第12話
奥の部屋は、前と同じだった。
高い所に一つだけの小さな窓。厚い戸。壁ぎわの酒の棚。香水の匂い。
前と違うのは、机の上に何も並んでいないことだった。届け出の紙も、包みも、小瓶もない。机のこちら側に、椅子はなかった。背もたれのない腰かけが一つ、置いてあるだけ。
「お座りなさい、お嬢さん」
外套を脱いで膝に置き、腰かけた。
モーリッツさんは、酒の棚から瓶を一本取った。今日は薬の小瓶じゃない。ふつうのぶどう酒の瓶。杯が二つ。赤い色が注がれていく。
「まあ、一杯。話はゆっくり聞きましょう」
杯が、私の前に置かれた。
お酒は弱い。宿屋の娘なのに、一杯で真っ赤になる。常連さんたちに、いつも笑われる。だから、ふだんなら笑って断る。看板娘が酔ったら、お店が回りませんから、と。
その言葉が、出てこなかった。
モーリッツさんが、自分の杯を持ち上げた。私を見ている。飲むまで、待っている。
一口だけ。そう決めて、口をつけた。渋くて、少し甘い。
杯を置こうとしたとき、モーリッツさんの目は、まだ杯の上にあった。
もう一口。
もう一口。
杯の底が見えた。
頬が熱くなりはじめた。
ほら。一杯で、これ。いつものこと。お酒に弱いから。
「手元にある証拠は、みな、あなたを指しています」
モーリッツさんは指を折った。指輪がぶつかって、かちりと鳴った。
「薬師の届け出。礼拝堂の包み。お宅の作業場から出た小瓶。それから、あなたご自身の言葉。私が作っています、と」
胸が鳴りはじめた。喉の奥が渇いて、うなじの汗が、襟の内側へ吸いこまれていく。
この感じ。
知っている。
体温が上がるだけ、と言って飲んだ、あの杯。この部屋で。
頭の中で、頁がめくれかけた。
違う。今日は、本の話じゃない。
頁は開かなかった。代わりに、体のほうが覚えていた。首すじが、あの日なぞられた所を覚えている。今日の杯は、ただのぶどう酒なのに。薬は、飲んでいないのに。
「だが」
モーリッツさんが、椅子から立ち上がった。机を回って、こちらへ来る。香水の匂いが近づいてくる。
「私が書く書類一枚で、話は変わる。夜の店は、あちこちから仕入れていますからな。どこか別の仕入れ先のせいにすることも、できなくはない」
肩に手が置かれた。指輪の冷たさが、布ごしに当たる。腰かけのふちを、指でつかんだ。
嫌だ。この手は、嫌だ。
それなのに、体の奥で、あの熱がよみがえってくる。この手のせいじゃない。あの日を覚えている、私の体のせいで。
「悪いようにはしない」
肩の手に、力がこもった。
「私のものになれ」
「……やだ、モーリッツさん。そういう冗談は――」
いつもの声を出したつもりだった。酔ったお客さんの誘いを、何百回もかわしてきた声。
その声が、途中で細くなって消えた。
つかんだ指に力が入って、腰が浮きかけた。肩の手が、それを上から押し戻した。
冗談に、させてくれない。
宿のためなら、どんな相手とでも話をつけてきた。値切る商人とも、酔って絡むお客さんとも。
それなのに今は、私に向けられている。宿でも、看板娘でもない、私に。
それが、怖かった。
怖いのに、胸の奥で、何かがとくんと鳴った。
宿の娘でも、母さんの娘でも、あの子の姉でもない。ただのカルラを、この人は見ている。
そんなふうに見られたことが、今まで、一度でもあっただろうか。
見ているのが、よりによって、この人なのに。
モーリッツさんが、私の後ろへ回った。
顔が見えなくなる。見えるのは、裏口の戸だけ。その戸の木目を、私は見ていた。目を閉じたら、だめだと思った。閉じたら、あの日に戻ってしまう。
背中に、上着の布が触れた。香水と、ぶどう酒の息。
右の腕を、手のひらがなぞり下りていく。肩から、肘へ。肘から、手首へ。指輪の冷たさが、袖ごしに一つずつ通っていく。
手首で止まった。
太い親指が、手首の内側を押さえた。袖の口から先の、じかの肌。指の腹が、ゆっくり沈んでくる。帳面の数字を、指でたどるみたいに。
「ほう」
耳のすぐ後ろで、声がした。
「ずいぶん、速い」
体が、かっと熱くなった。親指の下で、脈が跳ねる。止めようとしても、止まらない。
数えられている。私の体が、私より先に、この人に答えてしまっている。
お酒のせい。一杯飲んだから。だから、速いだけ。
もう片方の手が、左の肩ごしに前へ回ってきた。
指が、襟もとで止まった。白いリボンの、結び目の上。
「今日は」
うなじに、息がかかった。
「ご自分では、ほどかないのですかな」
指先が、リボンの端をつまんだ。引かない。指の腹で、ゆっくりよじるだけ。結び目が、喉の下で小さく揺れる。
あごが、ほんの少し上がった。よじる指のほうへ、喉が勝手に伸びていく。
腰かけのふちを、まだつかんでいた。
払えばいい。左の手なら、届く。
それなのに、指はふちから離れなかった。
もとからある願いを、大きくするだけ。もとからないものは、大きくならない。
離れで、焼き菓子の甘さと一緒に飲みこんだ、あの子の言葉。
今日のは、薬じゃない。ぶどう酒が一杯。それなのに、首すじが、まだ覚えている。肩の奥が、あの日と同じ所から、ほどけていく。
私が、望んでいるの?
