第十九話 失われた記録
ローゼンベルク辺境伯が去ったあとも、会談室には重い空気が残っていた。
アシュレイは机の上に広げられた国境地図を見つめている。
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「三十日分。」
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先ほど聞いた言葉を、もう一度口にする。
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「国境監視記録が、それだけ持ち去られた。」
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レオンが頷く。
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「はい。」
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「何者かが帝国軍の配置を知りたかった。」
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「その可能性は高いでしょう。」
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「でも、それだけなら三十日分も必要でしょうか。」
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レオンは答えなかった。
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アシュレイは地図へ手を伸ばす。
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「襲撃された監視所。」
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指先が一点を示す。
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「ここですね。」
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「ええ。」
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「そして、こちらがヴェルナ。」
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少し離れた場所を指す。
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「距離は?」
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「街道を使えば半日ほどです。」
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「近い。」
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アシュレイは地図を眺める。
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監視所からヴェルナへ続く街道。
その途中には、小さな村がいくつかある。
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「この街道を通る人間は?」
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「商人が多いです。」
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「他には?」
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「鉱山関係者。」
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レオンが答える。
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その瞬間。
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アシュレイの指が止まった。
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「鉱山関係者。」
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「はい。」
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「ヴェルナの鉱山で働いている人間は、帝国側にもいる?」
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「一部の鉱石は帝国へ輸出されています。」
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「つまり。」
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「国境を越える商人だけでなく、鉱山関係者もこの道を使う。」
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「そういうことです。」
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アシュレイは目を細めた。
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地下施設を発見した時。
そこにはエドガーがいた。
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鉱山技師として、地下施設の調査に関わっていた男。
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彼が何を知っているのか。
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まだ完全には分からない。
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しかし。
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(もし誰かが地下施設を探しているのなら。)
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鉱山に関係する人間を調べるのは自然だ。
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「レオン。」
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「はい。」
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「襲撃者は、監視記録以外に何か持ち去っていませんか?」
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「今のところありません。」
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「人員名簿は?」
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「残っています。」
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「武器庫の記録は?」
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「無事です。」
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「なら。」
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アシュレイはゆっくり顔を上げた。
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「彼らが欲しかったのは、兵力そのものではない。」
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「人の移動です。」
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レオンの表情が変わった。
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「……なるほど。」
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「誰が国境を越えたのか。」
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「いつ、どこへ向かったのか。」
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「それを知るために監視記録を奪った。」
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レオンはしばらく考えた。
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「だとすれば、目的は軍事情報ではない可能性があります。」
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「ええ。」
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「特定の人物を探している。」
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その言葉が落ちた瞬間。
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アシュレイの脳裏に、エドガーの顔が浮かんだ。
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しかし。
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口には出さない。
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「何か思い当たることがありますか?」
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レオンが尋ねる。
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アシュレイは一瞬だけ目を伏せた。
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「いいえ。」
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嘘だった。
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だが、それはエドガーを守るためだけの嘘ではない。
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まだ何も確定していない。
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ここでエドガーの名前を出せば、
「なぜ知っている?」
という疑問が生まれる。
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そして、その先には地下施設の話がある。
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今はまだ。
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そこまで踏み込ませるわけにはいかなかった。
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「そうですか。」
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レオンはそれ以上聞かなかった。
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だが。
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アシュレイは気付いていた。
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レオンは信じていない。
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それでも追及しなかった。
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「レオン。」
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「何でしょう。」
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「あなたは、今の私の答えを信じていますか?」
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レオンは少しだけ笑った。
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「信じているかどうかと、追及するかどうかは別です。」
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「それはずいぶん外交官らしい。」
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「あなたもでしょう。」
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二人の間に、短い沈黙が流れる。
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その時。
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扉が叩かれた。
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「失礼します。」
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入ってきたのは帝国の若い文官だった。
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「レオン様。」
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「監視所の記録について、追加の報告があります。」
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「聞こう。」
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「持ち去られた記録の中に、一枚だけ別の書類が混ざっていました。」
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文官が紙を差し出す。
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レオンが受け取り、目を通す。
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「これは?」
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「鉱山労働者の出入り記録です。」
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アシュレイは息を止めた。
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「なぜ監視記録に?」
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「分かりません。」
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「ただ。」
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文官が続ける。
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「その記録には、帝国側からヴェルナへ入った人物が一名、記されています。」
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アシュレイが顔を上げる。
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「名前は?」
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文官は紙を見る。
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「エドガー・ヴァイス。」
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空気が止まった。
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アシュレイは何も言わない。
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レオンも何も言わない。
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ただ。
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互いに一度だけ視線を交わした。
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それだけで十分だった。
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エドガーが。
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この国境の問題と無関係ではない可能性が、初めて形を持った。
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しかしアシュレイは、まだ知らない。
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その記録が。
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**誰によって、なぜ紛れ込ませられたのか。**
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そして。
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エドガー本人が今、どこにいるのかさえ。
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