第3話 仮面の夫婦
週明けのオフィス。誠はデスクで淡々とタスクをこなしていた。
その視線の先、給湯室の入り口で、
美咲から差し入れだという焼き菓子を配る佐々木の姿がある。
「これ、誠さんの奥様から預かってきたんです。『いつも主人がお世話になってます』って」
佐々木は周囲の同僚たちに、爽やかな笑顔を振りまく。
「へぇー、高城さんの奥さん相変わらず気が利くなぁ」
「佐々木、お前すっかり高城家に食い込んでるな」
同僚たちの冷やかしに、佐々木は一瞬だけ誠の方を向き、
勝ち誇ったような、歪んだ優越感を湛えた視線を送った。
(誠さん、あんたの嫁は、あんたが仕事してる間に俺の腕の中で鳴いてるよ)
声に出さない嘲笑が、誠の耳にははっきりと届くようだった。
誠は書類から目を上げず、ただ静かにペンを走らせた。
(もっと酔い痴れろ、佐々木。その傲慢さが、お前の首を絞める縄になる)
◇◆◇
その日の午後、誠は「外回り」と称して、あるカフェを訪れた。
向かいに座ったのは、派手なネイルに鋭い眼光を宿した女性。佐々木と同じ大学の同期であり、かつて彼に二股をかけられ、こっぴどく捨てられた元恋人・香織だ。
「……高城さん。まさか、あの『完璧な上司』から連絡が来るなんてね」
香織は自嘲気味に笑い、アイスコーヒーのストローを回した。
「単刀直入に言うよ、香織さん。佐々木に借りを返したくないか?」
誠は、佐々木が現在、会社で進めている「時限爆弾」プロジェクトの内部資料を一部、テーブルの下で滑らせた。
「彼は今、僕の妻と不倫し、
僕の地位を奪おうとしている。だが、彼は致命的なミスを犯しているんだ」
香織の目が細くなる。
「……あいつ、相変わらずね。
女を道具としか思ってない。いいわよ、何を手伝えばいい?」
「彼が個人的に管理している裏口座の動きと、過去の女性トラブルの証拠を集めてほしい。君なら、彼の脇の甘い部分を知っているはずだ」
誠は香織に、十分すぎるほどの「協力費」を包んだ封筒を渡した。
復讐は、自分一人で血を流す必要はない。
適材適所。それが優秀なコンサルタントのやり方だ。
◇◆◇
その夜、高城家では佐々木を招いての夕食会が開かれていた。
「誠さん、このワイン最高ですね!」
佐々木は、誠が秘蔵していたヴィンテージワインを遠慮なく喉に流し込む。
「そうだろう。今日は、君がプロジェクトのリーダーに抜擢されたお祝いだからね」
誠は穏やかに微笑み、美咲の肩を抱いた。
「美咲も、佐々木くんが頑張ってくれて嬉しいだろう?」
「ええ、もちろん……。佐々木さん、本当におめでとうございます」
美咲の頬が赤らむ。それはアルコールのせいだけではない。
テーブルの下で、何が起きているか。誠には手に取るように分かった。
佐々木の足が、美咲の足を愛撫している。
誠の目の前で、彼らは「スリル」という名のスパイスを楽しんでいるのだ。
吐き気がするほどの嫌悪感が誠を襲うが、
俺はそれを「最高の演技」で塗りつぶした。
「……そうだ、佐々木くん。
例のプロジェクト、役員会でのプレゼン資料はもうできているのかい?」
「はい! ほぼ完璧です。
誠さんのアドバイス通り、利益率を最大限に盛っておきました」
「それは頼もしい。役員たちは、数字に弱いからね」
誠は心の中で、カウントダウンのスイッチを押した。
その数字は、全て「粉飾」に近い操作を施したものだ。
佐々木が自信満々に発表すればするほど、後の破滅は確実なものとなる。
◇◆◇
宴が終わり、佐々木が帰った後。
美咲は「片付けをしておくわ」と言って、キッチンに立った。
誠は寝室に入り、佐々木が座っていたソファのクッションをそっと手に取った。
そこには、佐々木の香水の匂いと、美咲がこぼしたと思われるワインのシミ、
そして……彼女がわざと落としたかのような、ピアスの片方が挟まっていた。
(宣戦布告のつもりか、それともただの不注意か)
誠は無表情で、そのピアスを証拠袋に入れた。
「誠さん、お待たせ。一緒に寝ましょう?」
寝室に入ってきた美咲が、背後から誠の腰に腕を回す。
「ああ、先に寝ていてくれ。少し、明日の資料を整理したいんだ」
「……お仕事、大変ね。あんまり無理しないでね?」
愛しい夫を気遣う、優しい妻の声。
しかし、その唇は数時間前まで、別の男のものを味わっていた。
誠は、彼女が眠りにつくのを待ってから、書斎で一人、コーヒーを淹れた。
今夜の豆は、最も苦味の強いイタリアン・ロースト。
「……さあ、いよいよ舞台は整った」
闇の中で、誠の瞳だけが冷たく、鋭く光っていた。




