統一神書 バルギニア版 第十一の巻 偉人列伝 その5
九聖人 第九伝 聖人キネルーク
キネルークは、崩滅ののちの、律の失われた世に生まれた。いずことも知れぬ辺境の寒村の出である。全てが崩れ去った世に、律は乱れ、力ある者がことごとくを奪い、誠実なる無辜の者は、日々に怯えて暮らすほかなかった。キネルークは幼きころより律天神の篤き信徒であり、均衡の失われたこの世を憂い、成人するや、すぐに世界の行脚に出た。
その行いは、地味であった。剣を持たず、供を連れず、行く先々で、律の尊さと、根源八法の遵守とを説いて回った。諍いあれば間に立った。ある地方で、二つの村が一筋の川の水をめぐって殺し合いに及ばんとしたとき、キネルークは両村の長を川辺に呼び、こう問うたと伝わる。この川は、どちらの村が作ったのか、と。長たちが答えに詰まると、キネルークは言うた。作らなかったものを、奪い合うことはできぬ。借りているものは、分かち合うほかない、と。そして水を、田の広さではなく、人の数で分けさせた。この裁きは、のちに諸国の水争いの手本となった。
悪法に虐げらるる者あれば、これを救うた。ある町の領主が、罪なき者を罪に落とす法を敷いたとき、キネルークは、その法廷に、たった一人で立った。兵に囲まれても、動かなかった。彼はただ、根源八法を、第一の律から順に、静かに誦しただけである。第六の顕の律、罪を伏せ、顔を繕いて、隠さんとすることなかれ、に至ったとき、領主は法廷を出ていったという。翌朝、その悪法は取り下げられていた。剣ではなく、律を誦す声が、権力を退けたのである。いかなる暴力にもついぞ屈せず、ただひたすらに、律天神の御心に叶うよう、乱れた世を正していった。
その行いに深く感化され、律天神の教えに帰依した一人の王があった。バザーランド地方の王、サーネルフォン・クードネラ2世、のちの天秤王である。この王の支援を得て、欽定緑律教団は創設された。いかなる法も、いかなる権力も、いかなる権威も、根源八法に勝るものはなし。創設のみぎり高らかに定められたこの一条のもと、教団は世の釣り合いを見張る役目を負うたのである。
されど、邪なる者は、いつの世にも絶えぬ。教団のうちにも、与えられし権をもって却って律を曲げ、私欲に走る者が現れた。キネルークはその撲滅に奔走したが、根絶するには至らなかった。道理なき世にようやく律を通す兆しが生まれたというのに、他ならぬおのが足元に、律を乱す因がある。これを深く嘆いたキネルークは、身を潔斎し、堂に籠り、世の律を守りえぬおのれを諫めて、十日十夜、律天神に祈りつづけた。
十一日目の朝焼けとともに、律天神は御身を顕したまえり。そして、律を切に守らんとするその心を嘉し、一つの法を授けたまえり。欽定緑律の法である。教団の法廷にて判決を下す者は、必ずこの法を施いたうえで決を述べねばならぬ。ひとたびこの法が施かれれば、裁定者、原告、被告のことごとくの手に緑の茨が浮かび、偽りを述べ、律に背く者あらば、茨が立ちどころに戒めを与える。この法は律天神みずからの管りたもうところなれば、施く手続きを偽ることすら叶わぬ。キネルークはこの法を得て、ついに後顧の憂いを断ち、教団を遍く世に広めていった。
キネルークの最期の逸話は、名高い。死の床にあって、彼は弟子たちに、おのれを神前法廷にかけることを命じたのである。弟子たちは驚き、拒んだ。師よ、あなたに、裁かるべき何の咎がありましょう、と。キネルークは首を振った。裁かれずに死ぬ者は、釣り合うたまま死ぬ者ではない。量られぬまま死ぬ者である。わたしは、量られて死にたい、と。
法廷は開かれた。衆目のなか、緑の茨が老いた聖人の手に浮かび、その生涯のことごとくが、あの見えざる秤に載せられた。秤は、長いあいだ、静かに揺れていたという。やがて、釣り合うた。過ちも、あった。償いも、あった。すべてを合わせて、その生涯は、釣り合うていたのである。キネルークは判決を聞き、笑って、その夜のうちに息を引き取った。教団は、この最期の裁きをもって、彼を聖人と定めた。釣り合うて死ぬる者の、いかにまれなるかを、誰よりも知る者たちが、である。
英雄偉人 第一伝 盾のヴェルグ
ヴェルグは、千年の闘争の末の世に、東の辺境の小国サーレンに生まれた。名もなき一兵であり、妻と、まだ歩きもせぬ幼子があった。
その運命の砕けたのは、彼が戦に出ているあいだのことである。万夜の一族が、サーレンをひと夜のうちに呑んだ。父も、母も、妻も、幼子も、ことごとく闇へ堕とされた。灰となった故郷の焼け跡に、ヴェルグはただ一人で立った。そしてその日から、彼は変わった。
