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第10話

――カルラ

離れの戸の前に立った。

月が出ていて、裏庭の井戸も物干しも白く光っている。甘い匂いがした。焼き菓子の匂い。離れの戸の前でクネーデルが鼻をひくつかせていて、私に気づくと、物干しの陰へ逃げていった。

この戸。あの夜、お皿を持って立った戸。指一本ぶんの隙間から、あの子を見た戸。

今夜も細く開いていて、中から灯りがもれている。

いつもなら、叩く前に言う。エルナ、入るよ。大丈夫?

今夜は、何も言わずに叩いた。

とん、とん。

中で椅子の動く音がして、戸が開いた。

だぼだぼのシャツに、薬品のしみだらけの前掛け。雑にまとめた髪。前髪の陰の顔。いつものエルナだ。あの夜の、あの子じゃない。

「……姉さん」

「うん」

それしか出てこなかった。

エルナは何も聞かずに、戸を大きく開けてくれた。

離れの中は、薬草の匂いがした。乾いた葉。油。蜜蝋。それから、甘い焼き菓子の匂い。作業台の上には何も並んでいなくて、いつもの乳鉢と乳棒が端に寄せてある。

エルナが作業台のわきの椅子を指さした。座れ、ということらしい。私は座った。

エルナは炉のそばから小さな皿を持ってきた。蜂蜜色の丸い焼き菓子が三つ。くるみが一つずつ、真ん中に埋めこんである。

エルナは皿を、私の前の作業台に置いた。私の手には、渡さなかった。それから少し離れた丸椅子に、自分も座った。

「……あんたが焼いたの?」

エルナは小さくうなずいた。

一つ、手に取る。まだほんのり温かい。かじると、蜂蜜の甘さとくるみの香ばしさが口の中に広がった。

おいしい。びっくりするくらい、おいしい。

「……おいしい」

エルナの指が、前掛けの端をつまんだ。うつむいて、目をそらしている。

「いつから、こんなの焼けるの」

「ずっと、前から」

「ずっと前って。私の分は?」

「あ、」

エルナの口が、開いたまま止まった。続きは出てこない。指が、前掛けの端をくるくる巻いている。

戸の前で鼻をひくつかせていた、あの顔が浮かんだ。

「……もしかして、クネーデルにはあげてた?」

エルナの指が止まった。目が、炉のほうへ逃げた。

「ときどき。……あの子にだけ」

私は笑った。笑いが、思ったより大きく出た。

「猫には、あげてたんだ。私には、くれないで」

エルナは何も言わなかった。巻いた指だけが、ますます固くなった。

「じゃあ、これからは私にも。手渡しじゃなくていいから。机に置いとくだけで」

エルナは、小さくうなずいた。

もう一口かじった。甘さが、舌の上でほどけた。

この子、こんなの作れたんだ。同じ家に住んでいて、ずっと知らなかった。

知らなかったことが、甘さと一緒に喉の奥でつかえた。

「代官所で」

声が、勝手に出た。

「飲んだの。あんたの薬。モーリッツさんに、その場で飲んでみなさいって言われて。体温が上がるだけだって言ったら、なら飲めって。だから、飲んだ」

エルナの手が、膝の上で握りしめられた。

「飲んだら、熱くなって。それで……」

そのあとのことは、言えなかった。頭の中に流れた本の一節のことも、ほどけたリボンのことも、肩に置かれた湿った手のことも。

「……いろいろ、あった」

それだけ言って、焼き菓子の残りを見つめた。

離れの中が、しんとした。炉の火が、ぱちんとはぜた。

「……ごめんなさい」

小さくて、かすれた声だった。

エルナがゆっくり顔を上げた。前髪の陰から、琥珀色の目がこちらを見ている。耳が、真っ赤になっていた。

「あれは、私が新しく作った薬。火照り薬じゃない。……礼拝堂のも。あれも、私の」

「……やっぱり」

包みが同じだと、代官所で聞かされた。自分の体で、あの強さを知った。分かっていた。

分かっていたのに、この子の口から聞いたとたん、胸の底から何かがせり上がってきた。

「なんで」

声が詰まった。言葉より先に、目の奥が熱くなった。

「なんで、あんなもの作ったの」

エルナの肩が、びくりと跳ねた。

指の中で、焼き菓子が崩れた。くるみが一つ、皿の上に転がった。

