第13話
路地を歩いた。
頬が熱い。外套の下で、右の手首を、左手で握りしめていた。親指の跡が、まだそこにある気がした。
「お酒のせい」
声に出した。
「お酒に、弱いから。一杯で、真っ赤になるから。だから……」
足が止まった。
一杯で、真っ赤にはなる。でも、一杯で、こんなふうにはならない。いつもは、頬が赤くなって、少し楽しくなって、それで終わり。首すじが、あの部屋を思い出したりはしない。
薬は、飲んでいない。脅されて、怖かった。お酒は、一杯だけ。
「……どれの、せいにも」
できない。
握っていた手首を、石の壁に押しあてた。冷たかった。それでも、脈は静まらなかった。
――ローザ
カルラが代官所へ出ていったあと、私は前掛けを外した。
「エルナ、火、お願いできる? 夕方の分だけでいいから」
エルナは何も聞かずに、うなずいた。昨夜握り返してきた指が、もう火ばさみを持っていた。
川べりへ向かう足が、前よりも速かった。
ヴィルヘルムさんは、前と同じようにお茶を淹れてくれた。前と同じように、向かいに座って、黙って待ってくれた。
「お嬢さんたちとは、お話しになれましたか」
「話したわ。言われたとおり、三人で座って」
カップを両手で包んだ。
「話したら、言えないって言われたの。母さんには言えないって。……ごめんね、って」
ヴィルヘルムさんは、何も言わなかった。それで、続けられた。
今度は、詰まらなかった。期限のこと。カルラがまた呼ばれて、今まさに代官所にいること。あの子の顔が、出かける前から固かったこと。私に言えない何かが、代官所であったのだということ。
「この前、代官所に話しておいてくださるって……」
「ええ。話してはおります」
それ以上は、何も言わなかった。
それから、薬のこと。
言うつもりは、なかった。でも、ヴィルヘルムさんは黙って待っていた。前と同じように。急がせもせずに。
この人なら。代官所にも話を通せる、この人なら。
「礼拝堂の薬ね。……あれ、うちのエルナが作ったの」
口に出したとたん、喉の奥が冷たくなった。
「夜のお店に卸してる火照り薬とは、違うのよ。あの子が新しく作った、本物の……」
そこで、言葉が切れた。娘の秘密を、外の人に。
「……誰にも、言わないでちょうだいね」
「もちろんです」
ヴィルヘルムさんが、カップを置いた。
「エルナさんというのは、指先に薬のしみのある、背の高いお嬢さんですね」
「あら。ご存じなの」
「一度、お見かけしたことが」
そう言って、窓の外の川を見た。
「お話は、伺いました」
帳面が開かれた。
「今月の足りない分は、こちらで。証文の端に、お名前を」
「そんな、また借りるなんて……」
「困ったときは、お互いさまですよ」
ペンを渡された。ヴィルヘルムさんの指が、名前を書く所を示していた。
私は名前を書いた。
「売上のことも、お困りでしょう」
帰りぎわ、ヴィルヘルムさんが言った。
「その薬が売れれば、と思わないでもありませんが」
「でも、あれは……」
「ええ。町じゅうが、悪魔の薬と呼んでいる。……悪い噂が消えれば、話は変わるのでしょうがね」
それだけ言って、ヴィルヘルムさんは戸口を開けてくれた。
橋を渡りながら、私は思った。あの子たちには、まだ言わない。今は、カルラのことで、頭がいっぱいだから。
――エルナ
その夜、私は母屋の階段を上がった。
夕方、姉さんは帰ってきた。勝手口から入ってきて、厨房の私の横を、何も言わずに通り過ぎた。頬が赤かった。お酒の匂いがした。それから、甘くて重い、香水の匂い。
あの匂いを、私は知っている。役人様が宿に来た日、厨房の戸口の陰で、袖で鼻をおおった匂い。
前にも、こうして階段を上がった。代官所へ行く前の夜。飲まないで、と言いに。言えなかったことを、抱えたまま。
姉さんの部屋の戸の前に立つ。隙間から、灯りがもれている。
手を上げた。今度は、下ろさなかった。
とん、とん。
「……エルナ?」
戸が、少しだけ開いた。姉さんが、寝間着の上に肩掛けを羽織って立っていた。目のふちが赤い。
「入って」
姉さんの部屋は、狭くて、きれいに片づいていた。寝台。小さな机。窓のカーテン。本は、どこにも見えなかった。
姉さんは寝台に腰かけて、私は机の椅子に座った。厨房から持ってきた、温めた牛乳の器を、姉さんのそばの机に置いた。蜂蜜を、少しだけ溶かしてある。
「……あんたが?」
うなずいた。
「手渡しじゃ、ないんだ」
姉さんが、少しだけ笑った。器を両手で包んで、飲まずに、しばらく湯気を見ていた。
「……今日、また呼ばれたの」
姉さんが言った。
「モーリッツさんに。証拠は全部、私を指してるって。でも、書類一枚で、別の誰かのせいにもできるって」
姉さんの指が、器のふちをなぞった。
「私のものになれ、って」
息が止まった。
「……何て、答えたの」
自分の声が、ひどくかすれていた。
「何も。はい、とも、いいえ、とも。……あの薬を、もっと持ってこいって言われて。私、黙って出てきた」
