統一神書 バルギニア版 第八の巻 流転神
一
絶えざる流れの源たる第七の座、水と時と魂の巡りを司る女神、セレ・ミウ・ターリエ。始原が御身を裂きたまいしとき、流れを負いて生まれ出でたまえる、八柱の第七神である。
この神の水は、大地よりも古い。始原の裂け目より溢れし光は、まず水となった。陸は、その深き水の面に、筏のごとく浮かんだにすぎぬ。我らの足の下には岩がある。その岩の下には、いまも、この神がおられる。
二
御姿は、水そのもののごとし。丈は高く、八柱のうちにあってもひときわ長い。髪は足元に届くほどに長く、澄み渡る水色をして、水のごとくたえず揺れ、ひとところに留まらぬ。その髪が、常に右の半面を覆うている。ゆえにこの神を仰ぎ見る者は、みな、左の目ばかりを見ることになる。
この神の両の目は、左右で異なる。左の目は、澄み渡る水色である。底まで見透かせる、浅き流れの色。この目は今を見る。いま在るものを、いま在るとおりに映す。この神が我らに向けたもうのは、いつも、こちらであった。
右の目は、髪の下にある。この目は、来るべきものを見る。まだ起こらぬこと、これから起こること、そのことごとくを、すでに見終えてしまっている目である。この目を見た者は、いたって少ない。水に呑まれ、いままさに沈みゆく者は、みな、この目を見るという。溺るる者には、もはや明日がない。明日なき者を見るのに、この神は右の目を隠す要がないのである。
なにゆえ、右の目を隠したもうのか。ただ一言、記すのみである。この神が右の目をもって人を見たまわぬのは、恵みである。
三
御声は水の音に似る。低く、やわらかく、絶えることがない。ただ一つ、奇しきことがある。この神の言葉は、ときおり時がずれる。まだ起こらぬことを、すでに起こったこととして語りたもうのである。そなたは、あの橋を渡った、と告げられ、その者が実際にその橋を渡ったのは、三日ののちであった。この類の話が、諸国にいくつも残っている。
四
御心を一語で言い当てるのは、難しい。強いて言うなら、手放すこと、であろうか。掬うた水がこぼれるにまかせるように、この神は来るものを迎え、去るものを見送る。惜しまぬのではない。惜しみながら、なお放したもう。
ここで、心せねばならぬことがある。舟を運ぶのも水である。舟を呑むのも水である。畑を潤すのも、村を押し流すのも、同じ水だ。人はこれを、恵みと祟りとに分けて呼ぶ。されどこの神の側から見れば、どちらも、ただ流れているだけのことにすぎぬ。憎んで呑むのではない。愛して運ぶのでもない。手放すとは、そういうことである。この神を慕う者が、同時にこの神を怖れるのは、そのゆえである。
五
御業の第一は、世に流れを通したまいしことである。水は高きより低きへ流れ、季節は巡り、時はただ一方へのみ進む。我らが昨日へ戻れぬのは、この神が一方へのみ流れたもうがゆえである。川は、昨日も今日も同じ名で呼ばれる。されど、そこを行く水は、二度と同じ水ではない。
天より雨の降るは、第一の座の兄神の業である。されど地に落ちてよりのちは、ことごとくこの神の業となる。一滴の雨が土に染み、泉に湧き、川となり、海へ出て、また空へ還る。その長き道のりを、はじめから終わりまで、この神が送っている。諸国の川ごと泉ごとに祀らるる小さき水の神々は、みな、この神の指の先である。
水は、洗う。血も、泥も、穢れも、水は流してゆく。ただし、思い違うてはならぬ。水は、清めているのではない。運び去っているだけである。汚れは消えたのではなく、下流へ行ったのだ。
六
今一つの御業は、魂の巡りである。死とはこの神の流れへ還ることであり、生まるるとは、その流れより汲み出されることにほかならぬ。失せし生を呼び戻すことが、なにゆえあれほど堅く禁じられているか。それは、この神の流れを堰き止める業だからである。堰かれた水は、行き場を失う。
そして、この神は告げたまわぬ。右の目は、すべての終わりを、とうに見ている。誰がいつ死ぬのか、どの国がいつ滅ぶのか、この神は知っている。知っていて、一言も言わぬ。告げられた未来は、もはや未来ではない。流れは、指させばそこで澱む。ゆえにこの神は、知りながら黙し、ただ流れを送りつづけたもうのである。
