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第6話

――エルナ

昼前の食堂は、まだ空いている。

窓から差しこむ光の中で、ほこりがゆっくり舞っている。

包みを胸に抱えて、厨房の戸口からのぞいた。

カウンターの内側に、姉さんがいた。

ジョッキを拭いている。こちらには気づいていない。

「……ねえさ」

呼びかけた声は、途中で止まった。

姉さんは振り向かなかった。

私は戸口から引っこんだ。

厨房を抜けて、廊下を回る。玄関わきの帳場なら、母さんに渡せる。

帳場の前で、足が止まった。

匂いがする。

薔薇の香油。

濃くて、甘くて、少し冷たい匂い。

宿の匂いじゃない。私が卸している香油とも違う。もっと高くて、もっと重い。

玄関の戸口に、男の人の背中があった。

濃いぶどう色の長い上着。脇に抱えた腕のあいだから、黒い革の角がのぞいている。

背中はすぐに戸の外へ消えた。

顔は見えなかった。

帳場には、母さんがいた。

帳場の椅子に座って、戸口のほうを見ている。

姉さんと同じ栗色の髪から、後れ毛が一筋、頬にかかっている。母さんは、それを耳にかけもしない。

腰の鍵の束が、鳴っていない。

私は帳場の机の端に、包みを置いた。

「……傷薬。新しいの」

母さんがこちらを見た。

目だけでうなずいて、また戸口のほうを見た。

いつもなら、あらまあ、と包みを手に取って、ひとしきり何か言うのに。

しばらくして、母さんは立ち上がった。

鍵の束が、じゃらりと鳴った。

母さんは小走りで厨房のほうへ行ってしまった。じゃらじゃらという音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。

