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第3話

――マティアス

夜の礼拝堂は、昼よりも神に近い。

私はずっとそう信じてきた。

鐘楼の影が広場に長く伸びている。舞台のはねた川べりのざわめきも、ここまでは届かない。

燭台の火を一本ずつ確かめる。祭壇の布のしわを指で伸ばす。長椅子の背に積もった埃を拭う。

誰に見られるわけでもない。それでも、清い場所は清くしておきたい。

「マティアス。今夜も来るのだろう、あの娘が」

もう一人の助祭が、奥の部屋の戸口から顔を出した。

「ええ。懺悔の夜ですから」

「ご苦労なことだ。喉が渇くだろう」

彼は銀の杯を長椅子のわきの小机に置いた。葡萄酒の甘い香りがする。

「お気遣い、ありがとうございます」

「なに。たまには、な」

彼は薄く笑って奥へ消えた。

珍しいこともあるものだ。あの人が私に何かをくれたことは、これまで一度もなかった。

扉がきしんだ。

足音はしなかった。

灰色の外套を頭からかぶった小柄な影が、すべるように入ってくる。床の上を歩くというより、床の上で次の拍を待っているような足どり。

イルゼ。川べりの芝居小屋の踊り子。

頭巾を下ろすと、化粧を落とした顔が現れる。舞台では誰より大胆だと聞くのに、素顔は驚くほどあどけない。

かすかに、白粉と汗の匂いがした。

「今夜も、来てしまいました」

「よく来ましたね。座りなさい」

彼女は長椅子の端に浅く腰かけた。背すじだけは舞台の上のようにまっすぐだ。私はその向かいに座る。

燭台の火が二人のあいだで揺れた。

「話してごらんなさい」

イルゼは膝の上で両手を握りしめた。

「……今夜も、お客さんが」

「ええ」

「踊っているときに、足首をつかもうとした人がいて。終わったあとも、腕に、腰に……触ろうとしてくる人が」

彼女の指の関節が白くなる。

「私、踊りを見てほしいだけなんです。それなのに……お金を払って来てくださる方を、嫌だと思ってしまう。気持ち悪いって。そう思う自分が、罪深くて」

私は杯を取って口をつけた。

甘い。少し、舌の奥がしびれた。上等な葡萄酒なのだろう。

「あなたは真面目すぎる。嫌だと感じるのは、罪ではありませんよ」

「でも……」

「主はご覧になっています。あなたの体ではなく、あなたの踊りを」

イルゼが顔を上げた。

ほんの少し、泣きそうな顔で笑った。

その顔を見て、私は杯を飲み干した。

頬が熱い。

燭台の火のせいだと思った。

耳。首すじ。法衣の高い襟の内側が、汗で湿っていく。

心臓が速い。喉の奥で鳴っている。

頭の芯がふわりと浮いて、なぜだか楽しい。

酔ったのだろうか。杯にたった一杯で。

燭台の火が、さっきより明るい。

白粉の匂いが、さっきより近い。

世界の輪郭が、一本ずつくっきりしていく。

「イルゼ」

口が、勝手に動いた。

「その踊りを、私にも見せてくれませんか」

「え……ここで、ですか」

「ここで。……今夜は、私しか見ていません」

イルゼは目を丸くした。

それから、うれしそうに、少しだけ迷った。

「……少しだけ、なら」

彼女は立ち上がって、外套を長椅子に落とした。

下は、着古した灰色の服だった。舞台の衣装ではない。

長椅子と長椅子のあいだの、細い通路に立つ。

息を一つ吸って、両腕を上げた。

足音はしない。

床の上で、拍だけが鳴っているような気がした。

腕が燭台の火をなでるように回る。灰色の裾がふわりと広がる。

くるりと回ったとき、細い足首がのぞいた。

踊りを見なければ。

踊りを。

それなのに、目は足首に落ちた。

回るたびにしなる腰に。弾む息にあわせて上下する胸に。汗の光る首すじに。上がった腕の、袖の奥の白さに。

燭台の火が、彼女の体の線をなぞっていく。

私の目も、なぞっていく。

イルゼは最後に深く膝を折って、止まった。

肩で息をしている。頬が上気している。

舞台の上でしか見せない顔で、彼女は笑った。

「……見て、くださいましたか」

「ええ」

私は言った。

「見ていましたよ」

嘘ではない。

見ていた。踊りでないものを、全部。

