第9話
――エルナ
代官所から姉さんが戻った日から、四日たった。
姉さんは毎朝ちゃんと起きてきて、青い給仕服に白い前掛けを締めて食堂に立つ。笑っている。いつもの、看板娘の笑顔で。
けれど、目が笑っていない。厨房の戸口の陰から見ていると、それが分かる。口もとだけが笑顔の形をしていて、目は客の肩ごしの、どこでもない所を見ている。
「カルラちゃん、いつもの」
「はーい。ヨーゼフさん、黒麦酒ですね」
「……ヨハンだよ、カルラちゃん」
一拍おいて、食堂じゅうが笑った。
「おいおい、カルラちゃんでも間違えるのかよ」
「ヨハン、お前の顔が地味なんだよ」
「うるせえ」
「やだ、ごめんなさい。ヨハンさん、ヨハンさん。もう忘れません」
姉さんも笑って、盆を抱えてこちらへ戻ってきた。客に背を向けたとたん、その顔から笑顔がすとんと落ちた。
私は戸口の木枠を握った。
姉さんは、客の名前を間違えない。一度来た客の顔と名前と、好きな麦酒の銘柄まで一度で覚える。それが姉さんだ。
その日の昼、母さんが厨房に入ってきた姉さんの腕をつかんだ。鍵の束が鳴らなかった。
「カルラ。どうしたの、このごろ。代官所から帰ってきてから、ずっと変よ。役人さんに、何か言われたの?」
姉さんは笑わなかった。母さんの手をそっと外して、何も言わずに食堂へ戻っていった。小走りではなく、ゆっくりと。
母さんはしばらくその背中を見ていたが、やがて鍋の前の私を振り向いた。
「……エルナ。あんた、何か聞いてる?」
首を振った。
「そう。……あの子、昔から、大事なことほど一人で抱えるから」
母さんは前掛けで手をふいた。もう濡れていない手を。それから食堂へ出ていった。今度は、鍵の束がじゃらじゃら鳴った。
鍋の底で、何か焦げる匂いがした。私はあわてて火を細くした。
*
噂が回るのは、早かった。
「ここだけの話ね」
勝手口で、パン屋のペトラさんが籠からパンを渡しながら声をひそめた。厨房で洗い物をしていた私の耳にも届いた。
「町じゅうで言ってるのよ。役人がこの宿の離れに入っていったって。カルラが代官所に呼ばれたって。礼拝堂の悪魔の薬は、この宿から出たんじゃないかって」
「そんな、ばかばかしい。うちの傷薬は、町いちばんの評判なのよ」
「私だって信じてないわよ。でもね、ほら、町の人ってそういうの好きだから」
母さんがパンを抱えて食料庫へ入っていくと、ペトラさんは厨房の戸口のほうへ首を伸ばした。
「カルラ、いる?」
姉さんが戸口まで出てきた。前掛けの下から、表紙に何も書いていない小さな本を出す。
「これ、返す」
「もう読んだの? 早いじゃない」
ペトラさんは本を籠にしまって、かわりに籠の底から、もう一冊取り出した。
「はい、続き。もっとすごいらしいよ。娘がね、今度は――」
姉さんの手が、本の上で止まった。
受け取らなかった。本を籠の布の下へ、そっと押し戻した。
「……今は、いい」
「あら。どうしたの、あんたが」
「ちょっと、忙しくて」
姉さんは口もとだけで笑って、食堂へ戻っていった。
本。
枕の下からはみ出していた、小さな本の角。灯りの下でこちらを向いていた、頁の一行。
洗っていた皿が、手の中でつるりとすべった。桶の水がはねた。
ペトラさんは籠を抱えたまま、しばらく戸口を見ていた。それから首をかしげて、勝手口を出ていった。
次の日から、食堂の空いた席が増えた。いつもの窓ぎわに旅の商人がいない。奥のテーブルの職人たちは半分しか来ない。来た客も、ひそひそと何か話しては、姉さんの顔をちらりと見る。
「……あの子だろ」
「代官所に、半日いたってよ」
姉さんはその席に麦酒を運んで、「おかわりは、いつでも呼んでくださいね」と笑った。目は、ジョッキの泡しか見ていなかった。