帳場には、薔薇の匂いがまだ残っていた。

   *

廊下を戻ろうとしたとき、食堂から声がした。

窓ぎわの席に、常連のフランツさんがいる。元兵士のおじいさん。昼前から麦酒を一杯、ゆっくり飲むのが日課だ。

向かいに、外町の職人さんが二人。

厨房のほうから、鍵の音がまだ小さく聞こえていた。

フランツさんが、その音のほうを目で追った。

「ローザちゃんも、苦労しとるのう」

「親方がいなくなって、一年だもんな」

「店を一人で回すってのは、楽じゃねえよ」

もう一人の職人さんが、パンをちぎりながら言った。

「わしが若いころはな」

フランツさんが、麦酒の泡を口ひげにつけたまま言った。

「ローザちゃんは、えらくもてたもんじゃ。川べりの若いのに、しつこく言い寄られてな……はて。名前は何じゃったか」

「じいさん、またその話かい」

「何度でも言うぞ。結局、農家の三男坊の料理人を婿にとった。あれは見る目があった」

「はいはい。見る目があった、見る目があった」

職人さんたちは笑って、自分たちの話に戻った。

「――それよりさ、例の薬の話。礼拝堂のほうじゃなくて」

一人が声を落とした。

「川べりで、ある夫婦が買ったらしいんだよ。何年も口をきかなかった二人が、あの晩からまた一緒に寝るようになったって」

「本当かよ」

「女房のほうが言ってたんだと。ずっと言いたかったことが、やっと言えたって」

「へえ。悪魔の薬も、使いようってか」

「声がでけえよ」

私は廊下の陰で立ち止まった。

ずっと言いたかったことが。

やっと。

あの五本のうちの一本は、礼拝堂で人を傷つけた。

でも、別の一本は。

「……別の、一本は」

誰にも聞こえない声で、くり返した。

勝手口を出ると、裏庭の光がまぶしかった。

息を吸う。

五日ぶりに、うまく吸えた気がした。

――カルラ

その日の昼過ぎ、裏庭で悲鳴が上がった。

洗い場で皿を拭いていた私は、布巾を放り出して勝手口へ走った。

馬小屋の前で、栗毛の馬が後ろ脚で立ち上がっている。いななき。ひづめが地面を叩く音。

その足もとに、小さな男の子が転がっていた。

鍛冶屋のブルーノさんのところの一人息子、ルディだ。

膝が大きくすりむけて、血がにじんでいる。

「尻尾を引っぱったんだ、あの子が!」

誰かが叫んだ。

「あっぶねえ、近寄るな!」

「蹴られるぞ、下がれ下がれ!」

馬はまだ暴れている。

ルディが泣き叫ぶ。

裏庭に人が集まってくる。食堂の客。外町の職人たち。通りがかりの人まで、塀の向こうから首を伸ばしている。

「ルディ! ルディ!」

真っ青な顔のブルーノさんが、人垣をかき分けてくる。その後ろで、おかみさんが悲鳴を上げた。

どうしよう。

馬が落ち着かないと、誰も近づけない。

離れの戸が、ばたんと開いた。

エルナ。

だぼだぼのシャツが、人垣の中へまっすぐ駆けていく。

人の集まる所が大嫌いなあの子が。祭りの日には、いつの間にか姿を消しているあの子が。

前髪の陰の顔は、真剣そのものだった。

「おい、嬢ちゃん、危ねえって!」

職人さんの声にも、あの子は止まらなかった。

暴れる馬の前に立った。

両手を少しだけ上げて、低い声で何か言っている。聞こえない。

馬の耳が、ぴくりとあの子のほうを向いた。

前脚が地面に下りる。

鼻息が、だんだん静かになる。

エルナが手を伸ばして、馬の首すじにそっと触れた。

馬はそれで、おとなしくなった。

人垣がどよめいた。

「……なんだ、ありゃ」

「宿の、下の娘だろ。離れの」

エルナはもう、ルディのそばに膝をついている。

前掛けのポケットから、小さな包みを出している。

――あの子の周りに、人が多すぎる。

私は前に出た。

看板娘の笑顔を顔に乗せる。

「はいはい、皆さん、ちょっと下がってくださいね! 手当ての邪魔になりますから!」

両手を広げて、人垣を押し戻していく。

「ブルーノさん、大丈夫だから。ここは任せて」

「お、おう……」

「鍛冶場の皆さんは塀のほうへお願い。押さないでね、ありがとう」

「カルラちゃんに言われちゃ、しょうがねえな」

「ほら、下がれ下がれ」

声をかけられると、人は素直に動く。客の顔なら、全部覚えている。

エルナの周りに、ぽっかりと空いた場所ができた。

おかみさんが泣きながら、ルディに駆け寄ろうとしている。

私はその肩を抱いた。

「おかみさん、大丈夫。あの子、手当てが上手なの。少しだけ待ってあげて」

「でも、ルディが……」

「うん。ここで一緒に見てよう。ね」

震える肩を、ぎゅっと抱く。

人垣の後ろで、上等な旅装の男の人が顔をしかめていた。

あの馬の持ち主。二階に泊まっている毛織物の商人さんだ。

「困るよ、うちの馬に何かあったら……」

私は笑顔のまま、商人さんの前に回った。

「ご心配おかけしてすみません。馬は無事です。脚も見ておきますね。今夜のお夕食は、うちから一皿おまけさせてください。いちばんいい腸詰めで」

「いや、しかし……」

「それと、明日の朝は馬にいい干し草を。馬小屋の掃除も、私がやっておきますから」

商人さんは口を開けて、閉じて、それから肩をすくめた。

「……まあ、子どものしたことだ」

「ありがとうございます。助かります」

振り返ると、エルナが包みを開いていた。

見たことのない、乳白色の軟膏。

「……動かないで」

エルナの声だった。

ルディの前にしゃがんで、あの子にだけ届くくらいの声で言っている。

すぐそばの私にも、やっと聞こえるくらいの。

「すぐ、すむから」

「……しみる?」

ルディがしゃくりあげながら聞いた。

「しみない」

あの子は指にすくって、ルディの膝に、そっと塗った。

あの子、子どもには、ちゃんと話すんだ。

袖口から、手首がのぞいた。

赤い跡が、ひとすじ巻きついていた。

何の跡だろう。考えかけて、やめた。

泣き声が、ふっと途切れた。

ルディはぽかんとした顔で、自分の膝を見ている。

「……いたくない」

小さな声だった。

「いたくなくなった」

おかみさんが、私の腕の中で崩れるように座りこんだ。

ブルーノさんが、大きな手で顔をおおった。

「よかった……この馬鹿が……よかった……」

エルナは黙って、傷に布を巻いている。

手つきが速くて、きれいで、迷いがない。

誰も見ていない離れで、何年もかけて積み上げてきた手。

おかみさんが、涙でぐしゃぐしゃの顔で私の手を握った。

「カルラちゃん、ありがとう……ありがとう……カルラちゃんの薬のおかげで……」

私はおかみさんの手を握り返した。

「いいの、いいの。……薬より、あの子の手当てが上手だったのよ」

おかみさんが、エルナのほうを見た。

ブルーノさんも見た。

集まっていた人たちが、みんなあの子を見た。

エルナは顔を上げなかった。

布の端を結ぶと、立ち上がって、誰とも目を合わせずに歩きだした。

人垣が、あの子のために道をあける。

あの子は前髪の陰に顔を隠したまま、まっすぐ離れへ戻っていく。

あの晩から、私はあの子の顔をまっすぐ見られずにいた。

今も、見られない。

だから、背中を見ていた。

だぼだぼのシャツの、まっすぐな背中。

すごいね、エルナ。

声には出さなかった。

   *

人垣が散っていく。

みんな口々に、あの子の手当てと、カルラちゃんの薬の話をしながら帰っていく。

ブルーノさんが、ルディをひょいと肩に担ぎ上げた。

「二度と尻尾なんか引っぱるんじゃねえぞ」

「……うん」

肩の上で、ルディが自分の膝の布をそっとなでていた。

ふと、塀のそばに立っている人に気づいた。

腰の小さな天秤が、日に光っている。

広場の薬屋の、オットーさんだ。

うちの傷薬が評判だと聞いて、ときどき様子を見に来る。商売敵だもの。

オットーさんは地面から、何かを拾い上げていた。

ルディのそばに落ちていた、あの軟膏の包み紙。

麻紐の蝶の結び目が、ほどけかけたまま指の先にぶらさがっている。

オットーさんはそれを、長いあいだ黙って見ていた。

紐の端を、親指でなぞる。

もう一度、なぞる。

それから包み紙を丁寧にたたんで、懐の奥にしまった。

しまったあとも、手はしばらく、懐の上から離れなかった。

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