器の中の牛乳が、小さく揺れた。
私は膝の上で、手を握り合わせた。冷たい指どうしが、ぶつかった。
「この前は、かいつまんでしか言わなかったでしょう」
姉さんが、私を見た。目がうるんでいた。
「最初に、あそこで飲んだときのこと。……あんたには、ちゃんと言う」
*
「飲んだら、熱くなって。それから、頭の中で、本の頁が流れはじめたの。前の晩に読んでた、あの本。体が、それについていって」
――娘は、男の前でゆっくりと襟もとのリボンをほどいた。
あの夜、姉さんの枕の下からのぞいていた一行。
姉さんは器を見つめていた。
「それはいいの。いや、よくないけど。……いちばん言えなかったのは、そこじゃない」
言葉が止まった。姉さんが、唇の内側をかんだ。私は何も言わずに待った。窓の外の風の音だけが聞こえていた。
「やめてほしく、なかったの」
小さな声だった。
「あの人の手は、嫌だった。ほんとに、嫌だった。でも、頁は。頭の中の頁は、止まってほしくなかった。続きを、知りたかった。次の行を。その次の行を。……あの場面の中に、もっといたかった」
姉さんは、肩掛けの襟もとを、ぎゅっとつかんだ。
「そう思ってる自分が、いちばん、怖かった」
「は……」
姉さんの息が、震えてもれた。自分の口を、手の甲で押さえた。
私は、姉さんの手を見ていた。この手が、あの日、どんな頁の中にいたのか。私の作った薬が、それを開いた。
姉さんは、器を机に置いた。両手を、膝の上で組んだ。
「子どものころから、ずっと好きだったの。本の中の娘たち。恋をして、誰かに見つめられて。……それから、皆の前で、悪い領主の頬を打つ娘。あれが、いちばん」
厨房の戸口で、ペトラさんと本を受け渡していたときの姉さんの声が、よみがえった。何度読んでも好き、と言っていた。
「今日の部屋でもね、一杯だけ、ぶどう酒を飲まされたの。……一杯で、ああはならない。お酒のせいには、できない」
姉さんの目から、涙が一粒落ちた。
私は、姉さんの顔を見ていた。
本の中の娘たち。恋をする娘。皆の前で、頬を打つ娘。場面の真ん中に立つ娘。
姉さんは、いつも真ん中にいるのだと思っていた。誰にでも笑って、誰からも好かれて。私とは、正反対の場所に。
違った。
姉さんは、ずっと、見ていたんだ。本の外から。場面の外から。そこに立つ娘たちを。
主人公に、なりたかったんだ。
*
私は立ち上がった。
「私が、名乗り出る」
姉さんが、私を見上げた。
「代官所へ行って、作ったのは私だって言う。そうすれば、姉さんはもう呼ばれない。あの人の書類も、いらなくなる」
「だめ」
姉さんの声は、はっきりしていた。看板娘の、宿のために話をつけるときの声だった。
「あんたが名乗ったら、宿もあんたも終わる」
「でも」
「町じゅうが、礼拝堂の悪魔の薬を作ったのはあんただって知る。宿の傷薬を私の名前で売ってたことも、全部ばれる。教会が黙ってない。うちにはもう、誰も来なくなる。あんたは、この町にいられなくなる」
姉さんは、私の手首をつかんだ。
「それに、あんたが名乗っても、あの人は私を放さない。私が、黙って出てきたんだから」
手首をつかむ指が、熱かった。私の手は、冷たいままだった。姉さんの親指が、手首の内側の、脈の上にあった。その指が、ぴくりとして、少しずれた。
「次の呼び出しには、行く」
姉さんは言った。
「行って、何とかする。宿のことなら、私は話をつけられる。……大丈夫だから」
大丈夫。
橋の上で、分かったこと。姉さんがそう言うのは、自分に言い聞かせるときだ。
姉さんは、私の手首を放した。それから、ふっと笑った。少しだけ、ちゃんと笑えていた。
「ありがとね、聞いてくれて。……あんたに話したら、少し、軽くなった」
まだ何か言いかけて、姉さんはやめた。
「もう寝よう。あんたも」
机の上で、牛乳はすっかり冷めていた。一口も、減っていなかった。
*
離れに戻った。作業台の前に座った。炉の火を、少しだけ起こした。
眠れなかった。
乳鉢を引き寄せた。空のまま、乳棒を握る。
「名乗っても、だめ。黙っても、だめ……」
声に出したら、もっと重くなった。
あの夜。手首にさらし布を巻いて、熱に浮かされながら、私はこの乳鉢に向かっていた。一度は負けた。布をほどいて、熱に流された。それでも最後には、熱は人ではなく、乳鉢へ向かった。作ることが、私にとって、いちばん快いことだったから。
姉さんは、あの人の手を、一度も欲しがらなかった。欲しかったのは、頁の続き。場面の真ん中。
姉さんの熱は、男の人に向いていない。
乳棒を握る指に、力が入った。
まだ、形にならない。けれど何かが、乳鉢の底で動きはじめていた。
窓の外が白みはじめるまで、私は乳棒を握ったまま、作業台の前に座っていた。
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