傷薬を買っていく人は、一人もいなかった。
三日目の夜、食堂に残っていたのは、フランツさんと鍛冶屋のブルーノさんだけだった。ブルーノさんは麦酒を一杯飲みながら、何も言わずに空いた席を眺めていた。フランツさんは、ジョッキを下げに来た姉さんの顔をしばらく見上げて、何か言いそうな口をして、何も言わなかった。
帰りぎわ、ブルーノさんが勝手口の私のほうを見て、大きな手を一度だけ上げた。
私は離れに戻って、戸を閉めた。掛け金は、やっぱりかからなかった。
作業台の前に座って、乳鉢を引き寄せる。
「カミツレ、ひとつまみ。蜜蝋を……」
手が止まった。棚には、包んだままの傷薬がきれいに並んでいる。もう誰も買っていかない。
「作っても……」
乳棒を置いた。乳鉢も乳棒も炉の火も、全部そこにあるのに、何も作れない。
名乗り出れば、宿は潰れる。
名乗り出なくても、宿は細っていく。
姉さんは、何も言わない。
私も、何も言えない。
――ローザ
宿を空けるなんて、いつ以来かしら。
あの人がいなくなってから一年、帳場と厨房を行ったり来たりして、鍵の束を鳴らして、朝から晩まで走っていた。宿を空けたら宿が止まってしまう。そう思って、一日だって空けなかった。
今日は、空けた。厨房の火はエルナに頼んできた。あの子は、火加減だけは誰より上手だから。
川べりへ行くのは久しぶり。いつもはカルラに頼んで、月に一度、あの戸口に寄ってもらうだけ。昼の川べりは思っていたより静かで、橋のたもとでスープの列が湯気を立てていた。
看板のない、地味な戸口。顔を出した若い帳場番が、私を見て目を丸くした。
「女将さん。……旦那をお呼びします」
「あら、いいのよ、お忙しいなら。ちょっと寄っただけだから、ほんとに」
帳場番は、もう奥へ引っこんでいた。
通された部屋は、思っていたより質素だった。机と椅子が二つ。壁の棚に、帳面がきちんと並んでいる。窓から川の光が差して、薔薇の香油の匂いがかすかにした。
「ローザさん。わざわざ、お越しくださるとは」
奥から出てきたヴィルヘルムさんは、背すじのまっすぐな、痩せた人だった。白い襟巻きに、ぶどう色の上着。昔から、身なりにだけはうるさい人だった。椅子を引いてもらって、私は座った。
「まあ、すみませんねえ、急に押しかけて。今日はいいお天気ね。川の水もずいぶん澄んで。橋のたもとのスープ、あれ、まだ続けてらしたのね。えらいわねえ、ほんとに。子どもがお椀を両手で抱えてて、かわいいのよ。うちの娘たちも小さいころは、ああやってお椀を抱えてね。うちの宿なんて、このところ……」
このところ。
そこで、言葉が詰まった。
いつもなら、ここから先も口が勝手に動く。宿の噂のことも、客足のことも、カルラのことも、笑ってまくしたてて、何でもないことみたいに言ってしまえるのに。今日は、出てこなかった。
ヴィルヘルムさんは何も言わなかった。急かしもしない。相づちで埋めもしない。ただ湯を沸かしてお茶を淹れ、白いカップを私の前に置いて、向かいに座って黙っていた。
湯気が、まっすぐに上がっていた。
黙っているのに、ちっとも居心地が悪くなかった。
「お客さんがね、減ってるの」
自分の声が、思っていたより小さかった。
「噂が立って。……ばかばかしいのよ。でも、空いた席は、ばかばかしくないの」
ヴィルヘルムさんが、カップを私のほうへ少しだけ寄せた。それで、続けられた。
今月の返済が少し苦しいこと。それから、カルラのこと。代官所に呼ばれてから、あの子がおかしいこと。笑っているのに目が笑っていないこと。客の名前を間違えたこと。
