第5話
――エルナ
礼拝堂の騒ぎから、五日たった。
眠ると、知らない礼拝堂の夢を見る。
燭台の火。倒れた長椅子。遠ざかっていく足音。
見たこともない場所なのに、夢の中ではいつも、私の作った小瓶が床に転がっている。
目を覚ますと、手が冷たい。
作業台の前に座っても、何も手につかない。
「……名乗り出なきゃ」
声に出してみた。
声は作業場の壁に吸いこまれて、それきりだった。
五日前に言えなかった言葉は、五日たっても言えないままだ。
言葉で償えないなら。
作れるものを、作るしかない。
痛みを和らげる傷薬。
宿で売っている傷薬は、傷をふさぐ。けれど痛みまでは取れない。
傷をふさぎながら、痛みも引かせる薬。それなら、誰かの役に立つ。
あの薬を飲むと、肌が感じることが何倍にも細かくなる。あの夜、それだけは分かった。
それに、知りたい、が止まらなくなる。
あの夜は、その熱に流されて、自分の体のことしか見ていなかった。
今度は、それを乳鉢に向ける。
軟膏が肌にのったとき、しびれがどこから来て、どこへ抜けていくのか。ふつうの私の肌では、届かないところまで。
「もう一度、飲む」
口に出したら、指先がもっと冷たくなった。
「……今度は、作るために」
あの夜と同じ手順で、薬を小瓶に一本だけ作った。
それから、準備をした。
表の戸の掛け金をかける。
押してみる。かちり、とすぐ外れた。古い物置の戸はいつもこうだ。
「……これじゃ、開く」
薬草の袋を詰めた箱を、戸の前まで引きずってきた。重い。床板がぎいと鳴る。
「これで、開かない」
裏戸にも閂(かんぬき)をかける。
作業台に紙を一枚広げて、手順を書く。
「一、乳鉢に蜜蝋(みつろう)を量る。二、薬草油を三匙。三、乾かした花を細かく。四、すりながら、手ざわりと匂いを追う」
素材を左から順に並べる。乳鉢。乳棒。蜜蝋の塊。薬草油の瓶。乾かした花の小皿。
どれも、手を伸ばせばすぐ届く所に。
作業台の端に小さな火鉢を据えて、湯を張った小鍋をかける。乳鉢は、その湯の上。蜜蝋は、温めないと溶けない。
それから、包帯用のさらし布を一本、棚から出した。
片方の端を、作業台の脚の低い所に固く結ぶ。
もう片方を左の手首に巻いて、口と右手で蝶の形に結んだ。
腕を伸ばしてみる。
乳鉢までは届く。素材の小皿までも届く。
胸もとへ。
ぴん、と布が張った。乳鉢の手前で、手が止まる。
「……よし」
自分でも、少しおかしいと思う。
でも、あの夜の左手がどこへ向かったか。私は覚えている。
記録帳を開いた。
「夜の鐘から、半刻。量、あの夜と同じ。小匙に一杯」
小瓶から杯に量り分ける。
小瓶には、まだ半分残っている。
コルクを詰めた。
天秤の皿に、瓶ごと載せた。もう片方の皿に、分銅を一つずつ足していく。皿が、水平で止まった。
「見本の一本、作業台に置く。瓶ごと、町の小分銅で十二と半」
そのまま、記録帳に書きつけた。
小瓶を、作業台の端に立てた。卸しの箱からは、ずっと離して。
あの五本のあとから、そう決めている。
杯を持ち上げた。
唇の前で、手が止まった。
甘い匂いがする。
あの夜と同じ匂い。
戸の取っ手に手をかけた、あの夜の私。
「……箱、どけちゃうかも」
今度は、戸の前の箱をどけてしまうかもしれない。
閂を外してしまうかもしれない。
この格好のまま、裏庭へ。母屋の窓の下へ。
杯の中で、薬が小さく波立っている。
手が震えているのだと、少しして気づいた。
目を閉じた。
夢の中の礼拝堂が浮かぶ。燭台の火。倒れた長椅子。床に転がった、私の小瓶。
「……飲む」
杯をあおった。
「一。二。三……」
数えながら、乳鉢に蜜蝋を量っておく。
「……七十九。八十。……八十、いち」
頬が熱くなった。
羽根ペンで、記録帳に書き足す。
「八十で、頬」
乳棒を握った。
湯の上で温まった蜜蝋に、薬草油を三匙。
すりはじめる。
――香りが。
乳鉢の中から、薬草油の香りが立ちのぼってくる。
