第7話 全てを失う音
「誠さん、待って……冗談でしょ? 嘘だと言ってよ!」
破り捨てられた離婚届の破片が舞う中で、美咲が誠の足元に縋り付いた。
先ほどまでの高慢な態度は霧散し、化粧の崩れた顔で必死に誠を見上げる。
「佐々木さんが逮捕なんて……彼が私を幸せにしてくれるって言ったのよ! 私、彼にそそのかされただけなの!」
「そそのかされた? 自分の意志で指輪を質に入れ、
一人暮らし用のマンションを契約しておいて、よく言うね」
誠は冷たく突き放し、ソファに深く腰を下ろした。
手元には、弁護士が作成した一冊のファイルがある。
「これは君への請求書だ。不貞行為に対する慰謝料、そして君が佐々木と共謀して漏洩させた機密情報によって生じた、我が社の損害賠償分。……ざっと見積もって、5000万というところかな」
「5000万!? そんなの払えるわけないじゃない!」
「払ってもらうよ。君の親、親戚、
そして君がこれから一生かけて稼ぐ賃金を差し押さえてでもね」
◇◆◇
翌朝。誠は警察署の面会室にいた。
アクリル板の向こう側には、一晩で数歳老けたような佐々木が座っていた。ネクタイを奪われ、髪はボサボサ。かつての「エリート候補」の面影はない。
「高城……! 貴様、よくも俺を……!」
佐々木が吠えるが、誠は無表情に資料を広げた。
「佐々木くん。君が『僕の指示だった』と供述しているのは知っている。だが残念ながら、君との会話は全て録音されているし、君が下請け会社と裏でやり取りしていたメールのサーバーデータも全て復旧されたよ」
誠はさらに、決定的な「最後の一撃」を突きつけた。
「それから、協力者の香織さんから伝言だ。『あなたの裏口座、私がハッキングして全額寄付しておいたわ』とさ」
「な……っ!? なんだと……!?」
佐々木が絶望に目を見開く。
彼が横領し、必死にかき集めてきた「再起のための資金」は、誠の手回しによって一瞬で電子の藻屑と消えたのだ。
「君には何も残っていない。地位も、金も、そして君が奪ったつもりの僕の妻もね。彼女、昨日僕の足元で泣きながら君の悪口を並べていたよ。……君に利用されただけだって」
「あいつ……あの女、ふざけるな!」
怒り狂う佐々木を背に、誠は面会室を後にした。
出口で見守っていた香織が、満足そうに煙草の煙を吐き出した。
「最高の気分ね。これでやっと、私も次の人生に行けるわ」
◇◆◇
数日後。誠は一人、荷物が運び出されたリビングに立っていた。
美咲はすでに、着の身着のままでマンションを追い出された。
彼女が泣き叫びながらエントランスで警備員に引きずられていく様子は、
タワーマンションの住民たちの格好の噂の種となった。
美咲は実家からも絶縁され、今は場末の安アパートで、
日々届く弁護士からの督促状に怯えながら暮らしているという。
誠は、キッチンのカウンターに残された、自分専用のコーヒーセットを眺めた。
この数週間、復讐のために研ぎ澄ませてきた神経が、ゆっくりと弛緩していくのを感じる。
「……終わったな」
仕事の方は、佐々木の不祥事を未然に防いだ功績として、誠にはさらなる昇進の打診が来ている。だが、誠の関心はすでに、この会社には向かなかった。
◇◆◇
誠は一通の退職願を書き上げ、デスクに置いた。
そして、戸棚の奥から「とっておき」の豆を取り出す。
復讐の味が混じっていない、ただ純粋に自分が楽しむためだけの豆。
彼の手元には、美咲と佐々木から回収予定の「慰謝料」と、これまでの貯蓄、
そして自らのスキルがあれば、どこでだって生きていける自信があった。
誠はスマホを取り出し、ある物件の契約書にサインをした。
それは、都心の喧騒から離れた、海の見える静かな場所にある古い建物。
「最後の仕上げをしようか」
誠の瞳には、かつての冷酷な光ではなく、
どこか清々しい、新しい希望の火が灯っていた。