彼を突き動かすものは、憎しみだけであった。万夜の一族のあるところ、いずこへも駆けつけ、剣を執れば鬼神のごとく、退くことを知らず、敵を屠るのに寸分のためらいもなかった。人は彼を、修羅のヴェルグと呼んで畏れた。神々の軍にとって、これほど頼もしい人の剣はなかった。されど、いくら敵を斬っても、胸の底の穴は埋まらなかった。斬れば斬るほど、飢えはかえって増した。落ち着いて足元を見るということが、彼にはもう、できなくなっていた。
ある戦場で、ヴェルグは逸った。目の前をよぎった万夜の将の首に目がくらみ、味方の陣を待たず、ただ一騎で突出したのである。罠であった。彼を追って崩れた味方の一隊は、囲まれ、討たれた。そのなかに、リドという年若い者がいた。サーレンのただ一人の生き残りで、ヴェルグを兄と慕い、従いてきた者であった。リドは、ヴェルグをかばい、その背を庇うて死んだ。故郷の血の、最後の一滴であった。
おのれの逸りが、味方を、そして故郷の最後の血を殺した。修羅のヴェルグは、はじめてくずおれた。俺が斬ってきたのは、敵だったのか。それとも、俺が守るべきものだったのか。もう、分からなかった。彼は血に濡れた剣を地に突き立て、そこへ置いた。二度とこれを執るまい。そうして、あてもなく山へ分け入った。
たどり着いたのは、鉄色の岩ばかりの、名も無き山であった。ヴェルグは大きな一つの岩の前にへたり込み、幾日も動かなかった。死ぬことすら、もうおのれには値せぬと思われた。
どれほどそうしていたか。ある夜半、地の底から、ずうんと腹に響く岩鳴りが聞こえ、目の前の岩が、ゆっくりと動いた。岩ではなかった。鉄色の、山のごとき巨神であった。堅磐神が、この上なく遅い足取りで、彼の前に現れたもうたのである。
神は、ヴェルグが置いてきたはずの、あの折れた剣を、巨大な掌に載せていた。責める言葉は、一つもなかった。神はただ、折れた剣を握りしめ、体内の炉の熱で赤く熔かし、幾日も、幾月もかけて、これを打った。急がず、けして急がず。ヴェルグはそのあいだ、ただ待った。斬ることしか知らず、待つことを忘れていた男が、生まれてはじめて、じっと待ったのである。
やがて一振りの剣が鍛ち上がると、神はそれを岩へ深々と突き立て、はじめて口を開いた。抜け、おのが手で、と。ヴェルグは柄を握り、渾身の力で引いた。剣は、一分も動かなかった。汗みずくで膝をつく彼へ、神はゆるゆると告げた。その剣、恨みにて抜かんとせば、山なり。誰かを護らんとして抜かば、羽なり。おまえは今、誰の顔を思うて、それを握った、と。
ヴェルグの脳裏にあったのは、憎き万夜の将の顔であった。彼は目を閉じ、憎しみを一つ、また一つと手放した。代わりに浮かんだのは、おのれをかばって死んだリドの顔、守れなかった妻の、幼子の顔、そして、これから守りうるかもしれぬ、まだ見ぬ人々の顔であった。その静かな心のまま柄に手をかけると、剣は、羽のごとく軽々と抜けた。
神は鞘を手渡し、最後にこう言い遺したという。斬るは末ぞ。護るは本ぞ。この剣、けして折れず、欠けもせぬ。だがそれは、斬るためではない。おまえの後ろの者を護るあいだ、砕けぬためだ。鞘を忘るな。剣よりも鞘こそが、まことの宝ぞ、と。
この日、修羅のヴェルグは死んだ。代わりに生まれたのが、盾のヴェルグである。彼はなお万夜と戦い
つづけたが、それはもう復讐のためではない。おのれの後ろの、守るべき者の前に、ただ立ちはだかるためであった。
盾のヴェルグの武功は数知れぬが、人々が最も好んで語るのは、ヴェレナ川の橋の一夜である。万夜の軍勢に追われた三つの村の民が、川のこちらへ逃れんとしたとき、橋はあまりに狭く、渡りきるには夜半までかかると知れた。ヴェルグは、ただ一人、橋のたもとに立った。夜どおし、幾百の異形が寄せ、幾百が退いた。夜明けに援軍が駆けつけたとき、彼は満身に傷を負うて、なお立っていた。彼の後ろで、橋を渡れなかった者は、一人もいなかった。誰かを護るかぎり、その剣は折れず、幾千の刃を受けても欠けなかったのである。かつて斬れば斬るほど飢えていた男の、あの胸の穴は、誰かを護るたびに、少しずつ塞がっていった。
闘争の終わりに近いある日、ヴェルグは、逃げ遅れた一群の民を、たった一人、殿を務めて守り抜いた。民はみな逃げおおせ、彼は、その場に力尽きた。人々が後日戻ってみると、彼の姿はどこにもなく、ただ、彼が最期に立っていた峠に、鉄色の、一振りの剣のかたちをした大きな岩が、天を突いて聳えていたという。人はそれを、護剣岳と呼ぶ。そして、こう言い伝える。あの剣はいまも岩のなかで、次の一人を待っている。恨みのためではなく、ただ誰かを護るために、それを抜かんとする一人を、と。




