、偽物だと考えるにも情報が足りない。」


---


「その通りです。」


---


 二人の視線が記録へ向く。


---


「つまり。」


---


 レオンが静かに言った。


---


「誰かが、我々に考えさせたい情報だけを残した可能性があります。」


---


 アシュレイは黙った。


---


 その可能性は十分にあった。


---


 国境監視所が襲われた。


 記録が持ち去られた。


 その中に、エドガーの名前だけが残っていた。


---


 まるで。


---


 **「エドガーを探せ」**


---


 そう仕向けているように。


---


「罠かもしれませんね。」


---


 ミレイが初めて口を開いた。


---


 アシュレイは頷く。


---


「ええ。」


---


「では、エドガーさんのことを帝国には話さないのですか?」


---


 その質問に、アシュレイはすぐには答えなかった。


---


 レオンが黙ってこちらを見ている。


---


 アシュレイはゆっくりと息を吐いた。


---


「現時点では。」


---


「話しません。」


---


 ミレイは少し驚いた顔をした。


---


「でも……」


---


「理由があります。」


---


 アシュレイは声を落とした。


---


「エドガーが帝国側の人間だったとしても。」


---


「王国に敵対していたと決まったわけではありません。」


---


「逆に、王国側の人間だったとしても。」


---


「帝国に敵対していたと決まったわけではない。」


---


「ならば、今ここで彼をどちらかの側に分類する必要はありません。」


---


 レオンが静かに頷いた。


---


「正しい判断です。」


---


 だが。


---


「ただし。」


---


 レオンは続ける。


---


「帝国としては、エドガー・ヴァイスという人物について調査します。」


---


「構いません。」


---


 アシュレイは答えた。


---


 その瞬間。


 自分の胸の奥に、わずかな痛みを感じた。


---


 エドガー。


---


 第一章で出会った時。


 彼は地下施設の奥で、何かを恐れていた。


---


 そして今。


---


 帝国の記録に、その名前が残っている。


---


 もし彼が本当に国境を越えていたのなら。


 なぜ?


---


 誰と?


---


 何のために?


---


 そして。


---


 **なぜ、その記録だけが襲撃現場に残されたのか。**


---


 分からないことばかりだった。


---


「一つ確認してもいいですか。」


---


 レオンが言った。


---


「どうぞ。」


---


「あなたは、エドガー・ヴァイスという人物を知っていますね。」


---


 アシュレイは黙った。


---


 質問の仕方が変わった。


---


「……なぜ、そう思うんです?」


---


「先ほどから、あなたは一度も彼を『その人物』と呼ばない。」


---


「ずっと名前で呼んでいる。」


---


 アシュレイは苦笑した。


---


「よく見ていますね。」


---


「仕事ですから。」


---


「ええ。」


---


 アシュレイは椅子から立ち上がった。


---


「知っています。」


---


 それだけを認めた。


---


 レオンは追及しない。


---


「では、もう一つ。」


---


「彼を守るために情報を隠しているのですか?」


---


 アシュレイはレオンを見る。


---


 その問いには。


 今までとは違う重さがあった。


---


「いいえ。」


---


 アシュレイは答えた。


---


「少なくとも、今は。」


---


「彼を守るためではありません。」


---


「では、何を守るためです?」


---


 アシュレイは窓の外を見る。


---


 国境へ向かう街道。


 その先には、王国がある。


 反対側には帝国。


---


「事実です。」


---


「まだ何も分かっていないのに、誰かを敵にしてしまう。」


---


「それを避けるためです。」


---


 レオンはしばらく黙っていた。


---


 やがて、静かに笑う。


---


「あなたらしい答えですね。」


---


「褒めています?」


---


「今回は。」


---


「褒めています。」


---


 少しだけ空気が和らいだ。


---


 しかし。


---


 その時だった。


---


 扉の外から、慌ただしい足音が響く。


---


「失礼します!」


---


 先ほどの文官が飛び込んできた。


---


「レオン様!」


---


「どうした?」


---


「負傷した監視兵が目を覚ましました。」


---


「それで?」


---


 文官は息を整える。


---


「襲撃者について、一つだけ証言があります。」


---


「何と言っていた?」


---


 文官はアシュレイを見る。


---


「襲撃者の一人が。」


---


「エドガー・ヴァイスという名前を口にしていたそうです。」


---


 アシュレイの表情が消えた。


---


 偶然ではない。


---


 少なくとも。


---


 そう思わざるを得ないところまで、事態は進んでいた。


---


 だが、その名前が意味するものはまだ分からない。


---


 敵なのか。


 味方なのか。


 囮なのか。


---


 アシュレイは静かに拳を握った。


---


 そして初めて。


---


 **自分からエドガーを探す必要がある**


と考えた。



毎日20時20分投稿予定です。


もしよければ、ブックマークと評価よろしくお願いします。

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