第2話
厨房の調理台にお皿を置くと、母さんが洗い物の手を止めた。
「あら、食べなかったの?」
「……寝てた」
嘘が、先に出た。
「あらまあ、疲れてるのね」
母さんは私の顔を見た。
「あんた、顔赤いわよ」
「走ったから」
「そこまでで?」
母さんは笑って、また鍋を洗いはじめた。
私も笑った。笑えた、と思う。
階段を上がった。
自分の部屋の戸を閉めて、背中を預ける。
心臓がうるさい。
「大丈夫、大丈夫」
声に出してみた。心臓は、少しも静まらなかった。
窓は裏庭に面している。窓辺に寄ると、離れの灯りが見えた。
まだ点いている。
あの灯りの下に、さっきのあの子がいる。
「……見えて、ないよね」
声に出したら、少しだけ息がつけた。
あの目は、私を通りこしていた。
見つかったんじゃない。
私が、黙って見てただけだ。
寝間着に着替える。
寝台の下に手を入れて、本を引っぱり出す。ペトラから借りている、表紙に何も書いていない小さな本。
毛布にもぐって、続きの頁を開く。
少しだけ。
寝る前に、少し読むだけ。
文字を追う。
……追えない。
同じ行を三回読んで、三回とも頭に入らなかった。
本の中の娘の頬が、さっきのエルナの頬になる。本の中の娘の髪が、ほどけたエルナの髪になる。
「……読めないや」
本を胸に伏せて、窓のほうへ顔を向けた。
カーテンの隙間に、離れの灯りが揺れている。
あそこで、今も。
手が、首すじへ伸びた。
指でなぞる。さっきエルナがしていたみたいに。
私の指は、あの子ほど冷たくない。
同じ所をなぞっても、同じにはならない。
それでも、耳の後ろの、髪の生えぎわのところをかすめたとき、背中がぴくりとした。
「……っ」
もう一度、そこをなぞる。
ゆっくり。
産毛が、指の腹に逆らって立つ。
ぞくりとしたのは、指の下じゃなかった。
頭の中で、戸の隙間が開いたときだった。
寝間着の襟もとのリボンに、指がかかった。
引く。
結び目が、するりとほどけた。
襟もとがゆるんで、夜気が鎖骨のくぼみに溜まる。
――娘は、灯りの下で。
違う、あの子は。
あの子は、戸の隙間で。
「……あの子、あんな顔、するんだ」
あの子の指の、その先を、私の手が勝手に追う。
寝間着の上から、太ももに手を置く。
布越しに、自分の体温が伝わってくる。
手のひらを、内側へすべらせる。
布がこすれる、かすかな音。
寝台が、きし、と鳴った。
階段で、足音がした。
息を止める。
手を止める。
上がってくる。母さんだ。店じまいを終えたのだ。
足音は、隣の部屋の前を通りすぎて、私の部屋の前で止まった。
「……カルラ?」
戸の向こうで、母さんの声がした。
「灯り、まだ点いてるわよ。明日の卸し、朝いちばんでお願いね」
「う、うん。……本、読んでた」
「早く寝なさいよ。明日も早いんだから」
足音が戻っていって、隣の部屋の戸が閉まった。
壁一枚向こうで、毛布のこすれる音がして、それきり静かになった。
明日の朝、あの戸の前に、また立つ。
「……こんなの、だめでしょ、私」
止めた手が、また動いた。
「ん……」
自分の声に驚いて、毛布を口もとまで引き上げる。
毛布の内側に、自分の息がこもる。熱い。
いつもなら、本の中の場面に入っていける。
今夜は入れない。
頁がめくれるたびに、戸の隙間が開く。
赤い頬。うるんだ目。白い指が、腕の上を。
見ないで。
あの子の声が、耳の奥で鳴る。
私に言ったんじゃない。分かってる。
それでも私は、目を閉じても、まだ見ている。
カーテンの隙間を見た。
離れの灯りが、消えていた。
私の手も、止まった。
暗くなった窓を、しばらく見ていた。
毛布の中で、ほどけたリボンの端が、鎖骨の上に冷たく落ちている。
あの子も、夜に一人きりで、こういうものを抱えていたんだ。
人の目から隠れて、離れにこもって、誰にも言わずに。
私と同じだ。
本を閉じようとして、指が頁の上で止まった。
しばらく、そのまま動けなかった。
「……明日、どんな顔すればいいの」
本を寝台の下に押しこんで、灯りを吹き消した。
リボンは、結び直さなかった。
――エルナ
鳥の声で目が覚めた。
高い窓から差しこむ光が、もう白い。森の匂いのする風が、どこかから入ってくる。
朝の鐘は、とっくに鳴り終わったらしい。
「……うそ。寝過ごした」
起き上がろうとして、シャツのボタンが外れたままなのに気づいた。
髪が背中に広がっている。
思い出した。
全部。
戸に手をかけたことも。自分を抱きしめたことも。そのあと、自分の指がどこへ向かったかも。
口からもれた声も。一つ残らず。
「……う、ぅ……」
枕に顔を押しつけて、声にならない声を上げた。
薬は一晩で抜けるように作った。これは薬の熱じゃない。
しばらくそうしていた。
それから、枕から顔を上げた。
私は錬金術師だ。
試したことは書く。
ボタンを留める。髪を雑にまとめる。前髪を目の上まで下ろす。
寝台の枕もとには、いつも記録帳を置いている。昨夜、作業台から持ってきた覚えはないのに、手を伸ばすとそこにあった。残り火の明かりの中を、これだけは抱えて歩いたらしい。
寝台に座ったまま、膝の上で開く。
昨夜の頁。夜の鐘から四半刻。量、小匙に一杯。百で、頬。脈、速い。
その下に、続きを書いていく。
「首すじ。しびれ。脈……」
そこから先は、声に出せなかった。
誰もいないのに、左腕で頁を囲った。
耳が熱い。それでもペンは止めなかった。一つも飛ばさず、正直に。
頁が一枚、二枚と埋まっていく。
最後に、結果の欄。
「完成。」
そう書いて、ペンが止まった。
インクのしずくがペン先でふくらむ。
「……たぶん」
小さく、書き足した。
「どうしていつも、こうなんだろ」
記録帳を閉じて胸に抱え、工房へ出た。
床に前掛けが落ちている。拾い上げて紐を結ぶ。
表の戸が少し開いていた。掛け金が外れたままだ。風はここから入っていたらしい。
戸を閉めて、振り返った。
作業台の端が空っぽだった。
卸しの包みがない。
そのとなりに並べた、五本の小瓶も。
「……ない」
指先が冷たくなった。
いつもの冷たさとは違う。
作業台の下をのぞく。薬棚を端から見る。乾燥棚の裏。床。
ない。
どこにもない。
作業台に戻って、ようやくインク壺の下の紙きれに気づいた。
姉さんの丸い字。
――卸し、持っていくね。まだ寝てるみたいだったから、起こさなかったよ。カルラ
いつもより字が小さい。
いつもなら紙のすみに描いてある花の絵が、今日はない。
どうしてだろう、と一瞬思った。
けれどそれより先に、紙きれを持つ手が震えだした。
明日の分、これね。朝のうちに取りに来るから。
夕方の姉さんの声が、よみがえった。
同じ紙。同じ紐。同じ結び目。
並べたら、私にだって分からなかった。
姉さんに分かるはずがない。
高い窓の光の角度で、時刻が分かる。
姉さんが出たのは、朝の鐘のころだろう。川べりまでは、歩いて四半刻もかからない。
今ごろはもう、橋を渡って、とっくに届け終えている。
あの橋の向こうへ、私は行けない。
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