第十五話 境界の民
迎賓館を出ると、朝の市場はすでに活気に満ちていた。
焼きたてのパンの香り。
鍛冶場から響く槌の音。
荷車を引く商人たちの掛け声。
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アシュレイは冊子を閉じた。
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「数字では分からないものがありますね。」
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隣を歩くミレイが笑う。
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「だから街へ出られたのでしょう?」
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その言葉に、アシュレイも小さく笑みを返した。
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二人は市場をゆっくり歩く。
帝国の人々は王国の使節に気付いても、必要以上に騒ぐことはない。
珍しそうに見る者はいても、敵意を向ける者はいなかった。
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「兄ちゃん。」
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不意に、小さな声がした。
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十歳ほどの少年が、木箱を抱えて立っている。
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「それ、落としたよ。」
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足元には革の手帳が落ちていた。
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アシュレイは気付かぬうちに落としていたらしい。
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「ありがとう。」
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受け取ると、少年は照れくさそうに笑った。
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「王国の人なんだろ?」
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「そうです。」
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「へえ。」
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「父ちゃんが言ってた。」
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「戦争にならなくて良かったって。」
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その言葉に、アシュレイの表情が少しだけ変わる。
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「……どうしてですか。」
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少年は首を傾げる。
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「どうしてって?」
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「戦争になったら、父ちゃんが商売できなくなるじゃん。」
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「それに。」
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「また橋が閉じる。」
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橋。
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国境に架かる、あの石橋のことだ。
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「橋が閉じると?」
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「王国から来る布も薬も止まる。」
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「うちの店、それで困るんだ。」
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少年は当たり前のように答えた。
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そこへ、一人の女性が慌てて駆け寄る。
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「ごめんなさい、この子ったら。」
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少年の母親らしい。
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深々と頭を下げる。
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「失礼なことを言いませんでしたか。」
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アシュレイは首を横に振った。
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「いいえ。」
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「大切なお話を聞かせていただきました。」
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女性は少し安心したように笑った。
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「国なんて違っても、商売をする者にはあまり関係ありません。」
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「今日も売れて、明日も店を開けられる。」
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「それだけで十分なんです。」
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母子は市場の奥へ歩いていく。
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その背中を見送りながら、アシュレイは静かに息を吐いた。
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「昨日、ヴェルナでも同じことを聞きました。」
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ミレイが呟く。
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「皆さん、暮らしを守りたいだけなんですね。」
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「ええ。」
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アシュレイは空を見上げた。
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「外交とは。」
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「国家同士の会話だと思っていました。」
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「ですが違う。」
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「本当に守るべきなのは。」
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「国境の線ではなく、その両側で暮らす人たちです。」
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その言葉を聞いたミレイは、何も返さなかった。
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返す必要がなかった。
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その答えは、アシュレイ自身が見つけたものだからだ。
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迎賓館へ戻ると、玄関には帝国外務府の文官が待っていた。
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「アシュレイ・ファン・ヴァイス様。」
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「会談の準備が整いました。」
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「レオン・アルディス様がお待ちです。」
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アシュレイは一度だけ市場の方角を振り返る。
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少年の言葉が、まだ胸に残っていた。
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「参りましょう。」
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いよいよ。
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王国と帝国。
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二人の外交官が、本当の意味で向き合う時が来た。
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