第8話
広場に戻ったとき、鐘楼の鐘が鳴った。
姉さんは、北東の角へ向かっていく。
代官所。
灰色の石の建物。広場に向いた石段。重そうな木の扉。
扉のわきに、槍を持った衛兵が立っている。
姉さんは石段を上って、扉の中へ消えた。
振り返らなかった。
私は、石段の下まで来た。
ここまで来た。
人混みの中を。橋の上から。
あとは、石段を上がって、扉を開けて。
私が作りました、と言うだけ。
一段目に、足をかけた。
二段目。
扉が近い。
鉄の金具。木の節。誰かが手をかけてすり減った取っ手。
「おい」
衛兵が、こちらを見下ろしていた。
「何の用だ」
喉が、閉じた。
私が作りました。
言葉は、頭の中ではちゃんとできている。一言一句。
それなのに、喉の奥で石みたいに固まって、上がってこない。
「……わ、」
「なんだ。はっきり言え」
「わたし、が……」
衛兵が槍の石突きで、とん、と石段を鳴らした。
「用がないなら下がれ。ここは遊び場じゃない」
膝が、勝手に後ろへ下がった。
一段。二段。
石畳の上に戻っていた。
衛兵はもう、こちらを見ていなかった。
私は広場の端の、井戸のわきに立った。
扉が見える所。
前掛けの下で、両手を握りしめた。爪が手のひらに食いこんだ。
広場のざわめきが、背中を流れていく。
鐘楼の影が、石畳の上を少しずつ動いていく。
扉は、一度も開かなかった。
姉さんは、出てこなかった。
――カルラ
奥の部屋は、薄暗かった。
窓は高い所に一つだけ。小さくて、空しか見えない。
厚い木の戸。壁ぎわに酒の棚。机の上には、紙の束と、インク壺と、燭台。
表の広間を通らずに、廊下の奥まで案内された。
戸が閉まると、広場のざわめきが、ふっと消えた。
香水の匂いが、部屋じゅうにこもっている。
甘くて、重くて、息を吸うたびに喉の奥に貼りつく。
「……うわ」
思わず声が出て、あわてて笑顔に戻した。
「お座りなさい、お嬢さん」
モーリッツさんは机の向こうに腰を下ろした。椅子がきしむ。
私は勧められた椅子に、浅く座った。
膝の上で、手を重ねる。
さっき、川べりで握られた手。まだ、指の付け根が少しこわばっている。
いつもどおり。
看板娘のカルラで、いればいい。
「ずいぶん奥まったお部屋なんですね。お役人さんのお仕事って、こういう所でなさるんですか?」
「静かなほうが、話がよく聞けますのでな」
モーリッツさんが、机の上に物を並べはじめた。
一枚の紙。「薬師オットーの届け出」と、上に書いてある。
小さな空の瓶と、薄紙の包み。麻紐の蝶の結び目が、ほどけかけている。
もう一枚、薄紙。たたんだ跡があって、端に麻紐が残っている。うちの傷薬の包み紙だ。
それから、あの子の作業台にあった小瓶。コルクの栓。琥珀色が、半分。
「礼拝堂で見つかった包みと、お宅の傷薬の包み。薬師の見立てでは、同じ手の仕事だそうです」
太い指が、二つの包みを並べた。
「そして、お宅の作業場には、これがあった」
小瓶を、こつん、と机に置く。
「町を騒がせている悪魔の薬は、あなたが作ったものですな」
私は笑った。
笑えた、と思う。
「まさか。あれは、夜のお店に頼まれて作っている火照り薬ですよ。礼拝堂のことなんて、何も」
「ほう」
「包みが似ているのは、うちの包み方が丁寧だからです。真似する人だっているかもしれません。うちの傷薬、評判ですから」
「なるほど、なるほど」
宿の名前。
母さんの帳場。
あの子の離れ。
ここで私がうなずいたら、全部が。
モーリッツさんは、太い指で小瓶をつまみ上げた。
灯りに透かす。
酒の棚から、小さな杯を取ってきた。
コルクを抜く。
琥珀色が、杯の底に少しだけ注がれた。
「ならば、ここで飲んでみなさい。本当に体温が上がるだけなら、疑いは晴れる」
杯が、私の前に置かれた。
「……ここで、ですか」
「ここで。簡単なことでしょう。あなたの薬なのだから」
甘い匂いがした。
蜂蜜みたいな。花みたいな。
あの子の薬だ。
飲まないで、と言った妹の顔が浮かんだ。
前髪の陰で、何か言いかけて、言えなかった顔。
あの子の作った薬だもの。
私が一番よく知ってる。
「……いただきます」
私は杯を取って、飲み干した。
甘い。
舌の奥が、少ししびれた。
「さて」
モーリッツさんが、椅子に背をあずけた。
小瓶にコルクを戻して、上着の内側にしまう。
「少し、待ちましょうか。話は、ゆっくり聞きましょう」
*
頬が熱くなってきた。
お酒を一杯飲んだときと同じ。
私はお酒に弱いから、知っている。顔が赤くなって、胸がとくとくして、なんだか楽しくなる。
「ほら。……体温が、上がるだけ」
小さく言った。言ったら、少し安心した。
安心は、長く続かなかった。
熱は、頬で止まらなかった。
