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統一神書 バルギニア版 第十一の巻 偉人列伝 その7

英雄偉人 第四伝 天秤王サーネルフォン・クードネラ2世


 サーネルフォン・クードネラ2世は、無暦時代の、バザーランド地方の一国の王である。世に天秤王と呼ばれるが、この称は、生前のものではない。死してのち、民が贈った名である。


 若き日のサーネルフォンは、荒れた世の、荒れた王座を継いだ。父王の代より、宮廷は佞臣に満ち、法は銭で曲がり、訴えは賄いの多寡で決まった。若き王はこれを憂えたが、正す術を知らなかった。王が一人を罰すれば、十人が地下に潜る。法を新しく定めれば、定めたそばから抜け道が売り買いされる。王権をもってしても、腐った律は正せぬ。それを骨身に知ったことが、のちの帰依の素地となった。


 サーネルフォンがキネルークに出会うたのは、一つの訴えがきっかけであった。王家の徴税人が、辺境の一人の農夫から、定めを超えた税を三年にわたり取り立てていた。農夫は町々の法廷に訴えたが、ことごとく退けられ、ついに、行脚の聖人が開くという青天井の法廷に駆け込んだ。キネルークは訴えを取り上げた。相手が王家であることを、いささかも意に介さなかった。


 使者から報せを受けた廷臣たちは、行脚の説教師の分をわきまえぬ振る舞いと憤り、兵を差し向けることを進言した。サーネルフォンは、それを退けた。そして、誰にも告げず、粗末な外套をまとって、みずからその法廷に出向いたのである。町外れの、何ものにも遮られぬ野天に、人垣ができていた。王は、人垣の後ろから、裁きを見た。


 裁きは、王家の負けであった。キネルークは、徴税の帳と、農夫の畑の広さとを突き合わせ、三年分の取り過ぎを、一枡の狂いもなく算じ出した。そして、王家はこれを返すべし、と告げた。人垣がどよめいた。王家が、返す。そのような裁きを、誰も聞いたことがなかったからである。


 このとき、人垣の後ろで、外套の王が進み出た。周囲が凍りつくなか、サーネルフォンは名乗り、こう言うたと伝わる。その裁き、王家が受ける。取り過ぎた分は、利を付けて返す。そのうえで、問いたい。あなたの秤は、王をも量るのか、と。キネルークは、静かに答えた。量ります。秤の上に立たぬ者は、一柱も、一人も、ありませぬ、と。サーネルフォンは、しばらく黙って立っていた。それから、王冠を戴いたまま、野天の法廷の地べたに、膝をついたのである。王が地に膝をついたのを見たのは、この日が史上はじめてであったと、記録は伝えている。


 以後のサーネルフォンの治世は、一変した。王はまず、おのれの宮廷を教団の監査に開いた。王庫の帳を検めさせ、代々の取り過ぎを洗い出させ、判明した分を、五十年遡って返させた。国庫は一時、底が見えたという。廷臣が、国が傾きますと諫めると、王は答えた。傾いているのは、いまはじまったことではない。いままで、傾きが見えなかっただけだ。秤が来て、ようやく見えるようになった。ありがたいことではないか、と。


 王はまた、玉座のかたわらに、小さな手秤を一つ、置かせた。政務の裁可を求められるたび、王はその秤を一瞥した。秤に何かを載せるわけではない。ただ、見るのである。ある日、幼い王子がその訳を問うと、王は答えた。これを見るとな、わたしの上にも、もっと大きな秤があることを、思い出せるのだ、と。この小さな手秤は、いまもクードネラ家に伝わり、代替わりの式のたび、新王の玉座のかたわらに据えられる。


 サーネルフォンは、キネルークの教団創設を財と兵とで支えたが、教団の裁きには生涯、一度も口を挟まなかった。王家に不利な判決が下るたび、廷臣は憤り、王は払った。晩年、なにゆえそこまでなさると問われ、王は言うた。王の言葉で曲がる秤なら、支える値打ちがない。曲がらぬからこそ、わたしはあれに、国の底を預けたのだ、と。


 死に臨み、サーネルフォンは、王冠を外して葬るよう遺言した。秤の上では、王もひとりの男にすぎぬ。量られるときに、余計な目方をつけたくない、というのが、その言い分であった。遺言のとおり、王は冠なしで葬られた。民は、冠のないその棺に、誰からともなく、小さな秤の絵を描いた札を投げ入れた。天秤王の名は、このときに生まれたのである。王を偉大と呼ぶ言葉は数あれど、秤をもって呼ばれた王は、後にも先にも、この王ひとりである。


