第2話 侵食される日常
翌朝、誠はいつも通り午前8時に出社した。
ガラス張りのオフィス、最先端のデスク。
周囲からは「若きエース」と羨望の眼差しを向けられる。
「誠さん、おはようございます!
昨日の案件、フィードバックありがとうございます!」
デスクに座るなり、聞き慣れた明るい声が響く。佐々木翔太だ。
人懐っこい笑顔、清潔感のあるスーツの着こなし。
誠が手塩にかけて育て、弟のように可愛がってきた後輩。
(この顔で、僕の妻を抱いているのか)
誠の視界が一瞬赤く染まる。だが、彼は表情一つ変えず、穏やかに微笑み返した。
「おはよう、佐々木。例のプロジェクト、君の視点は鋭かったよ。期待している」
「光栄です! 誠さんの背中を追って、早く一人前になりたいですから」
佐々木は深々と頭を下げた。その屈託のない仕草の裏で、
内心では「こいつは何も知らない間抜けだ」と嘲笑っているのだろう。
誠はデスクの影で、指が白くなるほど拳を握りしめた。
◇◆◇
佐々木の「裏切り」は、プライベートだけではなかった。
誠は自身の端末から、
社内の機密プロジェクトのアクセスログを密かに解析し始めた。
そこで見つけたのは、
誠が担当している超大型案件『グローバル・テック・リサーチ』の資料が、
深夜に何度も佐々木のアカウントから閲覧されている記録だった。
(……なるほど。僕の家庭だけでなく、キャリアまで食い荒らすつもりか)
佐々木は、誠の資料を「参考にする」という名目で盗み出し、
それを自分の手柄として別の役員へ根回ししている形跡があった。
誠という高い壁を乗り越えるのではなく、
足元を崩して引きずり下ろそうとしているのだ。
その時、誠のスマホが震えた。美咲からのLINEだ。
『誠さん、今日は少し帰りが遅くなるかも。急な会議が入っちゃって……』
誠は即座に佐々木のスケジュールを確認する。
『19:00〜 クライアント会食(場所未定)』
嘘だ。二人で示し合わせた「密会」の合図だろう。
◇◆◇
「佐々木、ちょっといいか」
誠はあえて、佐々木を会議室に呼び出した。
「はい、何でしょうか?」
「来月の『次世代エネルギー開発』のコンペだが、メイン担当を君に任せようと思っている」
佐々木の目が、欲望にギラリと光った。
「えっ……僕が、ですか!? それは誠さんの肝いり案件じゃ……」
「君の成長を考えれば、ここが勝負所だ。
僕がバックアップするから、思い切りやってみろ」
佐々木は感激したふりをして、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます! 必ず、誠さんの期待に応えてみせます!」
……バカな男だ。
そのプロジェクトは、誠が密かに仕込んだ「時限爆弾」だ。
表向きは華やかだが、精査すれば致命的な法的リスクを抱えている。
誠が修正するはずだったその「欠陥」を、
彼はあえて残したまま佐々木に丸投げしたのだ。
欲に目が眩んだ佐々木は、
中身を精査するよりも「誠から手柄を奪った」という優越感に浸るだろう。
◇◆◇
その夜。誠は一人、薄暗いリビングでグラスを傾けていた。
広いマンション。高級な家具。
かつては「愛」の象徴だったこの場所が、今は冷え切った監獄のように感じる。
午後11時。玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま……。遅くなってごめんね、誠さん」
美咲が帰宅した。頬が少し上気している。シャワーを浴びてきたのか、
彼女からはいつもと違う、安っぽい石鹸の香りが微かに漂った。
「おかえり。大変だったね」
誠は優しく声をかけ、彼女を抱き寄せた。
美咲の体が、一瞬ビクンと強張る。
「……あ、ごめんなさい。汗かいちゃってるから、先に着替えてくるね」
彼女は逃げるように寝室へ向かった。
誠の手には、彼女の髪からこぼれ落ちた一本の短い毛が残っていた。
短髪。茶髪。……佐々木のものだ。
誠は、その毛をゴミ箱に捨てる代わりに、
用意しておいた小さなジップロックに収めた。
「証拠」は着実に溜まっている。
◇◆◇
翌朝。
誠はまた、丁寧にコーヒーを淹れる。
「誠さん、今日のコーヒーも美味しいわ」
美咲は、昨夜の裏切りなど無かったかのように微笑む。
「そうか。それは良かった」
誠は美咲の背後で、佐々木にメールを送った。
『例のプロジェクト、役員への先行レクは任せる。君の好きに進めていい』
佐々木からは、即座に『了解です!お任せください!』と威勢の良い返信が来た。
奈落への階段を、自ら全速力で駆け下りているとも知らずに。
誠の復讐計画は、まだ序の口だ。
社会的地位、人間関係、そして金。
彼らが一番大切にしているものから、一つずつ、丁寧に、確実に奪い去っていく。
(美咲。佐々木。コーヒーが冷める頃には、お前たちの地獄が始まっているよ)
誠は冷徹な視線で、昇り始めた朝日を見つめていた。