イルゼは照れたように外套を拾い、肩に掛け直して、もとの場所に座った。

さっきより、私に近い。

踊りの熱が、まだ彼女の体から立ちのぼっている。白粉と汗の匂いが、燭台の煙にまじって流れてくる。

胸の底から、何かがせり上がってきた。

知っている。

ずっと前から、ここにあったものだ。

燭台の火を確かめるたびに。祭壇の布を整えるたびに。指先の奥で、名前をつけずに眠らせてきたもの。

名前をつけたら、もう戻れなくなるもの。

違う。

私は聖職者だ。この娘は、救いを求めて来たのだ。

「……イルゼ」

自分の声が、ひどく低く聞こえた。

「あれほどの踊りが、客の手で汚されるのは惜しい。嫌だという気持ちが湧かないように、慣らしてみましょうか」

「慣らす、ですか」

「ええ。人に触れられることに。私が、練習の相手になります」

口にしたとたん、それは正しい言葉のように聞こえた。

導きの言葉。救いの言葉。

そういう形をしていた。

イルゼは少し迷ってから、こくりとうなずいた。

「……助祭さまが、そうおっしゃるなら」

私は彼女の手を取った。

冷たい手だった。踊りのあとの汗が冷えたのだろう。

両手で包む。指のあいだに、私の指を一本ずつ入れていく。

「力を抜いて。これは練習です」

握りしめていた指が、少しずつ、ほどけていく。

ほどけるまで、私は待った。

親指で、手首の内側をなでる。

薄い皮膚の下を、青い筋が走っている。

そこから袖の中へ。肘の内側の、いちばんやわらかい所まで。

イルゼの肩が小さくはねた。

「あの……これで、慣れるんでしょうか」

「最初は誰でも、こわばるものです。ほら、もう少し」

彼女は自分の腕を見ていた。

袖の中へ消えていく私の指を、じっと。

引っこめはしなかった。

肩に手を置く。外套越しに、細い骨の形が分かる。

「客は、外套の上から触れますか」

「……いいえ。舞台の衣装の、上から」

「では、これも」

外套の合わせに指をかける。

イルゼの手が、外套の前を、胸の上で握った。

一度だけ、私の顔を見た。

握った指を、私は一本ずつほどいた。練習ですから、と言いながら。

灰色の外套が背中をすべり、長椅子に落ちた。

着古した服が、汗で背中に張りついている。

背骨の線が、布の上に浮いていた。

さっき、あんなにしなっていた背中だ。

首の付け根から、指を一本、下ろしていく。

骨を一つ。

また一つ。

イルゼの背すじが、まっすぐに伸びた。舞台の上のように。

腰のくびれで、指が止まる。手のひらを開いて、そこに置いた。

回るたびにひねられていた腰だ。まだ、踊りの熱がこもっている。

「……助祭さま。お客さんも、こうやって……」

声が細くなる。

「あの人たちと、同じ所を……」

「同じではありません」

すぐに答えていた。

「あの者たちは、あなたを欲しがって触れる。私は、あなたを救うために触れている」

なんと正しい理屈だろう。

言いながら、自分の声に聞きほれていた。

うなじの後れ毛に、指が触れた。

「あっ」

声が出た。

肩がすくんで、首が縮む。

体が、はじめての感覚に驚いている。ほどけはじめている。

耳の後ろ。首すじ。

指の下で、脈が速い。

とく、とく、とく。

踊ったばかりの体の脈だ。

そう知っているのに、私には、答えに聞こえた。

耳たぶに、指先が触れた。

小さな、冷たい耳だった。舞台で飾りを下げるための穴が、一つ空いている。

親指と人差し指で、そっとはさむ。

イルゼの息が、浅くなった。

手のひらを、腰へ戻す。

さっきより、少しだけ前へ。

「イルゼ。客の手は、こんなふうに、ゆっくりですか」

答えはなかった。

唇を結んで、燭台の火を見ている。まばたきを忘れたように。

膝の上の両手が、服をきつく握りしめている。

黙っている。

受け入れたのだ。

私の体も熱かった。

法衣の高い襟が、汗で首に張りついている。自分の息が、耳にうるさい。

葡萄酒のせいだ。たった一杯の。

そう思えば、何でも許される気がした。

手が膝へ下りる。

膝の丸みを、布ごしに、手のひらで包む。

「やっ……」

イルゼの膝が、横へ逃げた。長椅子がかたりと鳴る。

逃げた膝を、手のひらが追った。