親指が、少しだけ沈んだ。
「……また、上がった」
違う。違う、と体じゅうが言っている。湿った手も、香水の匂いも、指輪の冷たさも、嫌だ。今すぐ振り払いたい。
なのに、親指の下で、脈がまた跳ねた。勝手に、あの日の続きを待っている。
リボンの端が、指のあいだで、もう一度よじれた。
分からない。分からないことが、いちばん怖かった。自分の中に、自分の知らない私がいる。その私が、黙って、この部屋に座っている。
「次に来るときは」
親指が、手首の上で、ゆっくり円を描いた。
「あの薬を、もっと持ってきなさい。今度は、二人で飲みましょう」
リボンの端が、指から放された。上着の布が、背中から少し離れた。その手が、肩から背中へ下りていく。給仕服の上から、背骨のまんなかで、手のひらが止まった。重さが、そこに乗った。
私は戸の木目を見ていた。見ているのに、木目がにじんで、形にならない。
まぶたが、勝手に下りた。
閉じたら、だめなのに。
背中の手のひらが、ほんの少し、下へずれた。
背中が、その手を追って、しなった。
「……ぁ」
自分の喉から出た声に、背すじが凍った。
この人の前で。この人の手で。
手のひらが、腰の上で止まった。
胴着の背中の、紐の交差の上。指が一本、そこに乗った。
数える声は、まだ来なかった。
来ないのに、私の息が、先に止まっていた。
今日は、頁がない。薬も飲んでいない。
それなのに、体のほうが、あの日の頁の続きを待っている。
ひとつ、と言われるのを。
「ひとつ」
止めていた息が、その声でこぼれた。
廊下のほうで、足音がした。
表の広間から、こちらへ。石の床を、一歩ずつ。
背中の指は、離れなかった。
「……人が」
「ええ。来ますな」
耳の後ろの声は、少しも急がなかった。
「ふたつ」
足音が近づいてくる。戸一枚向こうに、誰かが立ったら。背中をしならせたこの格好を、この顔を。
見られる。
そう思ったとたん、首すじに、火がのぼった。
……なんで。
足音が、戸の前で止まった。
とん、とん。
厚い戸が叩かれた。目が開いた。紐の上の指が、固まった。
「モーリッツ様」
戸の向こうで、書記の声がした。
「代官様がお呼びです。期限の件で、今すぐにと」
指は、離れなかった。
耳のすぐ後ろで、息だけの声がした。
「……みっつ」
戸一枚向こうに、人が立っているのに。
腰かけのふちから、左の手が離れた。払えたはずの手。その手の甲で、私は自分の口をふさいでいた。声が、戸の向こうへもれないように。
隠そうとしているのは、私のほうだった。
手首から、親指が離れた。脈の跡が、まだそこで打っていた。
「……今、参ります」
戸に向かって、よく通る役人の声で答えた。それから、耳の後ろで、低く。
「逃げても無駄ですよ、お嬢さん。書類は、私の手の中だ」
上着の布が離れる。厚い戸が開いて、閉まる。足音が、表の廊下へ遠ざかっていく。
私は腰かけに座ったまま、自分の右の手首を、左の手で握っていた。きつく。脈が、まだ速い。握っても、握っても、止まらなかった。
助かったんじゃない。
次が、決まっただけ。
はい、とも。いいえ、とも。言えなかった。
膝の外套を抱えて、立ち上がった。腰かけの脚が、石の床をこすった。裏口の戸に、手をかけた。
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