耳へ。首すじへ。鎖骨の下へ。
お酒なら、そこで止まる。止まって、眠くなる。
これは、止まらない。
胸の奥で、とくん、と何かが鳴るたびに、熱が少しずつ下へ降りていく。みぞおちへ。
もっと下へ。
汗が、うなじから背中へ、一筋伝っていく。
胴着の中で、肌が布にこすれる。
こすれたところが、ちりちりした。
唇をかんだ。
何、これ。
誰にも触られていないのに。
「どうです、お嬢さん」
「……少し、暑いです。でも、それだけです」
「それだけ」
モーリッツさんが、私の言葉をくり返した。
ゆっくり。味わうみたいに。
「ええ。それだけ」
言いながら、膝の上で重ねた手に、力を入れた。
指先まで熱いのに、手は鉛みたいに重い。
部屋の空気が、肌にまとわりつく。
香水の匂いが、さっきほど嫌じゃない。
それが、いちばん嫌だった。
外套の下の給仕服の、胴着の締めつけが、急に気になった。
襟もとが、きつい。
――娘は、男の前でゆっくりと襟もとのリボンをほどいた。
頭の中で、声がした。
この前、読んだばかりの一節。
寝台の中で、何度も読み返したところ。
灯りを細くして、毛布を頭までかぶって。
読み返すたびに、胸がどきどきして、それだけで眠れなくなった頁。
今は、どきどきでは済まなかった。
頁の文字が、肌の上に書かれていくみたいだった。
「……って、何考えてんの、私」
声に出ていた。
はっとして顔を上げると、机の向こうの目が細くなっていた。
「何か、おっしゃいましたかな」
「い、いえ。なんでも」
外套を肩から落とした。
「暑いから。……それだけ、です」
指が、襟もとのリボンにかかっていた。
いつ、そこへ行ったのか分からない。
青い給仕服の、白いリボン。毎朝、鏡の前で、形よく結んでいるリボン。
指先が、端をつまんでいる。
離して。
離しなさい、カルラ。
指は、離れなかった。
「おや」
モーリッツさんの声。
「リボンが、どうかしましたかな」
見られている。
その一言で、体の奥が、ひくりとすくんだ。
恥ずかしい。逃げたい。
それなのに、縮んだところから、熱がじわりとあふれてくる。
見られている、と思うほど、肌が薄くなっていく。
「……違うの。これは、本の……」
これは本の話で。
本の中の、知らない娘の話で。
引く。
結び目が、するりとほどけた。
襟もとがゆるんで、こもっていた熱が、首から逃げていく。
胸もとに、部屋の空気が流れこむ。
汗ばんだ肌が、すうっと冷える。
冷えたところが、また、すぐに熱くなる。
気持ちいい。
「……ふ、ぁ」
声がもれた。
こんな声、知らない。
食堂で「はーい」と笑う声とも、母さんに返事をする声とも違う。
――男の指が、娘の首すじをたどった。娘は、逃げなかった。
続きが、勝手に流れてくる。
次の頁。
その次の行。
私は、全部覚えている。
「どうして……今……」
椅子がきしんだ。
机の向こうの影が、立ち上がる。
香水の匂いが、近づいてくる。
一歩ごとに、濃くなる。
「体温が上がるだけ、でしたな。お嬢さん」
耳のすぐ上で、声がした。
息が、耳にかかった。
香水の匂いが、声と一緒に耳の穴へ流れこんでくる。
肩に、手が置かれた。
指輪の硬さが、布ごしに、肩の骨に当たった。
肩がすくんだ。
「……や」
声は、それだけしか出なかった。
もっと、大きな声。
食堂のいちばん奥まで届く、いつもの声。
あれを出せばいい。
喉が、熱で溶けたみたいに、何も出てこなかった。
その手が、肩から、首すじへ。
――娘は、逃げなかった。
違う。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、と思っているのに。
体のほうが、本の頁に遅れずについていく。
首すじをなぞられて、背中がぞくりとする。
背骨を一つずつ、熱いものが降りていく。
腰の奥で、それが重くたまる。
「まだ、それだけですかな」
耳もとで、声が笑った。
「……それ、だけ……です」
言わなきゃ。
それだけ、と言い張らなきゃ。
ここで崩れたら、宿の名前も、母さんの帳場も、あの子の離れも。
言い張るたびに、喉の奥が熱くなった。
言い張る声のほうが、震えていた。
いや。
いやなのに。
いつもは頁の外から読んでいたのに。今は、内側にいる。
頁の外へ、戻る道が分からない。
目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、本の挿絵みたいな、ぼんやりした男の人の影。
顔は、ない。
誰でもない。
目を開けたら、そこにいるのは。
開けなかった。
開けたら、頁が終わる。
頁が終わったら、ここにいるのが、私になってしまう。
――娘は、目を閉じたまま、男の名を呼ばなかった。