いつもと同じ油。いつもと同じ匂い。
なのに今夜は、匂いの一本一本が分かる。青くて苦い葉の匂い。その奥に、甘い根の匂い。いちばん底に、蜜蝋の日なたみたいな匂い。
「……ぜんぶ、聞こえる」
匂いなのに、そう言ってしまった。
乳棒を回す。
蜜蝋が、とろりと溶けていく。
その手ごたえが、乳棒を通して手のひらに伝わってくる。重さ。粘り。温度。
指先が、全部を拾う。
「は……ぁ」
息がもれた。
汗がこめかみから流れて、目にしみる。
乳棒を置いて、右手で前掛けの紐を引いた。革が床に落ちる。
シャツの襟もとを開ける。袖を口でくわえて、肩までたくし上げる。
汗が乳鉢に落ちそうで、手ぬぐいを額に巻きつけた。
乳棒を握り直す。乳鉢の中で、色が淡い黄から乳白へ移りはじめている。
「白く、なってきた……」
花を落とす。
香りが変わった。甘さが一段増える。
「……いい匂い」
乳棒を回す。
ざら、ざら、が、さら、さら、になる。
その変わり目が、手のひらから腕を上ってくる。
気持ちいい。
いつもの乳棒なのに。何百回も回してきたのに。
そのとき。
胸の底で、あの夜のものがふくらんだ。
知りたい。
この手ざわりを、乳棒ごしじゃなく、肌でじかに。
それから、もっと奥の、名前のないうずきまで。
左手が、乳鉢のふちを離れた。自分の体のほうへ。
ぐい、と手首が引かれた。
さらし布が、ぴんと張っている。
手首に布が食いこんで、ひりりと痛い。
「っ……」
左手は、乳鉢の手前で止まっていた。胸もとまでは、届かない。
痛みで、目の前が少しだけ澄んだ。
「……結んで、おいて、よかった。……えらい、私」
左手を乳鉢のふちへ戻す。
回す。量る。足す。回す。
軟膏が、乳白になった。
乳棒を持ち上げると、とろりと糸を引いて落ちる。
あれに、さわりたい。
左の指先を、乳鉢の中へ沈めた。
「……あ」
ぬるい。
指の股まで、爪のきわまで、絹みたいにまとわりつく。
引き上げると、白い糸が切れて落ちた。
これを、肌にのせたら。
「……だめ。塗るのは、明け方。手順に、そう書いた」
紙を見る。
一、二、三、四。
五は、ない。
「……五を、足す」
二度目は、もっと大きかった。
濡れた左手が、体のほうへ行こうとする。布が張る。届かない。
右手は乳棒を握っている。放したくない。この手ごたえを。
「……どっちも、ほしい」
乳棒の先を乳鉢に残したまま、右の手首を、左手のほうへ寄せた。
左の指を、のせる。
「……っ」
熱い肌に、ぬるいはずの軟膏が冷たい。
右手は、乳棒を回したまま。
回すたびに手首の筋が動いて、のせた白がのびる。
乳棒を回している手と、軟膏を塗られている手が、同じ手だった。
左の指が、右の腕の内側を上っていく。手首から、ひじのほうへ。
通ったあとに、白い線が一本、残る。
「ん……ぁ……」
ひじの手前で、布が張った。
あと指一本ぶん。届かない。
気がつくと、乳棒を放した右手が、結び目にかかっていた。
いつもの蝶の形。
自分で結んだ結び目は、自分がいちばんよく知っている。
「……ほどいちゃ、だめ」
だめ、と言った指が、端をつまんでいる。
「少し、だけ……ゆるめる、だけ……」
端を、すっと引いた。
しゅる、と布が鳴った。
ほどけた。
左手が、自由になった。
引かれていた力が、急になくなる。
腕がはね上がって、指先の軟膏が飛んだ。
ぴしゃ、と胸元に白いしずくがかかった。
「ひゃっ……」
冷たい。
はだけた襟もとの、少し下。熱い肌の上で、白いしずくがとろりと流れはじめる。
胸元から、軟膏の匂いが立ちのぼる。青い葉と、甘い根と、ひらいたばかりの花。
私が今夜つくったものが、私の肌の上にある。
しずくが流れていく。シャツの合わせ目のほうへ。
拭かなきゃ。
……ちがう。
肌にのったらどうなるか。それが、知りたかったんだ。
「あ……っ」
白い指が、しずくを追って、はだけたシャツの合わせ目へすべりこむ――
*
二本目のろうそくが、短くなっていた。
