第11話
――ローザ
「ここだけの話ね」
昼過ぎ、勝手口でパンの籠を受け取ったとき、ペトラちゃんが声をひそめた。
「代官様が、期限を切ったんだって。次の大きな市の日までに、礼拝堂の悪魔の薬の作り手を探せって。教会がせっついてるから、代官所もぴりぴりしてるのよ」
「次の市って……」
「あと五日」
ペトラちゃんは籠をかけ直して、ちらりと食堂のほうをのぞいた。カルラを探したのだと思う。それから、何も言わずに帰っていった。
*
食堂は、今夜も空いていた。
客足は日に日に細っていく。それでも灯りは消えていない。いつもの席にブルーノさんがいて、その向かいで、フランツさんが麦酒をなめている。
「わしが若いころはな」
「また始まった」
「黙って聞け。ゲオルクの奴はな、あの図体で、甘いもんに目がなかったんじゃ。市で蜂蜜の菓子を買ってきては、厨房の隅で、こう、背中を丸めて隠れて食っとった」
「じいさん、そのころもう若くなかったろうが」
「うるさい、話の腰を折るな」
「あの顔でか?」
「あの顔でじゃ。食っとるときだけ、目がこう、垂れてな」
フランツさんが自分の目尻を指で下げてみせて、ブルーノさんが噴き出した。
カルラがジョッキを運んできて、笑った。
「やだ、父さん、そんなことしてたの」
「しとった、しとった。女将には内緒でな」
「母さん、知ってた?」
カルラが、帳場のほうの私を振り向いた。
「さあ、どうだったかしらね」
笑って返した。カルラも笑っていた。いつもの、看板娘の笑顔。
目だけが、どこか遠くを見ていた。
二人が帰ると、食堂はしんとした。
帳場で、今月の帳面を開いた。数字が足りない。何度足しても、足りない。
もっと、お嬢さんたちと話してみては。母親にしか聞けないこともあるでしょう。
川べりで聞いた声が、帳面の上に落ちてきた。
私は帳面を閉じた。
*
「二人とも、ちょっと座って」
エルナを離れから呼んで、カルラを二階から下ろした。食堂のいちばん奥のテーブル。三人で座るのは、いつ以来だろう。あの人の葬式の夜から、なかったかもしれない。
エルナは椅子の端に浅く座って、前髪の陰でうつむいている。カルラは背すじを伸ばして座っている。顔だけが、笑っていない。
「ねえ、ペトラちゃんから聞いたのよ。期限のこと。あと五日だって。それでね、うちの宿が、なんだかんだって町で言われてて、それでカルラが代官所に呼ばれて、母さん、何が何だか、ほんとにもう……」
そこで、言葉が切れた。いつもなら、このまま笑い話にしてしまえるのに。
「カルラ。代官所で、何を言われているの」
カルラは黙っていた。テーブルの上で、指を組んでいる。白くなるほど、きつく。
「……母さん」
その声は、カルラのじゃなかった。
エルナが、顔を上げていた。前髪の陰から、琥珀色の目が私を見ていた。耳が、真っ赤だった。
「礼拝堂の、薬」
声が震えていた。
「あれを作ったのは、私」
何を言っているのか、分からなかった。
礼拝堂の。悪魔の薬。清い助祭さまを狂わせたっていう、町じゅうが噂している、あの。
「……何、言ってるの」
自分の声が、ひどく遠かった。
「あんたが作ってるのは、傷薬でしょう。香油でしょう。夜のお店に卸してる、あの火照り薬でしょう。ねえ、そうでしょう」
「新しく、作ったの」
エルナは、目をそらさなかった。
「体温が上がるだけの薬じゃない。……礼拝堂のは、それ」
腰の鍵の束を、握っていた。いつ握ったのか、分からない。鉄の鍵が手のひらに食いこんで、それでも放せなかった。
うそ。
うそでしょう。
気づくと立ち上がって、テーブルを回って、エルナの片方の腕をつかんでいた。細い腕だった。
「誰かに言った? 誰にも言ってないわね? 役人さんには? 教会には? ねえ、エルナ」
エルナが、小さく首を振った。
「言ってない、のね」
今と同じ首の振り方を、この前も見た。
「この前、何か聞いてるって聞いたら、あんた、首を振ったじゃない」
責めるつもりはなかった。口が勝手に動いていた。
「……ごめんなさい。……姉さんにだけ、言ったの」
膝から、力が抜けそうになった。エルナの腕をつかんだまま、私は椅子の背に手をついた。
悪魔の薬を作った娘。教会に知られたら。町に知られたら。魔女だと言われる。この子は、この町にいられなくなる。
十二の年の、祭りの日。盆を落として、食堂じゅうに笑われたこの子に、私は言った。
エルナは裏にいなさい、ね。
裏に置いたのは、私だ。人に見られずに済むように。傷つかずに済むように。
その裏で、この子はひとりで、こんなものを。
腹が立った。この子にではない。何も知らずにいた、私に。
カルラを見た。カルラは座ったまま、私たちを見ていた。驚いていなかった。
「……あんたは、知ってたのね」
「その薬のことは、私たち二人で話したから」
カルラが静かに言った。
「代官所のことも。……母さんには、言えない」
「言えないって、あんた……」
「言いたくないんじゃないの」
カルラが立ち上がって、エルナの腕をつかんだままの私の手に、自分の手を重ねた。あったかい手だった。
「言えないの。……ごめんね」
カルラの顔に、何かが書いてあった。代官所で、何かがあったのだ。母親にだけは言えない、何かが。
あの子、昔から、大事なことほど一人で抱えるから。
この前、エルナにそう言った。言いながら、私は誰の話をしていたのだろう。
二十年、あの人に言えないままだったことがある。エルナに、借金のことを言えずにいる今も。鏡の中に、こういう顔があった。
この子たちは、私をかばっているのだ。
「母さんは、いつもどおり宿を開けてて」
カルラの手に、少し力がこもった。
「それが、いちばん助かるから」
エルナが、前髪の陰で小さくうなずいた。
寂しかった。母親なのに、と思った。それでも、重なった手は、あったかかった。
「……分かった」
椅子の背から手を離して、カルラの手の上に重ねた。それから、エルナの腕から手をすべらせて冷たい手を探し、握った。エルナの指がびくりとして、それから、ゆっくり握り返してきた。
いつもどおり、宿を開けている。それだけじゃ、足りない。母親にしかできないことが、あるはずだ。
明日もう一度、川べりへ行こう。
――カルラ
代官所からの使いが来たのは、次の日の朝の仕込みのさなかだった。
「モーリッツ様が、昼過ぎにお越しを、と」
勝手口で、若い衛兵が帽子を取った。
鍋の前で、母さんの手が止まった。振り返りかけたまま、動かなくなった。腰の鍵の束が一度だけ小さく鳴って、それきり黙った。
私は前掛けで手を拭いて、「分かりました」と言った。笑顔を作ったつもりだった。衛兵は、私の顔を見ずに帰っていった。
「カルラ……」
「昼過ぎね。仕込みは済ませてく」
母さんは何か言いかけて、鍋のほうへ向き直った。木べらが鍋の底をこする音が、いつもより大きかった。
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