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第4話

――エルナ

姉さんが卸しの包みを持っていった日から、二日たった。

そのあいだ、私は離れから出なかった。

姉さんも、離れに来なかった。

あの朝から、一度も。

いつもなら一日おきには顔を出して、作業台をのぞいて「すごいねえ」と言っていくのに。

忙しいのだろう、と思うことにした。

カウンターの傷薬が、そろそろ切れるころだ。

私は包みを胸に抱えて、離れから母屋へ向かった。

勝手口から厨房へ入る。

鍋の湯気。焼いた脂の匂い。食堂のほうから、酒と煙と人の声が押し寄せてくる。

頭が少しくらくらする。

厨房と食堂のあいだの戸口。その陰に立って、包みを持ったまま足を止めた。

ここまでなら、平気。

ここから先は、人の海だ。

「――芝居小屋の子が言うにはさ、あの踊り子、真っ青な顔で帰ってきたって」

「助祭さまに、何かされたんだろ」

「やめなよ、あの清い助祭さまが」

「だから薬だって。堂守のじいさんが見たときにはさ、助祭さまの顔が火みたいに真っ赤で、汗だくで、襟がはだけてたって。で、司祭さまが持ち物を調べたら、小瓶が出てきたんだと」

「悪魔の薬だよ。飲めば誰にでも欲情するっていう」

食堂の真ん中に、姉さんがいた。

青い給仕服に白い前掛け。盆にジョッキを四つ載せて、客と客のあいだをすいすい歩いていく。

いつもの看板娘の笑顔。

けれど、眉だけは客と一緒にひそめている。

「ひどい話ね」

姉さんがジョッキを置きながら言った。

「それで、その踊り子さんは? 助祭さまに何をされたの?」

「いやあ、カルラちゃん、そこまではさ」

「あら、気になるじゃない。一座の子は何て?」

姉さんは盆を胸に抱えて、客の顔をのぞきこむ。

「最初は手を握られて、それから肩だの背中だの……練習だとか言われてさ」

「練習」

「で、膝を……」

「膝を」

姉さんは、くり返しながら聞いている。

頬が少し赤い。

食堂が暑いからだろう。

甘くて、舌の奥が少ししびれて。

百まで数えたら、頬が熱くなって。

耳が。首が。

包みの紙が、かさりと鳴った。

指先から、血の気が引いていく。

それなのに、耳だけが熱い。

あの晩。作業台に並べた五本。

同じ紙。同じ紐。同じ結び目。

姉さんは、いつもどおり夜の店に届けた。夜の店は、いつもどおり誰かに売った。

「……私の、だ」

食堂の笑い声が、それを呑みこんだ。

清い助祭さまが、懺悔に来た娘に手を伸ばした。

私の薬は、誰にでもそうさせたりしない。

もとから、ないものは。

では、助祭さまの中には、もとから。

名乗り出なきゃ。

私が作りました、と。悪魔の薬じゃない、と。

そう言えば、町じゅうが私を見る。

悪魔の薬を作った娘。

そんな薬を作って、自分で飲んだ娘。

戸の前に立って、外へ出ようとした、あの夜の私を。

息がうまく吸えない。

戸口の木枠に肩を寄せた。

「おーい、カルラちゃん! 今日もかわいいねえ」

窓際の席から、赤ら顔の若い客が手を振った。

「このあと、川べりで一杯どう? いい店知ってんだ」

姉さんは振り返って、にっこり笑った。

「あら、ありがとう。でも川べりのお酒より、うちの麦酒のほうがおいしいわよ。もう一杯、どう?」

「……もらう」

周りの客がどっと笑った。

「ふられた、ふられた」

「カルラちゃんを口説くなら、宿ごと買う気でいけよ」

若い客は頭をかいて、それでも楽しそうに新しい麦酒を受け取った。

「カルラちゃん、傷薬ひとつおくれ」

カウンターのほうから声がした。鍛冶場で火傷の絶えない、外町の職人だ。

「はあい、ちょっと待ってね」

姉さんは盆を置いて、カウンターの内側に回った。下の棚に手を伸ばす。空っぽだ。

カウンターの端は、厨房の戸口のすぐそばにある。

私は戸口の陰から腕だけ伸ばして、包みをそっとカウンターの端に置いた。

姉さんの手がそれに触れる。

一瞬、姉さんがこちらを見た。

目が合った。

姉さんはすぐに目をそらして、包みを取った。

いつもなら、ほんの少し指を揺らして「ありがとう」の合図をくれるのに。

「はい、どうぞ」

「いやあ、カルラちゃんの傷薬は、よく効くねえ。うちのかみさんも、これじゃなきゃだめだって」

「ふふ、ありがとう。おかみさんにもよろしくね」

姉さんは慣れた笑顔で銅貨を受け取った。

カルラちゃんの傷薬。

ずっと、そういうことになっている。

同じ手で作った。

同じ紙で包んだ。

片方は姉さんの名前で褒められて、片方は悪魔の薬と呼ばれている。

私は戸口の陰で、黙っていた。

「カルラ、いる?」

背中のほうで、明るい声がした。

勝手口から、パン屋のペトラさんが籠を抱えて入ってくる。私に気づくと「あら、エルナちゃん」とだけ言って、すぐに食堂のほうへ首を伸ばした。

私は厨房の壁ぎわまで下がった。

姉さんが戸口まで出てくる。

