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統一神書 バルギニア版 第十一の巻 偉人列伝 その1

 第十一の巻に、神々に仕え、後の世の礎となった人々の伝を収める。ここに記すのは、千年の闘争より、王国歴の始まるまでの人々である。世の最も暗かった歳月に、最も明るく生きた者たちと言うてよい。まず、世に九聖人と呼びならわされる九人の聖者の伝を収め、次いで、六人の英雄と偉人の伝を収める。王も、聖者も、名もなき職人もある。生まれも、務めも、仕えた神も、みな異なる。されど、ひとつだけ同じところがある。おのれの負うたものを、最後まで手放さなかったことである。読む者は、その名を覚えるよりも、その負い方を覚えるがよい。


九聖人 第一伝 金糸の聖人イレナ・ロ・メーレン


 イレナ・ロ・メーレンは、千年の闘争の終わりしのちの、貧しき村の女であった。夫を戦に喪い、子はなく、薬草を摘み、隣人の傷を繕うて暮らしていた。読み書きも知らず、村の外を見たこともなかった。後の世に大陸のほぼ全土へ及ぶ教会の祖が、はじめはこのような者であったことを、まず覚えるがよい。


 長き戦に生命はことごとく踏みにじられ、大地は焼け、世は死の色に沈んでいた。この世にふたたび命を満たさんと、聖母神は、おのが眷属たる芽吹の民ジーナリに命じたまえり。世界のすみずみへ広がり、枯れ地を潤し、緑をよみがえらせよ、と。ジーナリは、その身の通うところに草と花を芽吹かせる民である。されど彼らは、命を奪うことができぬ。何かを殺せば、その痛みがおのが身に返るがゆえである。

 

この尊き性を、逆手に取る者が現れた。欲深き人の一部が、ジーナリをかどわかし、縛めて、おのれの土地のみを肥やさんがために、その力を使わせたのである。命を奪えぬのは、聖母神もまた同じである。わが子の囚われ苦しむのを見ても、母なる神は、これを縛める者を罰することができなかった。ただ、嘆くほかなかった。


 その嘆きを、地上でただひとり聞き取ったのが、イレナであった。はじめは、風の音かと思うたという。夜ごと、誰のものとも知れぬ、深い深い泣き声が、世界のどこか高いところから降ってくる。村の者は誰も聞いていなかった。イレナは幾夜も眠れず、ついに耐えかねて、声のするほうへと歩き出した。あてはなかった。ただ、泣いている者を放っておけなかっただけである、と後年みずから語っている。

 

 幾月の旅の果て、イレナは、ある領主の穀倉の地下に行き当たった。声はそこから聞こえた。地の底に、十を超えるジーナリが鎖に繋がれ、枯れかけた草のように衰えて、横たわっていた。天から降る嘆きと、地から昇る呻きとが、そこでひとつに重なった。イレナは悟った。あの泣き声は、この光景を見ながら何もできぬ、母なる神の声であったのだ、と。


 イレナは、その場に膝をつき、祈った。神よ、あなたが泣くことしかおできにならぬのなら、わたしが参ります。あなたの手の届かぬところを、わたしの手にお貸しください、と。そのとき、天より一筋の金色の光が降り、イレナの胸に触れた。聖母神が、おのが光を一筋分かち、新たな名を授けたまえりしのである。のちに金糸の聖人と称される、その始まりであった。


 金色の光を帯びたイレナが地下牢に立つと、ジーナリを縛めていた鎖は、朽ちた蔓のようにほどけ落ちたという。領主は兵を差し向けたが、兵たちは、痩せた一人の女の襟もとに光る金の糸を見て、誰ひとり、剣を抜けなかった。イレナは領主に、ただ一言告げた。神は、あなたを罰することがおできにならぬ。それがどれほど恐ろしいことか、いずれ分かります、と。その領主の土地は、翌年より実りを失うたと伝わる。


 イレナのもとには、やがて人が集まった。イレナは彼らに、二つのことを教えた。ひとつは、癒すこと。傷を繕い、病を看とり、命を支えること。いまひとつは、挫くこと。神がその慈愛ゆえにみずから下しえぬ裁きを、人の身が代わって引き受け、囚われしジーナリを解き放ち、命を虐げる者を挫くこと。施療の徒と、武装せる騎士。のちの金糸聖母奉神教会の二つの顔は、この時すでに揃うていたのである。


 イレナの晩年の逸話に、こういうものがある。ある弟子が問うた。癒す手と、剣を持つ手と、同じ教会が両方を持つのは、矛盾ではありませぬか、と。イレナは、繕いものの手を止めずに答えた。母を思うてごらん。子の傷を繕う手と、子を害する獣を追う手と、母は同じ手でいたします。わたしどもは、あの御方の手の代わりです。手が二つあるのは、当たり前のことでしょう、と。