英雄偉人 第五伝 暦師ノーマ・ロ・ヴェッセ


 ノーマ・ロ・ヴェッセは、無暦時代の終わりに生きた、一人の女学者である。剣も執らず、奇跡も行わず、教団も開かなかった。この者が世に返したのは、ただ一つ、時である。無暦時代を閉じた人として、この列伝の、最後に置く。


 崩滅の日、失われたのは、命と土地ばかりではなかった。暦が、失われた。神代より伝わった暦書は焼け、暦を司る神官は絶え、生き延びた人々は、今日が何の月の何の日かを、誰も言えなくなった。世に無暦時代と呼ばるる、長い長い歳月の始まりである。暦なき世の惨めさは、後の世の想像を超える。種を蒔く時を誤れば、その年の村は飢える。実りの祭りも、水送りも、日が分からねば行えぬ。人は、寒さと星の傾きだけを頼りに、手探りで季節を渡った。今日を知らぬ者は、明日を約束できぬ。約束できぬ者たちの世は、いつまでも、ばらばらのままであった。


 ノーマは、バルギニアの、写本を商う家に生まれた。幼いころから、父の商う焼け残りの写本の切れ端を読んで育ち、あるとき、その一枚に、見慣れぬ言葉を見つけた。芽吹きの月、と書かれていた。月に、名がある。今日に、名があった。その一事が、少女の生涯を決めたのである。


 長じてノーマは、月の名を探す旅に出た。手がかりは、思わぬところに残っていた。古い墓石である。崩滅より前の墓石には、死者の名とともに、没した月日が刻まれていた。ノーマは諸国の墓地を巡り、苔を払い、拓本を取り、刻まれた月の名を拾い集めた。墓地ばかりではない。農夫の歌う種蒔き唄に、母たちの数え唄に、祭りの口上に、月の名は、意味を忘れられたまま、音だけで生き残っていた。刈入れの月の末に行われる水送りの祭りが、どの土地でも同じ頃に行われていることに気づいたのも、ノーマである。祭りは、暦を覚えていたのである。


 三十年をかけて、ノーマは、八つの月の名と、その順とを復元した。芽吹き、花冠、青葉、日盛り、実り、刈入れ、白霜、聖燭。一年は八月、ひと月は四十日。神代の暦の骨組みが、墓石と唄と祭りとから、ふたたび立ち上がったのである。ノーマはこれを一書にまとめ、時の人々に頒った。はじめは、誰も見向きもしなかった。今日の名を知ったとて、パンは増えぬ、と。されど、ノーマの暦に従うて種を蒔いた村が、隣村より多く穫った。その次の年は、二つの村が暦に従うた。その次の年は、十の村が従うた。暦は、実りとともに、静かに世に戻っていった。


 バルギニアに新しい王国の立たんとするとき、王はノーマを召し、その暦を国の暦と定めた。建国の日を年初の芽吹きの月1の日に置き、これを王国歴元年とする。いまに続く王国歴の始まりである。このとき王は、ノーマの功を讃え、八つの月のいずれかに、そなたの名を付けてはどうかと申し出たという。ノーマは、固く辞した。月の名は、神代のものにございます。人の名を、神々の時に混ぜてはなりませぬ。わたくしは、失われたものを拾うただけの者。拾うた者の名は、拾われたものの上に、載せぬものでございます、と。王はこれを聞き、いよいよノーマを重んじたと伝わる。


 ノーマの晩年の逸話に、こういうものがある。弟子が問うた。師は、生涯を、過ぎた時を数えることに費やされました。悔いはありませぬか、と。ノーマは笑って答えた。わたしは、過ぎた時を数えたのではない。来る時を、数えられるようにしたのだ。今日に名があれば、人は、十日先の約束ができる。約束ができれば、市が立つ。市が立てば、道が通う。道が通えば、国が結ばれる。暦とは、時の帳簿ではない。約束の土台なのだよ、と。


 ノーマは、老いてなお暦書の検めをつづけ、新しい暦の定まった年の、聖燭の月40の日に没した。無暦時代の、まことの最後の日である。翌朝は、芽吹きの月1の日、王国歴の最初の朝であった。弟子たちは言い合うた。師は、名なき時代を最後まで見届けて、名ある時代の敷居の前で、筆を置かれたのだ、と。いまも暦を編む者たちは、年の最後の日に筆を洗い、ノーマの名を唱えてから、新しい年の頁を開く。時を返した者の名は、時のなかに、こうして生きている。長き無暦の闇は、この人の手で閉じられ、世は、王国歴という新しい朝を迎えたのである。ここに、千年の闘争より王国歴の始まりまでの列伝を、終わる。


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