「パン、置いとくね。それと、これ」

籠の底から、表紙に何も書いていない小さな本が出てきた。

姉さんがそれをさっと受け取り、前掛けの下に滑りこませる。

「続き、早く返してね。次、待ってる子がいるんだから」

「分かってる。……ねえ、ペトラ」

姉さんが声を落とした。

「前の巻の、あの場面。娘が悪い領主の頬を打つところ。何度読んでも好き」

「あんた、いつもそこだよね」

ペトラさんがくすくす笑った。

「ここだけの話ね。次の巻は、もっとすごいらしいよ」

姉さんの頬が、また少し赤くなった。

姉さんは一度も、壁ぎわの私を見なかった。

食堂の隅のテーブルで、二人連れの年寄りが話している。

「川べりの旦那が、またスープを配ってたよ。橋のたもとで。ありがたいねえ」

「何がありがたいもんか」

もう一人が麦酒の泡を吹いた。

「あの金貸しに借りたら最後だよ。骨までしゃぶられる」

「そうかねえ。うちの孫は、冬にあのスープで助かったんだがね」

「だから怖いんだよ。助けてもらった者は、何も言えなくなる」

金貸し。

川べりのことは、私はほとんど知らない。姉さんが香油を届けに行く所。それだけだ。

姉さんが食堂へ戻っていく。

笑っている。

私は空になった両手を、前掛けの下で握り合わせた。冷たい。

言わなきゃ。

姉さん、あの晩の小瓶は。

私は姉さんの背中を見た。

客に囲まれて、笑っている背中。

口を開いた。

声は出なかった。

前掛けの紐をきつく結び直して、私は勝手口へ戻った。

離れまで二十歩。

いつもより、ずっと遠かった。

――カルラ

最後の客を送り出すと、食堂は急に広くなる。

椅子をテーブルに上げて、床を掃いて、ジョッキを洗って。

カウンターの灯りだけを残して、私は布巾でテーブルを拭いていく。

「……練習、だって」

口に出してから、自分で驚いた。一人なのに。

聞いた話が、頭の中で勝手に並び直されていく。

燭台の火。夜の礼拝堂。誰もいない長椅子。

本で読んだどの場面より、生々しい。

だって、本当にあったことなんだもの。

あの清い助祭さまでさえ。

説教のときは、あんなに澄んだ声で話す人でさえ。

建前の下に、そういうものを隠していた。

「じゃあ、みんな……?」

みんな、笑顔の下に。

布巾を持つ手が止まった。

頬が熱い。首すじまで熱い。

前掛けの下で、さっき受け取った本の角が太ももに当たっている。

「手を握られて。肩だの、背中だの」

客の言ったとおりに、小さくなぞってみる。

「それから……膝を」

テーブルのへりに、腰をあずけた。

気がついたら、布巾を置いた手が、前掛けの上から自分の膝に触れていた。

膝の丸みを、手のひらで、包むみたいに。

逃げた膝を、手のひらが追ったんだって。

前掛けの上で、手が、少しだけ上へすべった。

練習です、と言われたら。

私は、逃げるだろうか。

勝手口の戸が、かたん、と鳴った。

「――っ」

手を離すのが、一拍、遅れた。それから、心臓が跳ねた。

「……エルナ?」

返事はない。

厨房をのぞくと、勝手口の戸が細く開いていた。

戸の隙間。

あの晩、私はあっち側にいた。

今は、こっち側だ。

もし今、誰かがあそこから見ていたら。

そう思ったとたん、首すじが、かっと熱くなった。

……なんで。

閉めに行く。取っ手に手をかけて、外をのぞくのが、少し怖かった。

裏庭は暗くて、誰もいなかった。夜風が、井戸の滑車をかすかに鳴らしているだけ。

「……風、か」

笑ってみた。うまく笑えなかった。

戸を閉めて、食堂に戻る。

「何してんの、私」

怖い思いをした踊り子さんがいるのに。

それから、それから、って、看板娘の顔のまま聞いていた。

布巾をぎゅっと絞った。水がしたたって、床に小さな染みができた。

さっき、厨房の戸口であの子と目が合った。

前髪の陰から、何か言いたそうに見ていた。

そらしたのは、私のほうだ。

あの晩から、あの子の顔をまっすぐ見られない。

目を合わせたら、戸の隙間の顔が重なってしまう。

うるんだ目と、少し開いた唇。

媚薬の騒ぎ、と聞いたとき。

一瞬だけ、あの子の卸しの包みが頭に浮かんだ。

香油と、火照り薬。夜の店に届けている、あの小瓶。

ううん、と首を振る。

うちのは、体温が少し上がるだけ。ちょっと火照って、ちょっと楽しくなるだけ。夜の店の女主人だって、そう言っていた。

あんなことになる薬じゃない。

それに、火照り薬を作っているのはあの子だけじゃない。夜の店は、あちこちから仕入れている。

「大丈夫、大丈夫」

声に出したら、少しだけ落ち着いた。

カウンターの内側に回って、売り物の傷薬を棚に並べ直す。

今日、あの子が置いていった包み。

薄い紙。麻紐。きれいな蝶の結び目。紐の端は、どれも同じ長さにそろっている。

灯りの下で、蝶が五つ、行儀よく並んでいた。

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