七
このことを示す語りが、一つある。いにしえ、ミルダの泉のほとりに、ドルナスという領主がいた。この者、明日を知らぬということに、どうしても堪えられなかった。泉にこの神の通いたもう道があると聞き、日ごと通うては、教えたまえと乞うた。この神は、来るたびにドルナスを見た。左の目で、見た。何も言わなかった。
ドルナスは人を集め、泉の落ち口を石と土とで塞いだ。動かぬ水のうちからは、この神も、流れて去ることができなかった。ドルナスは堰の上に立ち、いま一度乞うた。この神は、一度だけ首を振り、それから、右の半面を覆う髪を、そっと掻き上げたという。
この日よりドルナスは、二度と迷わなくなった。何を問われても即座に答えた。されどドルナスには、もはや明日というものが、なかった。生涯の残りを、この者は、すでに一度見た道を、ただ、なぞって歩いた。見てしまったものは、変えられぬ。変えられぬものは、もはや未来ではない。ドルナスの死せしのち、堰は崩れ、泉はふたたび流れはじめた。この神は、とうに、そこにはおられなかった。
八
王国歴1487年、シレナ湖のほとりの村ミオンに、ニナという女の子がいた。この子は、口が利けるようになったころから、覚えのないことばかりを喋った。会うたこともない男を夫と呼び、名も知らぬ子を案じて泣いた。魂は、この神の流れへ還るとき、前の生を洗い落とされる。ニナは、洗い残されたまま汲み出されたのである。六つになるころには、ものを食べることもままならなくなり、両親は、この子を湖へ連れていった。ほかに行くあてが、なかった。
その夜半、水の面にだけ、丈の高い、水色の髪の女の方が映っていたと、母親は語り遺している。その方は、水の中で子のそばに膝をつき、左の目で、じっと見ておられた。それから、水に映った子の胸のあたりへ手を入れて、濁った暗い水を掬い上げ、そっと放された。風もないのに湖に流れが生まれ、濁った水は、遠くへ運ばれていった。
朝が来て、ニナは目を覚まし、母の顔を見て、母と呼んだ。前の生も、それに苦しんだ三年も、いっしょくたに忘れていた。この神の恵みは、いつも引き算である。持たせぬ。見せぬ。残さぬ。そうやってこの神は、我らの手を空にしておく。空の手でなければ、次の水は掬えぬからである。
九 流転神の教え
この神を敬う者の守るべき教え、二十を記す。
一つ。同じ川に、二度入ることはできぬ。今日の水は、今日だけの水である。
二つ。流れた水を、掬い直そうとするな。過ぎたことも、同じである。
三つ。まだ来ぬ明日を、思い煩うな。明日は、来てから受け取ればよい。
四つ。飯を食うときは、飯を食え。歩くときは、歩け。二つのときを、一度に生きようとするな。
五つ。食い終わったなら、鉢を洗え。それだけのことを、それだけのままにできる者は、まれである。
六つ。荷を下ろせぬのは、荷のせいではない。握って放さぬ、手のせいである。
七つ。川を渡り終えたなら、筏を捨てよ。役に立ったものほど、捨てどきを誤る。
八つ。満ちた器には、何も注げぬ。学ぶ前に、まず空にせよ。
九つ。得たものは、借りたものである。返す日が来ても、驚くな。
十。見送ることを、負けと思うな。水は、去るものを追わぬ。
十一。悲しみを、堰くな。泣くだけ泣いて、それから流せ。
十二。亡き人のことは、語り尽くせ。よきことも、悪しきことも。水にあずけるのは、そのあとでよい。
十三。花の散るを、惜しみすぎるな。散るゆえに、花である。
十四。老いを、嘆くな。川下の水は、川上の水より、多くの土地を知っている。
十五。淀んだら、動け。水も、心も、留まれば濁る。
十六。流れに身をゆだねることと、ただ流されることとは、違う。櫂を手放してよいのは、漕ぎ方を知った者だけである。
十七。先の見えぬことを、嘆くな。先が見えぬことこそ、明日がまだ汝のものである証である。
十八。占いに、明日を預けるな。知ってしまった明日は、もはや明日ではない。
十九。身を清めたなら、下流に手を合わせよ。汚れは消えたのではない。運ばれたのである。
二十。今日を、良き日とせよ。晴れも雨も、流れの上では、みな一度きりの日である。




