↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

第13話

路地を歩いた。

頬が熱い。外套の下で、右の手首を、左手で握りしめていた。親指の跡が、まだそこにある気がした。

「お酒のせい」

声に出した。

「お酒に、弱いから。一杯で、真っ赤になるから。だから……」

足が止まった。

一杯で、真っ赤にはなる。でも、一杯で、こんなふうにはならない。いつもは、頬が赤くなって、少し楽しくなって、それで終わり。首すじが、あの部屋を思い出したりはしない。

薬は、飲んでいない。脅されて、怖かった。お酒は、一杯だけ。

「……どれの、せいにも」

できない。

握っていた手首を、石の壁に押しあてた。冷たかった。それでも、脈は静まらなかった。

――ローザ

カルラが代官所へ出ていったあと、私は前掛けを外した。

「エルナ、火、お願いできる? 夕方の分だけでいいから」

エルナは何も聞かずに、うなずいた。昨夜握り返してきた指が、もう火ばさみを持っていた。

川べりへ向かう足が、前よりも速かった。

ヴィルヘルムさんは、前と同じようにお茶を淹れてくれた。前と同じように、向かいに座って、黙って待ってくれた。

「お嬢さんたちとは、お話しになれましたか」

「話したわ。言われたとおり、三人で座って」

カップを両手で包んだ。

「話したら、言えないって言われたの。母さんには言えないって。……ごめんね、って」

ヴィルヘルムさんは、何も言わなかった。それで、続けられた。

今度は、詰まらなかった。期限のこと。カルラがまた呼ばれて、今まさに代官所にいること。あの子の顔が、出かける前から固かったこと。私に言えない何かが、代官所であったのだということ。

