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第1話

――エルナ

あとひと匙で、何年も追いかけてきた媚薬ができる。

森が鳴っている。

裏戸の向こうで夜の風が木々をなでていく。母屋の食堂の笑い声はここまで届かない。聞こえるのは炉の火がはぜる音と、私の息だけ。

作業台の上でフラスコが小さく揺れている。

中身は薄い琥珀色。

私はシャツの袖をひじまでまくり直した。生成りのだぼだぼのシャツは何度まくってもずり落ちてくる。薬品のしみだらけの革の前掛け。頭の上で雑にまとめた髪から、ほつれた毛が頬にかかる。前髪が目にかかって邪魔だ。

払わない。払えば、そのぶん世界がよく見える。よく見えるのは少し怖い。

最後のひと匙を、匙の上で量り直した。

手が止まる。

夕方の声が、まだ耳に残っている。

   *

夕方、姉さんは戸を叩くより先に声をかけてきた。いつもそうだ。

「エルナ、入るよ」

「あ、」

私はとっさに、作業台の前へ体をずらした。フラスコが、背中の陰に隠れる。

「また煙出てる。裏庭まで甘い匂い」

戸口から体を半分だけ入れて、姉さんは鼻をひくつかせた。青い給仕服に白い前掛け。夕方の仕込みの途中で抜けてきたのだろう。袖に粉がついている。

「……煙じゃない。湯気」

「どっちでもいいけど」

姉さんは笑いながら、作業台の端をのぞきこんだ。

並べておいた卸しの包み。

「明日の分、これね。朝のうちに取りに来るから」

「……うん」

姉さんの目が、棚の瓶から乾燥棚の薬草へ、ぐるりと回った。

「すごいねえ。あんた、いっつも何か作ってる」

いつもの言い方。いつもの顔。

――できたら、いちばんに見せる。

喉もとまで来た言葉は、そこで止まった。

「……できたら」

「ん?」

「……なんでもない」

「変な子」

姉さんは戸口で振り返った。

「夕ごはん、ちゃんと食べに来なよ」

「……あとで」

「あとで、って言って来たためし、ないじゃない」

戸が閉まって、軽い足音が母屋へ遠ざかっていった。

   *

最後のひと匙を落とす。

ガラス棒で三度、ゆっくりかき回す。

色が変わった。

琥珀色の底から夕焼けのような赤がほどけて、ゆっくり広がっていく。

記録帳に書いてきたとおりの色。

何年も書き直してきた、いちばん後ろの頁のとおりの色。

「……できた」

声に出したら喉が震えた。

「できた。……できた」

胸がふわりと浮く。誰かに言いたい。見て、と言いたい。

でもここには誰もいない。

師匠は旅の空の下だ。次にいつ宿に寄るのか、聞いても「さあな」と笑うだけだろう。

フラスコを灯りに透かした。

きれいだった。

いつものくせで手が勝手に動く。

飲む分を杯に量り分け、残りを小瓶に注ぐ。夜の店に卸している火照り薬(ほてりぐすり)と同じ、親指ほどの小瓶。五本。

コルクを詰めて蝋で封をする。薄紙で包み、麻紐を結ぶ。蝶の形に。紐の端は同じ長さにそろえる。

卸しの包みのとなりに、五本を並べた。

「同じ紙。同じ紐。同じ結び目」

並べて、ふふ、と笑った。

「……どれがどれだか、分かんない」

分からないくらい、きれいに包めた。

記録帳を開いて、羽根ペンをインクにひたす。

「夜の鐘から、四半刻(しはんとき)。量、小匙に一杯」

口に出しながら書く。字はいつもどおり、まっすぐ。

杯を口に運んだ。

「……甘い」

舌の奥が少ししびれる。

飲み干した。

何も起きない。

椅子に座って、膝の上で手を組む。手が冷たい。私の手は炉のそばにいても冷たい。

「……九十八。九十九。百」

頬が熱くなった。

羽根ペンを取る。

「百で、頬。……それから、耳」

熱が首へ広がっていく。心臓の音がだんだん速くなる。とく、とく、とく。

「脈、速い。いつもより、ずっと」

汗がこめかみから首すじへ、つうっと伝っていく。頭の芯がふわふわする。

常連さんたちがお酒を飲んで赤い顔で笑っているのは、こんな感じなのかもしれない。

「気分は、悪くない。……楽しい、かも」

自分で言って、くすりと笑ってしまった。

理由もないのに、口もとがゆるむ。

「……暑い」

前掛けの紐をほどいた。重い革がどさりと床に落ちる。

まだ足りない。

シャツの襟もとのボタンを外す。一つ。二つ。汗で貼りつく袖を、肩の近くまでたくし上げる。

夜気が肌に触れて気持ちいい。鎖骨のあたりまで赤く染まっているのが、見なくても分かる。

まとめていた髪がほどけて背中に落ちた。

こんな格好、誰にも見せられない。

