第14話
――エルナ
窓の外が、白みはじめていた。
手のひらに、一晩握っていた乳棒の跡が赤く残っていた。
名乗っても、だめ。黙っても、だめ。
「……一つずつ」
指を立てた。
「あの薬は、もとからある望みを大きくするだけ。理性も、なくならない」
二本目。
「手首を縛った夜。私の熱は、最後は乳鉢へ行った。人のほうへは、行かなかった」
二本の指の向こうに、空の乳鉢がある。
「だったら。皆の前で飲んで、誰にも手を伸ばさずに立っていられる人がいれば」
書類一枚なら、あの役人がどうにでも書ける。町じゅうの目は、書き換えられない。
真っ先に浮かんだのは、姉さんだった。
いちばん好きなのは、皆の前で悪い領主の頬を打つ娘。昨夜、姉さんはそう言った。
好きでもない人に、姉さんは熱を向けたりしない。
乳棒を握り直した。皆の前でなら、姉さんは立っていられる。
そう決めてから、気づいた。それを、誰が姉さんに言うのか。あの薬を作った、私が。
「……言えない」
だから、私が飲む。
皆の前に、乳鉢はない。そのことは、考えないことにした。
宿の娘が飲んで見せますと言いに行っても、出てくるのは、またモーリッツという、あの役人だ。代官様が話を聞かずにいられない人に、間に立ってもらうしかない。
広場の南の、オットーさん。届け出たのも、たぶん、あの人だ。
宿の薬箱には、あの人の店の熱冷ましが入っている。前に一包み、ここで開けてみたことがある。粉の粒が、どれもそろっていた。天秤に載せると、包みに書いてある量と、ひとつまみも違わなかった。
量をごまかさない人だ。
あの薬を届け出たのも、きっと同じだ。危ないと思ったものを、危ないと書いた。それだけ。
そういう人なら、話は聞いてくれる。
それでも、名乗ったその足で、代官所へ連れていかれるかもしれない。
それでも。姉さんがもう一度あの部屋に座らされるより、ずっといい。
話すのは、苦手だ。だから、包みに先に話してもらう。
炉の灰に、鉄の小鍋を埋めた。蜂蜜と、砕いたくるみを練りこんだ生地。焼き上がるまでのあいだに、薄紙と麻紐を出した。
宿の傷薬と、同じ紙。同じ紐。
届け出た人なら、宿の傷薬を、一度は手に取っているはずだ。この結び目を見れば、分かる人には分かる。
冷めた焼き菓子を四つ、紙に包んだ。紐を回して、蝶の形に結ぶ。両方の輪の大きさをそろえて、垂れた端の長さもそろえる。
机の上に置いて、少し離れて眺めた。
「ふふ。完璧」
小さく言ってから、包みの横に自分の手を置いてみた。
私の代わりに、これが名乗ってくれたらいいのに。
*
宿の裏から街道に出たところで、向こうから代官所の衛兵が一人歩いてきた。すれ違ってから振り返ると、宿の勝手口のほうへ曲がっていくところだった。
足が、止まりかけた。
包みを胸に抱えなおして、前を向いた。
東門をくぐると、急に音が増えた。
車輪が石畳をたたく音。呼び込みの声。誰かが誰かを呼ぶ声。籠を背負った人の肩が、何度も私の肩にぶつかった。そのたびに、包みを胸に引き寄せた。
前にこの道を通ったときは、姉さんの青い外套を追っていた。背中を追っているあいだは、まわりを見ずに歩けた。
今日は、追う背中がない。
広場の南の端に、乳鉢と乳棒の絵の看板が下がっていた。
戸の前で、足が止まった。
離れでは、あんなに決められたのに。
ここに立ったら、足の裏が石畳に貼りついたみたいに動かない。代官所の石段を、二段上がって下りた、あの日と同じだ。
戸の隙間から、匂いがもれてきた。乾いた根。木の皮。青い葉の、少し苦い匂い。
吸いこむと、肩から少しだけ力が抜けた。
「……よし」
戸を押した。
頭の上で、小さな鈴が鳴った。
天井から、干した薬草の束がいくつも逆さに下がっている。壁一面に、小さな引き出しが並んでいた。
勘定台の向こうで、白髪を短く刈った男の人が、真鍮の天秤に粉を載せていた。
片方の皿に、小さな分銅。もう片方の皿に、匙の先で粉をひとつまみずつ足していく。皿が揺れて、少しずつ揺れが小さくなる。
「待て」
顔も上げずに言われた。
私は、包みを抱えたまま立っていた。
皿が、まっすぐに止まった。男の人は粉を薬包紙にあけて折りたたみ、そこで初めて顔を上げた。
細めた灰色の目が、私の前掛けの薬のしみで止まった。眉間のしわが、深くなった。
「何の用だ」
「あ、」
声は、そこで止まった。
やっぱり、出てこない。
包みを、勘定台の端に置いた。
両手で、少しだけ押し出した。
灰色の目が、包みに落ちた。
長いあいだ、動かなかった。それから、太い指が麻紐の端をつまんだ。結び目を、親指でなぞる。輪の大きさ。端の長さ。
「……宿の傷薬と、同じ結び目だ」
低い声だった。
「礼拝堂の包みとも、な」
目が、包みから私へ上がった。
「あの包みは、お前か」
今だ、と思った。
「あの薬を作ったのは、私です」
口から出た声は、思ったよりずっと大きかった。
言ってから、顔が熱くなった。挨拶も、名前も、全部飛ばしてしまった。
「宿の娘の、妹か」
「はい。……エルナ、です」
