第7話
――エルナ
その人は、香水の匂いを連れてきた。
甘くて、強くて、ほかの匂いを全部押しのけてくる。花を煮つめて、煮つめすぎたような。
厨房の戸口の陰で、私は思わず袖で鼻をおおった。
新しい傷薬を、帳場へ届けに来たところだった。
廊下の向こうの帳場で、母さんの声がはずんだ。
「あらまあ、役人さん。こんな外町まで。お疲れでしょう、お水でも?」
「いやいや、お構いなく」
太った男の人が、帳場の前に立っていた。
赤ら顔。額にも首にも、汗が光っている。指には太い指輪がいくつも。
動くたびに、香水の匂いがこちらまで押し寄せてくる。
「代官所のモーリッツと申します。いや、たいした用ではないのですがね」
ねっとりとした、ゆっくりした声だった。
「町の薬師から、届け出がありましてな。お宅で売っている傷薬のことで、少し」
薬師。
礼拝堂に呼ばれたのは、町でいちばんの薬師だったと、食堂の噂で聞いた。
宿の傷薬が評判だと聞いて、ときどき裏庭まで様子を見に来る人も、たしか薬師だった。
同じ人かもしれない。違うかもしれない。
私は人の顔を覚えるのが下手だ。匂いなら、一度で覚えるのに。
「まあ。うちの傷薬は、まっとうな薬ですよ」
母さんが胸を張った。鍵の束がじゃらりと鳴る。
「町じゅうで評判なんですから。鍛冶屋さんのところの坊やなんてね、膝をこう、すりむいて。それが塗ったとたんに、いたくない、ですって。ねえ、カルラ」
食堂から姉さんが出てきた。盆を胸に抱えている。
「はーい。なあに、母さん」
「役人さんがね、うちの傷薬のことを聞きたいんですって」
母さんは姉さんの肩に手を置いた。
「うちのカルラが作ったんですよ」
母さんの声は、誇らしげだった。
姉さんは、にっこり笑ってうなずいた。
「はい。私が作っています」
男の人の目が、姉さんの上をゆっくり動いた。
顔から、首へ。胸もとへ。腰へ。
それから顔へ戻った。
「ほう。お嬢さんが」
「何か、お調べになるんですか?」
「なに、決まりごとです。作っておられる場所を、見せていただければ」
男の人は、汗ばんだ手をこすり合わせた。
「役目ですからな」
「ええ、どうぞ。散らかってますけど、笑わないでくださいね」
姉さんは笑顔のまま、盆を帳場に置いた。
「こちらです。裏の離れが、私の作業場なんです」
私の作業場。
宿の傷薬は、そういうことになっている。
二人が廊下を歩いてくる。
私は厨房の奥へ下がって、食料庫の戸の陰に身を寄せた。
香水の匂いが、目の前を通り過ぎていく。
「足もと、気をつけてくださいね。そこ、段がありますから」
「おっと。いや、ご親切に」
勝手口の戸が開いて、閉まる。
私は勝手口の戸を細く開けた。
裏庭を、二人が歩いていく。
姉さんが離れの表の戸を開けて、中へ入った。
男の人がそのあとに続く。
太い背中が、戸口をすっかりふさいだ。
ここからでは、背中しか見えない。
聞こえるのは、声だけ。
「ずいぶん、いろいろな物がありますな」
「乾かした薬草です。そっちが香油。いい匂いでしょう? こっちは卸しの品で……あ、そこ、触ると手が黄色くなりますよ」
「おお、こわいこわい」
姉さんの声は明るい。いつもどおりの、看板娘の声。
その瓶が何なのか、姉さんは知らないはずなのに。
奥の小部屋。寝台の枕もと。
記録帳。
あの夜の頁。
息が浅くなった。
開けないで。
奥は、だめ。
あの人が、奥の戸を開けたら。
「ほう。これは何です。一本だけ、別に置いてある」
作業台の端。
卸しの箱から、ずっと離して立てておいた小瓶。
見本として出してある、あの一本。
小匙に一杯だけ量り分けて、残しておいた半分。
「ああ、それは」
姉さんの声は、少しも揺れなかった。
「ちょっと体温が上がるだけの薬ですよ。夜のお店に頼まれて作っているんです。飲むと少し火照って、楽しくなるだけ」
違う。
姉さん、違う。
それは――
勝手口の戸のふちを握った指に、木のささくれが刺さった。
声は、出なかった。
「ほう。体温が、ね」
男の人の声が、少しだけ低くなった。
「では、これは預からせていただきましょう。念のため」
「どうぞどうぞ。一本くらい、またすぐ作れますから」
奥の戸が開く音は、しなかった。
二人が離れから出てくる。
男の人の太い指のあいだに、小さな瓶が光っていた。
コルクの栓。
半分だけ減った、琥珀色。
私が作った、本物。
「明日、代官所で少し事情を聞きましょう、お嬢さん。昼過ぎにでも」