 イレナは長く生き、死の床で、おのが襟の金糸を解いて、最も若い弟子の襟に縫いつけさせた。糸は、受け継ぐものです、と言い遺したという。以来この教会の者は、金色の糸を一筋、衣の襟もとに縫いとることを許される。聖都メリディアの金糸大聖堂の奥には、イレナのものと伝わる古き針が、ひと振りの剣と並べて安置されている。針と剣と。この二つを並べて祀る教会は、世にこの教会のほかにない。


九聖人 第二伝 静浪の聖者ノルヴァン


 ノルヴァンは、崩滅の日を生きた、海辺の町の聖嵐神の神官である。嵐の神に仕えながら、嵐を鎮めた祈りをもって知られ、世に静浪の聖者と呼ばれる。


 崩滅の日、ノルヴァンの町は、内陸より押し寄せる災厄を逃れんとする人々で溢れた。陸の道は断たれ、残るは海だけであった。人々は、漁船に、荷船に、筏に、あるかぎりの浮かぶものにすがって沖へ出た。ノルヴァンは、最後の船に乗った。おのれの神殿には火がかかっていたが、彼は聖具のひとつも持ち出さなかった。代わりに、乗りきれずに桟橋に残る者を、力ずくで船に押し込み、おのれは船縁にぶら下がって出港したと伝わる。


 沖に出た避難の船団を、嵐が襲うた。何百人を乗せた寄せ集めの船どもに、耐えられる嵐ではなかった。人々は泣き叫び、あるいは神を呪うた。嵐の神は、われらを見捨てたもうたか、と。そのときノルヴァンは、揺れる舳先に立ち、荒れ狂う空に向かって、祈った。伝わるその祈りは、嵐を叱るものでも、憐れみを乞うものでもない。天の御方よ、と彼は呼ばわった。この嵐もまた、あなたの御業のうちにあるならば、どうか、御業の隅に、この小さき船どもの通る隙間を、一筋だけお与えください、と。


 すると、嵐は止まなかったが、割れた。渦巻く黒雲のただなかに、一筋、凪いだ水の道が開き、船団はその道を、一艘も欠けずに渡りきったのである。岸に着いた人々が振り返ると、道はすでに閉じ、海はもとの荒れ海に戻っていた。人々はこのとき、はじめて知ったのである。嵐の神とは、嵐を差し向ける神ではなく、嵐のなかに道を開きうる、ただ一柱の神なのだ、と。


 ノルヴァンは、たどり着いた岸辺の町に住みつき、そこで生涯を送った。崩滅ののちの世は、飢えの世である。ノルヴァンの善行のうち、最も名高いのは、夜の施しである。町に、三人の娘を持つ男があった。男は蓄えを失い、飢えの果てに、娘たちを人買いに渡すほかないところまで追い詰められていた。その夜、男の家の破れ窓から、麦の袋がひとつ、投げ込まれた。翌月も、ひとつ。男は三月目の夜、眠らずに待ち、窓辺に忍び寄る影を捕らえた。老いた神官であった。男が泣いて礼を言い、町中に言い広めようとすると、ノルヴァンは固く止めた。やめてくだされ。右の手のしたことは、左の手にも知らせぬものです。施しに名がつくと、施しではなく、貸しになってしまいますでな、と。この一件は男が生涯胸に秘め、ノルヴァンの死後にはじめて明かしたものである。明かされてみれば、同じ夜の施しを受けた家は、町に幾十もあった。


 ノルヴァンはまた、港のほとりに、みなしごと、海で親を亡くした子らのための家を建てた。海の男の子は、海が育てるものです、というのが彼の口癖で、船乗りたちに、航海の前に祈りを、航海のあとに寄付を、と説いて回った。無事に帰った礼を、次に海へ出る子らのために置いてゆく。この習わしは船乗りたちの気風に合うたのか、瞬く間に諸国の港へ広まった。今日、どんな小さな港町の孤児院も潰れずにあるのは、この聖者の始めた、あの習わしのゆえである。


 ノルヴァンの最期は、嵐の夜であった。湾の外で漁船が難破し、老いた聖者は、若い者の止めるのも聞かず、救いの小舟の櫂を取った。船乗りらとともに漕ぎ出で、溺れる者をことごとく小舟へ引き上げ、岸へ戻る渡りに、力尽きた。櫂を握ったまま、舳先にもたれて、事切れていたという。空は、いつのまにか晴れていた。人々は、あの夜の空の静けさを、長く語り草にした。嵐の神が、おのが良き僕を迎えるのに、嵐をもってなさらなかった。それが、何よりの弔いであった、と。



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