「飲まないで、って。あんた、それだけ言って帰ったじゃない。なんで、言ってくれなかったの。あれが何なのか、ひとことでも言ってくれてたら、私……」

あの部屋で、あの手に。

そこから先は、言葉にならなかった。

「……言おうと、した」

エルナの声は、ほとんど聞こえないくらいだった。

言おうとした。

廊下に立っていた、あの夜のエルナ。寝間着の私の前で、口を開けたまま、言いかけては止まっていた顔。

その腕を、私は軽く叩いた。

あれ、体温が上がるだけでしょ。あんたの作った薬だもん。私が一番よく知ってる。

そう言って、戸を閉めたのは私だ。

口を閉じた。

崩れた焼き菓子のかけらを、指でつまんで皿に戻した。手が少し震えていた。

「……なんで、作ったの」

今度の声は、さっきより低かった。責める声じゃなかった。

エルナはうつむいたまま、しばらく何も言わなかった。

「……夜のお店が。もっと効くのを、って」

息が止まった。

覚えている。

川べりの店先で、女主人に言われた。うちのお客さんがね、もっと効くのはないのかって。

私はそれを、離れの戸口で笑いながら伝えた。あんたなら作れるでしょ、なんて。卸しの包みを受け取るついでに、何でもない話みたいに。

礼拝堂の噂を聞いた夜、それを思い出しかけた。うちのは体温が上がるだけ、と打ち消したのも、私だ。

あの頼みを運んできたのも、あの包みを運んでいったのも、私だった。

「それに……うち、苦しいと思ったから」

自分の指先が、冷たくなった。

この子は、知っているんだろうか。

月に一度、私が川べりで何を払っているのか。

聞けなかった。聞いたら、私のほうから言わなければならなくなる。

「それに、」

エルナがもう一度言いかけて、口を閉じた。

前髪の陰で、唇をかんでいた。

責めようとした言葉が、どこにも行き場をなくした。

「誰にでも、ああなる薬じゃない」

エルナは目を伏せたまま、言葉を一つずつ置くように言った。

「飲んだ人の中に、もとからある願いを、大きくするだけ。もとからないものは、大きくならない。理性も、なくならない。少し減るだけ。……それで、一晩で抜ける」

そこまで言って、エルナがはっと口を閉じた。

もとからある、願い。

エルナの顔から、血の気が引いていく。私の顔を見られずに、膝の上の手をぎゅっと握っている。今、何を口にしてしまったのか、この子は気づいたんだ。

焼き菓子のかけらをつまんだ私の指が、止まった。

代官所の奥の部屋。頭の中に勝手に流れてきた、本の頁。

あれは、薬のせいじゃなかった。

頬が熱くなった。薬じゃないのに。

さっきまでこの子を責めていた口が、いちばん熱かった。

皿の上に目を落としたまま、顔を上げられなかった。

「……姉さん。違うの、今のは。そういう、意味じゃ……」

エルナの声が、震えていた。

「……ううん。分かってる」

首を振ったら、口が勝手に動いていた。

「エルナ。あの夜……」

あの夜。お皿を持って、この戸の前に立った夜。隙間から、あんたを見た夜。

「あの夜?」

エルナが首をかしげた。

私は口を閉じた。

「……ううん。なんでもない」

エルナはそれ以上聞かなかった。それに、と言いかけて閉じた口のまま、何か言いたそうな顔で黙っていた。この子も、まだ何か言っていないことがある。

私も、言っていない。代官所で本当は何があったのか。あの夜、ここで何を見たのか。月に一度、川べりで何を払っているのか。

二人とも、いちばん奥のことは言わなかった。

それでもエルナは丸椅子から立って、私の椅子のとなりに座り直した。肩が少しだけ触れた。だぼだぼのシャツの袖が、私の腕に当たっている。

あったかい。この子の手は冷たいのに、肩はあったかいんだ。

「……さっきは、ごめん。責めるみたいに言って」

エルナは首を横に振った。

私は、残りの焼き菓子を半分に割った。

「はい。半分」

片方をエルナの手のひらに載せると、エルナはそれを両手で受け取った。

「自分で焼いたのに」

「いいから。半分こ」

二人で、黙って食べた。

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