カルラが代官所に呼ばれた、と言ったところで、カップに伸ばしかけたヴィルヘルムさんの手が、一度だけ止まった。それだけだった。
「大丈夫って、言わなくなったの。あの子」
言ってから、喉がつかえた。
「何があったのか聞いても、言わないの。母親の私に」
ヴィルヘルムさんは最後まで黙って聞いて、それから言った。
「返済は、急ぎませんよ。来月にまとめてでも、その先でも構いません。宿が立ち直るのが先です」
「でも、それじゃ……」
「それから、カルラさんのこと」
ヴィルヘルムさんは、帳面の上に手を置いた。
「代官所には、知り合いがおります。私から、それとなく話しておきましょう」
胸の奥でずっと固まっていたものが、ふっとゆるんだ。
「……やだ、私ったら」
目の奥が熱くなって、慌ててまばたきした。
「ほんとに、もう。ありがとうね。助かるわ。こんな話、誰にもできなくて」
ヴィルヘルムさんが、私の手を取った。その手が私の手を包んで、少し長く握っていた。乾いた、あたたかい手。
頬が、少し熱くなった。年がいもない。
「お嬢さんたちは、あなたによく似てきましたね」
私は笑った。
「カルラは私似だって、よく言われるの。エルナは夫似。顔は私なんだけど」
「ええ」
ヴィルヘルムさんは、ほんの少しだけ笑った。
「どちらも、よく似ていますよ」
帰りぎわ、戸口まで送ってくれたヴィルヘルムさんが、ふと言った。
「もっと、お嬢さんたちと話してみては。母親にしか聞けないこともあるでしょう」
母親にしか。
「……そうね」
そういえば、あの子たちとちゃんと話したのは、いつだったかしら。宿のことばかりで。
橋を渡りながら振り返ると、地味な戸口の前で、ヴィルヘルムさんがまだ立っていた。私が見ていると気づいて、深く頭を下げた。
若いころ、私はこの人を振った。川べりの、何も持っていない若い人だった。私は、農家の三男坊の料理人を選んだ。
それでもヴィルヘルムさんは恨みもせず、夫が死んでからの一年、何度も助けてくれた。今日も、こうして。
私の選んだ道は、誰も傷つけなかった。ヴィルヘルムさんを見ていると、そう思える。
橋の上で、川の風が頬をなでた。足が軽かった。
「くるみと、蜂蜜」
声に出して、自分で笑った。帰りに市場へ寄っていこう。エルナの好きな焼き菓子の材料。あの子、自分で焼くほうが好きだから。
――エルナ
夕方、母さんが帰ってきた。
厨房の戸が開いて、鍵の束がじゃらじゃら鳴った。久しぶりに、明るい音だった。
「ほらほら、エルナ、火の番ありがとね。焦げてない? あらまあ、上手」
母さんは私の後ろから鍋をのぞきこんで笑った。何日ぶりかに見る、母さんのいつもの顔だった。
「これ、お土産。くるみと蜂蜜。あんた、焼くでしょ」
紙の包みを作業台に置いて、母さんは私の肩をぽんと叩いた。
その手から、匂いがした。
薔薇の香油。濃くて、甘くて、少し冷たい。
宿の帳場に残っていた匂い。橋の上で、川の風が運んできた匂い。姉さんの手を長く握っていた、あの人の。
川べりの金貸し。
母さんは、あの人に会ってきたんだ。宿の借金のことで。また、借りたのだろうか。
母さんは鼻歌を歌いながら食料庫へ入っていった。姉さんは食堂で、客のいないテーブルを拭いている。誰も、気づいていない。
母さん、あの人に、何を。
言葉は、喉の奥で止まった。聞けば、私が借金を知っていると分かってしまう。姉さんのあとをつけて、橋の上から見ていたことも。
食料庫から、何日ぶりかの明るい鼻歌が聞こえてくる。
鍋の中で、豆の煮込みがことことと鳴っていた。
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