そう思ったとたん、胸の底で何かがふくらんだ。

見てほしい。

「……え?」

見てほしい。この私を。前髪の陰じゃない。だぼだぼのシャツの中じゃない。この私を。

気がつくと立ち上がっていた。

足が戸へ向かう。裏庭に面した表の戸。母屋の勝手口を向いている戸。

手が取っ手にかかった。

掛け金が、かちりと外れる。

戸が指一本ぶんだけ開いた。夜の冷たい空気が、するりと入ってくる。

この戸の向こうへ出たら――

「だめ」

声に出した。出さないと、足が止まらなかった。

「だめ、だめ……」

背中で戸を押し戻す。古い物置の戸は、ことんとはね返って、また少し開いた。

直す余裕はなかった。

二歩、作業台のほうへよろけて、振り返る。

自分の体を、両腕で抱きしめた。

強く。

「はっ……は、ぁ……」

抱きしめた腕に、自分の手のひらが触れている。

冷たい。

火照った肌に、冷たい指。

その差が――

「……きもち、いい」

言ってから、はっとした。今のは、記録じゃない。

背中をぞくりと何かが走った。

知らない。こんな感じは知らない。

手のひらを二の腕から肩へすべらせる。冷たさが熱い肌の上を通っていく。通ったあとが、じんとしびれる。

「こんなに、なるなんて……」

何年も書き直してきた頁の、どこにも書いていない。

腕でこれなら。

ほかの所だったら、どうなるんだろう。

知りたい。

確かめるだけ。

私は錬金術師だから。効き目を、確かめるだけ。

指先で首すじをなぞった。

「……っ」

喉が勝手に鳴る。

耳の下の、脈の打っているところで指が止まった。

とく、とく、とく。

冷たい指の腹の下で、熱い血が跳ねている。自分の心臓の音を、指で聞いている。

――記録。

首すじ。冷たさ。しびれ。脈が、

「脈……数え、なきゃ……いち、に……さん……」

もう一度。今度はゆっくり。

「あ……」

数の代わりに、知らない声がもれた。自分の声だと思えなかった。

数えられない。

鎖骨のくぼみに、指先が沈む。

汗が溜まっている。指でなぞると、ぬるりとすべる。

指は、そこで止まらなかった。

三つめのボタン。

外したのは、私の指だった。暑いから、と言いわけする声は、もう出なかった。

四つめ。

汗を吸ったシャツが、重たく肌から離れていく。だぼだぼの布は、留めるものをなくしたとたん、自分の重さで肩のほうへずれた。

片方の肩が、夜気にさらされた。

胸の上で、手が止まった。

ここから先は、記録帳のどの頁にもない。

何年も、熱の上がり方と脈の数ばかり書いてきた。体のどこが、どんなふうに欲しがるかなんて、一行も。

「……確かめる、だけ」

降りたら、確かめるだけじゃなくなる。

分かっていた。

分かっていて、手のひらは、襟の中へ降りていった。

「ん……っ」

膝が、がくりと折れかけた。

作業台のへりをつかむ。並んだ小瓶が、かちりと触れ合った。

ふと、夜気が頬をなでた。

目の前の戸が、まだ少し開いている。

細い隙間の向こうは、真っ暗な裏庭。

閉めに行かなきゃ。

でも、閉めに行ったら、外を見てしまう。

開いている。

誰かが、あそこから。

肩のずれたシャツ。ほどけた髪。襟の中に入ったままの、自分の手。

今の私を、あの隙間から。

そう思っただけで、肌の上の熱が、一段、濃くなった。

体の奥がきゅっと縮んだ。

「……見ないで」

かすれた声が、隙間のほうへこぼれた。

見ないで、と言ったのに。胸の底では、見てほしい、がまたふくらんでいく。

見られたら、と思うたびに、熱くなる。

膝から力が抜けて、私は椅子に腰を落とした。椅子がきしむ。

椅子は、戸のほうを向いていた。

スカートの上から太ももへ。

布越しなのに、指の冷たさがちゃんと分かる。冷たさが通るたび、汗が一粒ずつ首すじをすべり落ちる。

内側へ。

もう少し、内側へ。

太ももの内側は、いちばん熱かった。指が通ったところから、しびれが上のほうへ這いのぼっていく。

「ん……ぁ……」

唇をかんでも、声は止まらなかった。

羽根ペンは、作業台の上に転がったままだ。

戸の隙間に、聞こえてしまう。

聞こえてしまうのに、膝が、ひとりでに開いていく。

隙間のほうへ。

閉じなきゃ、と思った。思ったぶんだけ、膝はまた少し開いた。

スカートの裾が、膝の上までずり上がっていた。

むき出しの膝に、夜気が触れる。

冷たい空気と、熱い肌と、隙間の暗がり。

ここに触れたら、どうなるだろう。

じゃあ、ここは。

指が、裾の内側へもぐりこむ。

太ももの肌をたどって、上へ。