オットーさんは包みを開けずに脇へ置いた。天秤の皿を布で拭き、分銅を箱に戻した。それから、勘定台の上で両手を組んだ。
「素材を言え」
花の名を言った。根の名を言った。いつ摘んで、何日干したか。
「火は」
「量は」
「何刻、冷ます」
一つ聞かれるたびに、一つ答えた。声は小さいままだった。でも、つかえなかった。
オットーさんの問いが、そこで止まった。
「火を止めるのは、何を見てだ」
「色です。……夕焼けの、赤になったら」
「夕焼け」
オットーさんは、鼻から短く息を吐いた。
「帳面には、書けん見方だな」
褒められたのか、呆れられたのか、分からなかった。
「何をする薬だ」
「誰にでも欲情させる薬じゃ、ありません」
勘定台の縁を、両手でつかんでいた。
「飲んだ人が、心の底で望んでいることを、したくなる気持ちを大きくするだけです。もとからないものは大きくなりません。理性は減ります。でも、なくなりはしません。一晩で抜けて、朝になっても覚えています」
「礼拝堂の助祭は、娘に手を伸ばした」
「たいていの人は、いちばん強い望みが、そっちだから」
「たいていは、か」
「手を伸ばすかどうかは、飲んだ人が決めます。あらがえる人も、います」
「なぜ、分かる」
喉が、こくりと鳴った。
「……自分で、飲みました」
オットーさんは、何も言わなかった。灰色の目が、私の顔の上でしばらく止まっていた。
それから、脇へ置いた包みを、指先で一度だけ叩いた。
「届けたのは、わしだ」
思っていたとおりだった。なのに、勘定台の縁をつかむ指に力が入った。
オットーさんは、前掛けの紐に手をかけた。
「作った者が自分で名乗り出たなら、話は早い。代官所へ行くか」
「え」
「名乗り出に来たんだろう」
「違います」
今度は、すぐに言えた。
「証明しに来たんです。あの薬が、悪魔の薬じゃないって」
紐をほどきかけた手が、止まった。
「町の人と教会の人の前で、あの薬を飲んで見せます。飲んで、誰にも手を伸ばさなければ、皆に分かります」
「皆の前で、だと」
オットーさんの声が、低くなった。
「効きすぎる薬は、毒と同じだ。昔、旅の錬金術師が売った薬で、町の者が三人倒れた。わしは、その三人を見ておる」
組んでいた手がほどけて、勘定台を押さえた。
「その毒を、人だかりの前であおる気か」
目が、勘定台の上の天秤へ行った。
真鍮の皿。小さな分銅の箱。
「量を決めて飲めば、毒にはなりません」
息を吸った。
「量は、オットーさんが、その天秤で量ってください」
オットーさんの目が、私の顔から天秤へ動いて、また戻ってきた。
「確かめるだけなら、代官の前でやれば済む。皆の前で見せる必要はない」
代官様の前で。
戸を閉めた部屋で、代官様と、オットーさんと、あの役人と。
「それでは、だめです」
「なぜだ」
答えたら、姉さんのことを話すことになる。
母さんにも言えなかった、姉さんのことを。
姉さん、ごめん。
「届け出のあと、モーリッツという役人様が、離れの小瓶を持っていきました。姉は、代官所の奥の部屋で、それを一人で飲まされました」
声が、途中で細くなった。勘定台の木目を見たまま、続けた。
「今は、私のものになれ、と言われています。証拠は全部姉を指しているけれど、書類一枚で、別の誰かのせいにもできる、と」
顔を上げた。
「戸を閉めた部屋で決まることは、書類一枚で、どうにでもなるんです」
前掛けの紐から、オットーさんの手が離れた。
天井の薬草の束が、かすかに揺れていた。
「……わしの届け出で、か」
オットーさんは勘定台に目を落とした。天秤の皿に、指で触れた。皿が小さく揺れて、また止まった。
しばらく、何も言わなかった。
「調べの書き付けは、全部、あの男が書く」
皿から指を離した。
「皆の目の前なら、誰にも書き換えられん、か」
自分に言い聞かせるような声だった。
「私が、飲みます」
オットーさんは、首を横に振った。
「教会に答えを持っていくのは、代官だ。誰が飲んだと伝える。疑われとるのはカルラだ。そこへ妹が出てきて、作ったのは私です、私が飲みます、と言うてみろ。妹が姉をかばっとる、と誰もが思う。台の上でお前が立っていようが、疑いは姉に残る」
口を開いた。
何も出てこなかった。
「カルラが飲んで立てば、それならば、と誰もが頷く」
オットーさんは前掛けを外して、きちんとたたんだ。
「わしの届け出が、娘一人を奥の部屋へ送る道具にされた。それなら、届けた者として、わしが代官に申し立てる。代官は、聞かねばならん」
たたんだ前掛けを勘定台に置いて、灰色の目を私に向けた。
「勘違いするな。わしは、お前の味方をするんじゃない。確かめるだけだ。台の上で姉が手当たり次第に人へ手を伸ばしたら、噂のとおりの薬だ。そのときは、作った者の名を、わしが代官に渡す」
喉の奥で、息が止まった。
「それまでは、誰にも言わん。お前の名は、わしが預かる」
壁の釘から黒い上着を取りながら、背中で言った。
「姉が承知するなら、連れてこい。市まで三日だ。今日のうちにだ」
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