「はい、分かりました。お茶菓子、出ます?」
「ええ、ご用意しておきましょう。……甘いものを、ね」
姉さんは、にっこり笑って頭を下げた。
男の人が帰っていく。
香水の匂いが、少しずつ薄れていく。
母さんが帳場から顔を出して、鍵の束を鳴らした。
「役人さんの決まりごとでしょ。気にしなくていいのよ、カルラ」
「うん」
姉さんはそう言って、食堂へ戻っていった。
私は勝手口の陰で、しゃがみこんだ。
ささくれの刺さった指を、口に含む。
血の味がした。
ルディの膝に塗った、あの傷薬。
あれが、あの人をこの家へ連れてきた。
「持って、いかれた……」
膝を抱えた。
――エルナ
その夜、私は母屋の階段を上がった。
離れで寝起きするようになってから、夜に母屋の二階へ上がるのは初めてだった。
階段がきしむ。
一段ごとに、きしむ。
廊下の奥に、姉さんの部屋の戸。隙間から、灯りがもれている。
戸の前に立った。
手を上げる。
下ろす。
「言う。ちゃんと、言う」
もう一度、上げた。
とん、とん。
「はーい……え?」
戸の向こうで、ばたばたと音がした。
「ちょ、ちょっと待って! 今、開ける、開けるから!」
何かを枕の下に押しこむ音。
戸が開いた。
寝間着の姉さんが立っていた。
髪をほどいて、肩に下ろしている。頬が少し赤い。
私を見て、目を丸くした。
「……エルナ? なんだ、母さんかと思った」
姉さんの肩ごしに、寝台が見えた。
枕の下から、小さな本の角がはみ出している。
開いたままの頁が、灯りの下でこちらを向いていた。
一行だけ、目に入った。
――娘は、男の前でゆっくりと襟もとのリボンをほどいた。
私は目をそらした。
頬に、かっと血がのぼった。
「どうしたの、こんな夜に。珍しいね。怖い夢でも見た?」
姉さんは本の角を足で寝台の奥へ押しやりながら、笑った。
けれど、私の顔をまっすぐには見なかった。
礼拝堂の騒ぎのころから、ずっとそうだ。
「……明日」
声がかすれた。
「代官所で」
「うん。昼過ぎにね。あんたが心配することじゃないよ」
「もし、何か飲めって言われても」
姉さんが、まばたきをした。
「飲まないで」
廊下の灯りが、じじ、と鳴った。
「……どうして?」
姉さんが首をかしげた。
「あ、」
言いかけて、続きが出てこなかった。
あの一本は、火照り薬じゃない。
私が作った。
礼拝堂の騒ぎを起こしたのも、私の薬だ。
そう言えば、姉さんにも知られてしまう。
悪魔の薬を作ったのは、妹だと。
そんな薬を、自分で飲んだ妹だと。
「エルナ?」
「あれ、は……」
「うん」
口を開けたまま、私は立っていた。
姉さんが、ふっと笑った。
「あれ、体温が上がるだけでしょ。あんたの作った薬だもん。私が一番よく知ってる」
姉さんは私の腕を軽く叩いた。
「大丈夫、大丈夫」
いつもの、明るい声。
いつもの笑顔。
「心配してくれて、ありがとね。……おやすみ」
戸が閉まった。
私は廊下に立ったまま、閉じた戸を見ていた。
「言う、って、言ったのに……」
戸の向こうで、本の頁をめくる音はしなかった。
――エルナ
翌日の昼過ぎ。
姉さんは、外出用の青い外套を着て、宿を出た。
私はそのあとを、少し離れてついていった。
「追い越す。先に、入る」
口の中で、くり返す。
姉さんを追い越して先に代官所へ入って、私が作りました、と言う。
あの一本は、私の薬です。姉さんは何も知りません、と。
そう決めて、離れを出てきた。
東門をくぐる。
石畳の街道を、町の真ん中へ。
人が多い。
「焼きたてだよ、焼きたて!」
「どいたどいた、荷車が通るよ!」
呼び込みの声。荷車のきしみ。焼いた腸詰めの脂の匂い。麦酒。汗。家畜。
全部が一度に鼻に押し寄せてくる。
頭がくらくらする。
前を歩く姉さんの青い外套だけを見て、足を動かした。
広場に出た。
市の屋台が並んでいる。鐘楼の影が石畳に落ちている。
北東の角に、代官所の石段が見えた。
姉さんは、そちらへ曲がらなかった。
広場をまっすぐ西へ抜けていく。
小脇に、包みを抱えている。卸しの包みだ。
川べりへ。
今日は、香油を届ける日だったのだろうか。
私は姉さんを追って、広場を西へ抜けた。
家並みが低くなっていく。
風に、水の匂いが混ざりはじめる。
川が見えた。
石の橋が、西の岸へ渡っている。
橋の東のたもとに、人の列ができていた。
みすぼらしい服の人たち。子どもを連れた女の人。杖をついたおじいさん。