――呼ぶべき名を、知らなかったから。
背中が、椅子の背から浮いた。
浮かせたつもりなんて、なかった。
その隙間に、手がまわりこんだ。腰へ。
胴着の背中の紐の交差を、太い指が、一つずつ数えていく。
指輪が、紐の上で、かちりと鳴った。
「ひとつ。……ふたつ」
耳もとで、数える声。
「これも、それだけですかな」
答えられなかった。
数えられるたびに、紐が、ほんの少しずつ、ゆるんでいく気がした。
いつのまにか、私の息が、その声に合っていた。
ひとつ、で吸って。ふたつ、で吐いて。
「ん……っ」
「……だめ……」
膝を、きつく閉じた。
それなのに、背中は、椅子の背へ戻らなかった。
「みっつ」
だめなのに。
だめなのに、頁が、止まらない。
*
高い窓の空が、藍色になっていた。
机の燭台に、いつの間にか火が入っている。
裏口の戸を開けると、外はもう暗かった。
細い路地。石の壁。どこかで犬が鳴いている。
表の広場のほうから、店じまいの音が聞こえる。
「表からはお帰りにならないほうがいい。人目もある」
背中で、モーリッツさんの声がした。
「あなたのためですよ、お嬢さん。今日のことは、私とあなただけの話に」
少し間があって、声がつづいた。
「調べは、まだ終わっておりませんでな。続きは、また日を改めて」
戸が閉まった。
私は壁に手をついて、歩いた。
膝に、力が入らない。
頬が熱い。首も、胸も、まだ熱い。
外套の前を、両手でかき合わせた。
襟もとから、香水の匂いがした。
私のじゃない匂い。
「……やだ」
手の甲で、首すじをこすった。何度も。
「やだ、やだ……」
リボンが、ほどけたままだった。
結び直そうとして、指が震えて、結べなかった。
「なんで。毎朝、結んでるのに」
ちょっと体温が上がるだけ。
飲むと少し火照って、楽しくなるだけ。
「……誰よ、そんなこと言ったの」
私だ。
私が、あの人の前で、そう言った。
「こんなに、強い薬だったなんて……」
路地の角で、足が止まった。
戸の隙間。
赤い頬。うるんだ目。ほどけた髪。
自分を抱きしめていた、白い腕。
あの夜の、あの子。
「……あの子、ひとりで」
この薬を。
私は外套の前をかき合わせたまま、暗い路地を外町のほうへ歩いた。
遠回りをした。
誰にも会わない道を選んで。
熱が、少しでも引くまで。
――エルナ
夜更けになっても、眠れなかった。
日が暮れて、広場の屋台が片づけられて、私は宿に戻った。
食堂は夕食の客でいっぱいだった。姉さんのいない食堂を、母さんが一人で、鍵の束を鳴らしながら走り回っていた。
「はいはい、黒麦酒ね! ちょっと待ってて! ……あら、エルナ」
母さんが、盆を抱えたまま私の前で止まった。
「カルラは? 一緒じゃなかったの」
首を振った。
「あらまあ、遅いわねえ。役人さんの話が長引いてるのかしら」
「女将、こっちにも一杯!」
「はいはい、ただいま!」
母さんは注文の声のほうへ、小走りで行ってしまった。
私は離れに戻って、作業台の前に座っていた。
炉の火は落ちている。
作業台の端に、もう何も立っていない。
「……ない」
表の戸の向こうで、足音がした。
裏庭の土を踏む、ふぞろいな足音。
私は立ち上がって、戸に近づいた。
古い物置の戸は、いつものように、細く開いたままになっている。
その隙間に、目を寄せた。
月の光の中を、誰かが横切っていく。
青い外套。
「姉さん……」
姉さんだった。
外套の前を、両手でかき合わせている。
髪が乱れて、肩にかかっている。朝、きれいに整えていた髪。
足もとがおぼつかない。物干しの柱に、一度手をついた。
井戸のわきを通るとき、月明かりが、顔を照らした。
頬が赤い。
乾いた汗で、前髪が額に貼りついている。
目が、うるんでいる。
唇が、少し開いている。
息が止まった。
知っている。
その顔を、私は知っている。
鏡で見たことはない。
でも、知っている。
あの夜、私の頬がどれだけ熱かったか。首すじを、汗がどう伝ったか。
目の奥が、どんなふうにとろけたか。
私の、薬の顔だ。
姉さんは、勝手口の前で立ち止まった。
外套の襟もとを、指で押さえている。
何かを、押さえるように。
それから、そっと戸を開けて、母屋の中へ消えた。
勝手口の前で丸くなっていたクネーデルが、首を上げて、閉まった戸を見ていた。
私は戸の隙間から、目を離せなかった。
誰もいなくなった裏庭を、まだ見ていた。
「飲まないで、って」
声が、震えた。
「言った、のに……」
戸の木に、額を押しつけた。
冷たい。
あの薬は、私が作った。
姉さんに、あの顔をさせたのは。
私だ。
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