「この前、代官所に話しておいてくださるって……」

「ええ。話してはおります」

それ以上は、何も言わなかった。

それから、薬のこと。

言うつもりは、なかった。でも、ヴィルヘルムさんは黙って待っていた。前と同じように。急がせもせずに。

この人なら。代官所にも話を通せる、この人なら。

「礼拝堂の薬ね。……あれ、うちのエルナが作ったの」

口に出したとたん、喉の奥が冷たくなった。

「夜のお店に卸してる火照り薬とは、違うのよ。あの子が新しく作った、本物の……」

そこで、言葉が切れた。娘の秘密を、外の人に。

「……誰にも、言わないでちょうだいね」

「もちろんです」

ヴィルヘルムさんが、カップを置いた。

「エルナさんというのは、指先に薬のしみのある、背の高いお嬢さんですね」

「あら。ご存じなの」

「一度、お見かけしたことが」

そう言って、窓の外の川を見た。

「お話は、伺いました」

帳面が開かれた。

「今月の足りない分は、こちらで。証文の端に、お名前を」

「そんな、また借りるなんて……」

「困ったときは、お互いさまですよ」

ペンを渡された。ヴィルヘルムさんの指が、名前を書く所を示していた。

私は名前を書いた。

「売上のことも、お困りでしょう」

帰りぎわ、ヴィルヘルムさんが言った。

「その薬が売れれば、と思わないでもありませんが」

「でも、あれは……」

「ええ。町じゅうが、悪魔の薬と呼んでいる。……悪い噂が消えれば、話は変わるのでしょうがね」

それだけ言って、ヴィルヘルムさんは戸口を開けてくれた。

橋を渡りながら、私は思った。あの子たちには、まだ言わない。今は、カルラのことで、頭がいっぱいだから。

――エルナ

その夜、私は母屋の階段を上がった。

夕方、姉さんは帰ってきた。勝手口から入ってきて、厨房の私の横を、何も言わずに通り過ぎた。頬が赤かった。お酒の匂いがした。それから、甘くて重い、香水の匂い。

あの匂いを、私は知っている。役人様が宿に来た日、厨房の戸口の陰で、袖で鼻をおおった匂い。

前にも、こうして階段を上がった。代官所へ行く前の夜。飲まないで、と言いに。言えなかったことを、抱えたまま。

姉さんの部屋の戸の前に立つ。隙間から、灯りがもれている。

手を上げた。今度は、下ろさなかった。

とん、とん。

「……エルナ?」

戸が、少しだけ開いた。姉さんが、寝間着の上に肩掛けを羽織って立っていた。目のふちが赤い。

「入って」

姉さんの部屋は、狭くて、きれいに片づいていた。寝台。小さな机。窓のカーテン。本は、どこにも見えなかった。

姉さんは寝台に腰かけて、私は机の椅子に座った。厨房から持ってきた、温めた牛乳の器を、姉さんのそばの机に置いた。蜂蜜を、少しだけ溶かしてある。

「……あんたが?」

うなずいた。

「手渡しじゃ、ないんだ」

姉さんが、少しだけ笑った。器を両手で包んで、飲まずに、しばらく湯気を見ていた。

「……今日、また呼ばれたの」

姉さんが言った。

「モーリッツさんに。証拠は全部、私を指してるって。でも、書類一枚で、別の誰かのせいにもできるって」

姉さんの指が、器のふちをなぞった。

「私のものになれ、って」

息が止まった。

「……何て、答えたの」

自分の声が、ひどくかすれていた。

「何も。はい、とも、いいえ、とも。……あの薬を、もっと持ってこいって言われて。私、黙って出てきた」

器の中の牛乳が、小さく揺れた。

私は膝の上で、手を握り合わせた。冷たい指どうしが、ぶつかった。

「この前は、かいつまんでしか言わなかったでしょう」

姉さんが、私を見た。目がうるんでいた。

「最初に、あそこで飲んだときのこと。……あんたには、ちゃんと言う」

   *

「飲んだら、熱くなって。それから、頭の中で、本の頁が流れはじめたの。前の晩に読んでた、あの本。体が、それについていって」

――娘は、男の前でゆっくりと襟もとのリボンをほどいた。

あの夜、姉さんの枕の下からのぞいていた一行。

姉さんは器を見つめていた。

「それはいいの。いや、よくないけど。……いちばん言えなかったのは、そこじゃない」

言葉が止まった。姉さんが、唇の内側をかんだ。私は何も言わずに待った。窓の外の風の音だけが聞こえていた。

「やめてほしく、なかったの」

小さな声だった。

「あの人の手は、嫌だった。ほんとに、嫌だった。でも、頁は。頭の中の頁は、止まってほしくなかった。続きを、知りたかった。次の行を。その次の行を。……あの場面の中に、もっといたかった」

姉さんは、肩掛けの襟もとを、ぎゅっとつかんだ。

「そう思ってる自分が、いちばん、怖かった」

「は……」

姉さんの息が、震えてもれた。自分の口を、手の甲で押さえた。

私は、姉さんの手を見ていた。この手が、あの日、どんな頁の中にいたのか。私の作った薬が、それを開いた。

姉さんは、器を机に置いた。両手を、膝の上で組んだ。

「子どものころから、ずっと好きだったの。本の中の娘たち。恋をして、誰かに見つめられて。……それから、皆の前で、悪い領主の頬を打つ娘。あれが、いちばん」

厨房の戸口で、ペトラさんと本を受け渡していたときの姉さんの声が、よみがえった。何度読んでも好き、と言っていた。

「今日の部屋でもね、一杯だけ、ぶどう酒を飲まされたの。……一杯で、ああはならない。お酒のせいには、できない」

姉さんの目から、涙が一粒落ちた。

私は、姉さんの顔を見ていた。

本の中の娘たち。恋をする娘。皆の前で、頬を打つ娘。場面の真ん中に立つ娘。

姉さんは、いつも真ん中にいるのだと思っていた。誰にでも笑って、誰からも好かれて。私とは、正反対の場所に。

違った。

姉さんは、ずっと、見ていたんだ。本の外から。場面の外から。そこに立つ娘たちを。

主人公に、なりたかったんだ。

   *

私は立ち上がった。

「私が、名乗り出る」

姉さんが、私を見上げた。

「代官所へ行って、作ったのは私だって言う。そうすれば、姉さんはもう呼ばれない。あの人の書類も、いらなくなる」

「だめ」

姉さんの声は、はっきりしていた。看板娘の、宿のために話をつけるときの声だった。

「あんたが名乗ったら、宿もあんたも終わる」

「でも」

「町じゅうが、礼拝堂の悪魔の薬を作ったのはあんただって知る。宿の傷薬を私の名前で売ってたことも、全部ばれる。教会が黙ってない。うちにはもう、誰も来なくなる。あんたは、この町にいられなくなる」

姉さんは、私の手首をつかんだ。

「それに、あんたが名乗っても、あの人は私を放さない。私が、黙って出てきたんだから」

手首をつかむ指が、熱かった。私の手は、冷たいままだった。姉さんの親指が、手首の内側の、脈の上にあった。その指が、ぴくりとして、少しずれた。

「次の呼び出しには、行く」

姉さんは言った。

「行って、何とかする。宿のことなら、私は話をつけられる。……大丈夫だから」

大丈夫。

橋の上で、分かったこと。姉さんがそう言うのは、自分に言い聞かせるときだ。

姉さんは、私の手首を放した。それから、ふっと笑った。少しだけ、ちゃんと笑えていた。

「ありがとね、聞いてくれて。……あんたに話したら、少し、軽くなった」

まだ何か言いかけて、姉さんはやめた。

「もう寝よう。あんたも」

机の上で、牛乳はすっかり冷めていた。一口も、減っていなかった。

   *

離れに戻った。作業台の前に座った。炉の火を、少しだけ起こした。

眠れなかった。

乳鉢を引き寄せた。空のまま、乳棒を握る。

「名乗っても、だめ。黙っても、だめ……」

声に出したら、もっと重くなった。

あの夜。手首にさらし布を巻いて、熱に浮かされながら、私はこの乳鉢に向かっていた。一度は負けた。布をほどいて、熱に流された。それでも最後には、熱は人ではなく、乳鉢へ向かった。作ることが、私にとって、いちばん快いことだったから。

姉さんは、あの人の手を、一度も欲しがらなかった。欲しかったのは、頁の続き。場面の真ん中。

姉さんの熱は、男の人に向いていない。

乳棒を握る指に、力が入った。

まだ、形にならない。けれど何かが、乳鉢の底で動きはじめていた。

窓の外が白みはじめるまで、私は乳棒を握ったまま、作業台の前に座っていた。

この作品を『おもしろかった!』、『続きが気になる!』と思ってくださった方はブックマーク登録や↓の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に評価して下さると執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。