私は作業台の脚にもたれて、床に座りこんでいた。
シャツはもっとはだけて、髪は顔じゅうにかかっている。
息が、まだ整わない。
乳鉢の中の軟膏が、冷えて白く固まりかけていた。
ほどけたさらし布が、作業台の脚から床へだらりと垂れている。
「……負けた」
声にしたら、本当にそうなった。
膝を抱えて、額を押しつけた。
奥歯をかむ。床についた指が、板の目に爪を立てる。
右の腕の内側が、ひやりとした。
さっき自分でのばした白い線が、まだ溶け残っている。
そこから、しびれが細い糸みたいに広がっていく。
「……ここから、ここへ。抜けてく」
指でたどる。手首から、ひじの手前へ。
どこから来て、どこへ抜けていくのか。
今なら、分かる。
顔を上げた。手の甲で頬をぬぐった。
立ち上がる。膝が笑っている。
火鉢に炭を足し、乳鉢を湯の上に戻して、固まりかけた軟膏を温め直す。
さらし布を拾って、左の手首に巻き直した。
今度は、蝶の形にはしなかった。固結びを、二つ。
「……これは、私でもほどけない」
回す。量る。足す。回す。
小さな波が、何度も来た。
来るたびに布が張って、手首が痛んだ。痛むたびに、乳鉢をのぞいた。
それから、いちばん大きな波が来た。
右手が、結び目へ伸びた。
固結びに、爪を立てる。
動かない。
もう一度。
動かない。
「ん……っ……」
指が、結び目の上で止まった。
ほどけないと、分かっている。分かっていて、指が離れない。
乳鉢が目に入った。
温め直した軟膏が、ゆるんでいる。
さっきより、もっとなめらかになれる。
「……まだ、先が、ある」
指が、結び目から乳棒へ移った。
握る。回す。
熱が、腕を下りてくる。手のひらへ。乳棒の柄へ。乳鉢の底へ。
回す。
回す。
するり。
するり、の、その先――
何も、引っかからなくなった。
「……あ……」
乳棒が、底をなでるだけになった。
どこまでが私の熱で、どこからが乳鉢の熱なのか、もう分からない。
「……できる。……もっと、できる」
腕がしびれていた。指の感覚が、もうなかった。
汗があごから落ちて、作業台に小さな染みを作った。
窓の外が、白みはじめていた。
軟膏が、できた。
小刀で、手首の布を切った。
手首には、布の赤い跡がついていた。
指先に、軟膏をすくう。
左の人さし指の、古い火傷の跡に塗った。調合の火で、何年も前に焼いたところ。ふだんは何ともないのに、冷えると今でもじくじく痛む。
すうっと、冷たくなった。
それから、痛みが溶けるように消えていった。
「……痛く、ない」
小さく言った。
もう一度。
「痛く、ない」
私は乳鉢を抱えたまま、床に座りこんだ。
熱はまだ体の中にある。顔も首も、きっと真っ赤だ。
それなのに、笑っていた。
笑いながら、少し泣いていた。
*
少しだけ眠って、目を覚ましてから記録帳を開いた。
寝台に座ったまま、膝の上で。
誰もいないのに、左腕で頁を囲う。
「手首の布、蝶結び。二度目の波で、ほどいた。……自分で」
「負ける前に、自分でのばした軟膏の跡。右の手首から、ひじの手前へ。しびれの糸は、ここから、ここへ。……最後は、固結び二つ。熱は、乳鉢へ行った」
あの夜は、途中から声に出せなかった。
今朝は、最後まで声が止まらなかった。
一つも飛ばさず、正直に。
書き終えて、あの夜の頁と見くらべた。
同じ薬を飲んだのに、二つの頁はまるで別の人が書いたみたいだった。
できた傷薬を、小さな陶の器に詰める。
蓋をして、薄紙で包む。麻紐を蝶の形に結ぶ。紐の端は同じ長さにそろえる。
いつもの包み。
一つだけ、前掛けのポケットに入れた。いつでも手もとにあるように。
並べた包みを眺めた。
いつか自分の工房を持ったら。
こういう薬を、自分の名前で棚に並べたい。
「……エルナの、傷薬」
口の中で言ってみた。
言っただけで、誰もいない棚の前で、顔を伏せた。
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