くすぐったいのだろう。

人に慣れていない体は、みなそうだ。

「動かないで。逃げれば、いつまでも慣れません」

「待って、ください」

イルゼの手が、私の手首に触れた。

「ここは……練習、なんですか」

手首に置かれた彼女の手を、私はそっと外した。

外して、彼女の膝の上に戻してやった。

導く者の手は、迷ってはいけない。

「嫌だと感じるのは、慣れていないからです。逃げずにいられたら、あなたはもう、客の手を恐れずに済む。踊りだけを見せられる。あなたの望みでしょう?」

イルゼは答えなかった。

受け入れたのだ。

膝に置いた私の手が、布ごしに、少しだけ上へすべった。

「そこは……!」

イルゼの両手が、私の手の甲を強く押さえた。

爪が食いこんだ。

握られている。

離さないで、と。

「助祭さま、そこは、お客さんだって……!」

客にも許さぬ所を、私には。

胸の底が、熱く震えた。

この娘は、私だけに。

ここは清い場所なのに。

清い場所だから。

「大丈夫。主はご覧になっています」

彼女の顔が近い。

燭台の火に照らされた目が、濡れて光っている。

私は、その顔をもっと近くで――

どん、と胸を突かれた。

長椅子が倒れる音が礼拝堂に響いた。

私は床に尻をついていた。

イルゼが立っている。服の肩がずれて、髪が乱れている。肩で息をしている。

扉へ走りかけて、彼女は一度だけ振り返った。

燭台の火に照らされた顔は、舞台の上の顔だった。

誰にも触らせない女の顔。

床に落ちた外套をひっつかんで、彼女は扉を押し開けた。

夜気が流れこむ。

その向こうに、カンテラの灯りが揺れていた。

「誰だ! こんな夜更けに……」

夜の見回りの、堂守(どうもり)の声。

外套を胸に抱えた娘が、その灯りの横を走り抜けていく。

カンテラがゆっくりとこちらを向いた。

灯りが、倒れた長椅子をなめ、床に座りこんだ私の膝を照らした。

顔が熱い。襟が、はだけていた。

「……マティアス助祭?」

   *

夜が明けても、熱は引かなかった。

私は助祭の部屋の寝台に座らされていた。

司祭さまが黙って私を見ている。その後ろで、他の助祭たちが小声で何かを言い合っている。

「マティアス。何を飲んだ」

「何も……いつもの葡萄酒だけです」

「では、これは何だ」

司祭さまが机の上に置いたのは、親指ほどの小さな空の瓶と、薄い紙の包みだった。

麻紐が、きれいな蝶の形に結ばれている。

「おまえの法衣の物入れから出てきた」

「知りません。そんなものは、見たこともありません」

本当に知らなかった。

けれど。

昨夜のことは、全部覚えていた。

逃げた膝も。すくんだ肩も。手の甲に残った、爪の痕も。

まばたきを忘れて、燭台の火だけを見ていた目も。

「……見て、くださいましたか」と笑った顔も。

あれは、ほどけていたのではなかった。

嫌がって、逃げていたのだ。

「待って」も、「そこは」も、ちゃんと聞こえていたのに。

手を伸ばしたのは、私だ。

薬がどうであれ、それは私の手だった。

「町の薬師を呼びました」

戸口で声がした。

白髪を短く刈った、痩せた老人が入ってくる。焦げ茶の長衣。腰に小さな天秤。

薬師のオットー。町でいちばん信用されている人だ。

彼は黙って私の脈をとり、目の下をめくり、首すじの汗を指で確かめた。

「熱冷ましを出しましょう。今夜には引く。……飲んだ量しだいだがな」

それから、机の上の包みに目を落とした。

オットーは包みを手に取った。

裏返す。結び目を指でなぞる。紐の端をじっと見ている。

長いあいだ、そうしていた。

眉間のしわが深くなった。

「効きすぎる薬は、毒と同じだ」

誰に言ったのでもない、低い声だった。

オットーは包みを机に戻し、それきり何も言わなかった。

司祭さまが重い息を吐いた。

「誰かが、我らの助祭に悪魔の薬を盛ったのだ」

悪魔の薬。

私は自分の手を見た。

違う、と言いたかった。

悪魔は、薬の中にいたのではない。

けれど、その言葉は喉の奥で止まった。

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