大きな鍋から、湯気が上がっている。
「並びな、並びな。一人一杯だよ」
鍋をかき混ぜている男の人が、声を張った。
列の中の女の人が、隣の子どもに言っている。
「金貸しの旦那のスープだよ。ありがたく、いただくんだよ」
「うん! ありがとう、だんな!」
子どもは、湯気の立つ椀を両手で抱えて、うれしそうに笑った。
女の人が、私に気づいた。
「あんたも並ぶかい? 顔色、悪いよ」
私は首を振った。
女の人は、それ以上は何も言わなかった。
姉さんは列の横を通り過ぎて、橋を渡っていく。
私も橋に足をかけた。
一歩。
二歩。
そこで、足が止まった。
橋の向こうは、川べりだ。
酒場。賭場。芝居小屋。夜の店。
昼間なのに、戸口の奥が暗い。
そこから流れてくる匂いが、街道とも食堂とも違う。
「向こうまで、四十歩。四十歩、なのに……」
膝が、前へ出ない。
橋の手すりをつかむ。
冷たい石。
姉さんの青い外套が、向こう岸へ遠ざかっていく。
私は手すりにしがみついたまま、姉さんを目で追った。
川は狭い。向こう岸の戸口まで、石を投げれば届きそうだった。
姉さんは川べりの一軒に入っていった。
派手な色の布が戸口に垂れている店。
しばらくして出てきたとき、小脇の包みはなくなっていた。
姉さんはそのまま、川沿いを少し歩いた。
小さな、地味な戸口の前で止まる。
看板も何もない。
姉さんは外套の内側から、何かを取り出した。
布の小袋。
重そうに、手のひらの上で一度だけ持ち直した。
戸口の中から、若い男の人が出てきた。
小袋を受け取って、中をのぞく。
姉さんは頭を下げた。
お金だ。
姉さんは、お金を払っている。
香油を届けた帰りに。
看板もない戸口で。
「借金……」
うちには、借金がある。
いつから。
どうして。
私は、何も知らなかった。
戸口の奥から、もう一人出てきた。
背すじがまっすぐで、痩せていて、身なりがいい。
濃いぶどう色の長い上着。白い襟巻き。黒い革の帳面を、胸に抱えている。
黒い髪に白いものが混じって、きれいに後ろへなでつけてある。
ぶどう色の上着。黒い帳面。
どこかで――
その人は帳面をわきに挟んで、姉さんの手を取った。
両手で包むように。
何か言っている。声は、川の音にまぎれて届かない。
姉さんは笑っている。いつもの、看板娘の笑顔。
手が、なかなか離れなかった。
「……長い」
姉さんの笑顔は変わらない。
けれど、男の人の手の中で、姉さんの指だけがまっすぐに伸びたままだった。
その人は、ようやく手を離した。
姉さんの外套の襟が、片方だけ折れている。
その人はそれに気づいて、そっと直してやった。
それから、深く頭を下げた。
金を受け取った側が、払った側に。
風が吹いた。
川の上を渡って、橋のほうへ。
薔薇の匂いがした。
かすかに。
けれど、確かに。
濃くて、甘くて、少し冷たい。
あの日、帳場に残っていた匂い。
玄関の戸口に見えた、ぶどう色の背中。
男の人が、ふと顔を上げた。
橋の上を見ている。
私を見ている。
その目が、顔ではなく、下へ降りた。
手すりをつかんでいる、私の手もとへ。
私は自分の手を見下ろした。
石をつかむ指。爪のきわまで染みた、薬品のしみ。
見られている。
指先が、じん、としびれた。
一瞬だけ。
すぐに、背すじが冷たくなった。
私は袖を引き下ろして、指を隠した。
手すりから手を離して、後ずさった。
姉さんが、こちらへ戻ってくる。
橋を渡ってくる。
私は橋のたもとまで走って、スープの列の陰に身をかがめた。
湯気と、人の背中と、鍋の音。
「おや。やっぱり並ぶかい」
さっきの女の人が、小さく笑った。
私は答えずに、頭を低くした。
姉さんが、すぐ横を通り過ぎた。
顔に、笑顔がなかった。
口もとはこわばって、目はまっすぐ前を見ている。
誰も見ていない顔。
看板娘の笑顔を外した、知らない姉さんの顔。
大丈夫、大丈夫。
昨夜の声が、耳の奥でよみがえった。
いつもの、明るい声。
「私に、言ったんじゃない……」
姉さんが、自分に言い聞かせていたんだ。
姉さんの背中が、町のほうへ遠ざかっていく。
私は列の陰から出て、あとを追った。
この作品を『おもしろかった!』、『続きが気になる!』と思ってくださった方はブックマーク登録や↓の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に評価して下さると執筆の励みになります。