まだほとんど触れたことのない場所の、すぐ手前で、指先が震えた。

「……見て」

息とほとんど変わらない声が、戸の隙間へこぼれた。

炉の火がぱちんとはぜた。

作業台のろうそくが、じじ、と鳴って消えた。

暗くなった工房で、私の息だけが、まだ戸の隙間へこぼれていた。

   *

炉の残り火の赤い明かりの中を、寝台までどうやって歩いたのか。

倒れこんだ毛布が冷たくて気持ちいい。

「……かたづけ、なきゃ……」

作業台に小瓶が並んだままだ。いつもなら寝る前に必ず――

まぶたが重い。

指一本、動かなかった。

――カルラ

今夜の食堂は上出来だった。

ブルーノさんの大声も、フランツさんの三回目の昔話も、笑顔でさばいた。旅の商人さんの好きな麦酒の銘柄も一度で覚えた。看板娘のカルラは今日も絶好調。

ただ、エルナが夕食に来なかった。

「あらまあ、あの子、また来なかったわね。豆がこんなに残っちゃって。腸詰めも、あの子の分だけ焼いといたのに。ほらほら、冷めちゃうじゃないの、ねえ」

母さんが鍋をかき回しながら、勝手口のほうを見た。

「いいの、いいの。私、持ってく」

腸詰めと豆の煮込みをよそって、黒パンを添える。あの子の好きな、端っこの固いところ。

「夕方、ちゃんと言ったんだけどなあ」

お皿を両手で持って勝手口を出た。

裏庭は静かだった。

井戸の滑車がきいと鳴る。物干しの影が揺れている。勝手口の前で丸くなっている宿の猫のクネーデルが、片目だけ開けて私を見た。

「あんたは、エルナにしか懐かないもんね」

返事はない。知ってた。

離れまでは二十歩。窓に灯りが見える。

「ほらね。やっぱり起きてる」

戸の前に立った。

片手でお皿を持ち直して、もう片方の手を上げる。入るよ、と言いかけた。

そのとき。

かちり。

掛け金の外れる音がした。

戸が指一本ぶん、内側から開く。

わっ、出てくる。

私は半歩下がって、笑顔を作った。ごはん持ってきたよ、と言うつもりで。

でも戸は、それ以上開かなかった。

隙間から灯りがこぼれている。

その向こうに、知らない女の人が立っていた。

一瞬、本当にそう思った。

頬が赤い。首すじにも鎖骨にも、汗が光っている。シャツの襟もとが大きく開いて、ほどけた長い髪が肩に、背中に流れている。

前髪の陰にいつも隠れている琥珀色の目が、灯りを映してうるんでいた。

エルナだった。

あのだぼだぼのシャツの中に、この子がいたんだ。

息を乱して。唇を少し開いて。

「だめ、だめ……」

かすれた声がして、戸がぐっと押し戻された。ことんと鳴って、またさっきより少し開いた。

隙間の向こうで、エルナがよろけて、こちらへ向き直った。

自分の体を、両腕で抱きしめている。白い指が、赤く染まった腕の上をゆっくりすべっていく。

「こんなに、なるなんて……」

エルナの声。

でも、聞いたことのない声だった。

目が離せなかった。

ひと息。ふた息。三つ。

声をかけなきゃ。そう思うのに、喉がからからに乾いて、名前一つ出てこない。

お皿のふちを持つ指に力が入る。フォークがかちゃりと鳴りそうで、慌てて息を止めた。

知ってる。

私、この場面を知ってる。

寝台の下に隠している本の中で、何度も読んだ。灯りの下で、娘が一人きりで、誰にも言えない熱を持てあます夜。

本の中にしかないと思っていた夜が、戸一枚向こうにある。

白い指が、首すじへ上っていく。

エルナの唇が動いた。何かを数えている。

いち、に、と聞こえた。

それから、数は聞こえなくなった。

指が、鎖骨のくぼみで止まって、それから、シャツのボタンにかかった。

一つ。

もう一つ。

妹だ。

目を、お皿の上に落とした。冷めていく豆を見ていた。

見ていないのに、布のすべる音だけが、隙間から聞こえた。

小瓶の触れ合う、かちりという音も。押し殺した息も。

数えるのをやめたあの子のかわりに、頭の中で、私が、いち、に、と数えていた。

「……見ないで」

隙間から、かすれた声がした。

息が止まった。

見つかった。

そう思った。

思わず、顔を上げてしまった。

顔しか、見なかった。その下は、見なかったことにした。

うるんだ目は、隙間に向いていた。

でも、私を見てはいなかった。

暗い裏庭の、どこか遠くを見ていた。

私はそっと後ずさった。

一歩。二歩。足音を殺して。

ごめん、と口の形だけで言った。

お皿は置いてこなかった。置いたら、そこに私がいたことが分かってしまう。

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