第6節 雨降りの駅と、海(後)
「そしたらキミも、私と一緒に逃げてくれる?」
──そうしたら僕は、どうするのだろう。
それを聞いた瞬間にくらりと視界が眩んだのは、きっと列車の明かりに彼女の姿が重なったせいだった。
息が詰まった。心が騒いだ。何かざわめきにも似た熱いものが、身体の底から込み上げて来ようとした。
その提案は眩しいばかりの誘いに聴こえて。くっと胸の奥が甘く詰まって。現実味が無いくらいに堪らなく蠱惑的で。
だからこそ、僕は眩しすぎるそれを直視できない。
「…………僕は」
言い淀んだのは、多分ほんの瞬き一回分。そんな刹那に僕は未来の仮定を垣間見る。
彼女を逃がして、それに僕もついて行って。列車に揺られながら話をして、彼女の愚痴とか希望とかを色々聞いて、僕の方も昔の話をしたりして。乗り換えに迷って間違えた電車に飛び乗ったり。駅弁の種類に二人して悩んで乗るつもりだった電車を逃したり。そんなハプニングがありながらも海まで行って、彼女は本当の自由を手に入れて。そして僕も、この恋心にケリを付けたりなんかして。
夢も理想も希望も期待もいくらだって際限無しに湧いてきて──現実はそうも甘いばかりでは通らないのだと、冷めた心が冷笑混じりに否定した。
自由は享受できなければ簡単に不自由へと成り下がる。多すぎる選択肢と自己責任の重圧に晒されながら思うままに動ける人間は数少ない。何にも縛られないが故にこそ課される束縛。そこに彼女ともども僕まで浸って、彼女のたった一つのよすがとなって、それだけの行為につき纏う意味を、罪科を、責任を、僕は本当に背負うことが出来るのか。
その選択の先で僕はどうするつもりなのかと、答えの出せなかった自問自答へと僕は再び行き着いた。
「僕、は…………」
口から出した言葉の続きは、滑り込んできた電車の音に遮られる。僕自身なにを言おうとしていたのかは知れないけれど。ブレーキのかかった車輪とレールとの間に摩擦音を軋らせながら電車が停まる。空気の抜ける音と共に扉が開く。車内に灯されているLEDの光量が、薄明かりのホームへまで溢れ出す。
「良いよ。無理に応えてくれようとしなくても。ただの冗談なんだから」
再び落ちた静けさの中、僕が言葉を探し始めるより先に彼女の声が機先を制した。咄嗟に頷いては返せなかった僕の心象を見透かすように、カラカラと鈴を転がす乾いた笑みが僕の煩憂を解きほぐす。僕は、別に答えを出さなくても良いのかと、その意味を考えることなく軽忽に与えられた救いの手を甘受する。
ほっと吐いた息は無意識に。知らず指先に籠もっていた力が抜けて、そのことにすらも遅れて気付いて。
その瞬間。さながらボタンを掛け違えたみたいな違和感を僕は自分の胸に感じた。
何かを誤ったとは、少し違う。誤謬ではなく齟齬というか。食い違ったからこそ顕在化した据わりの悪さが、喉に小骨の刺さるみたいな不快感を訴えている。
答えの返せなかった躊躇いに。空白へと差し挟まれた蜘蛛糸ながらの彼女の声に。自分が出す筈だった答えを見なくて澄んだと息つく安堵の醜悪に。
僕は名状しがたくもこの上なく、『こうじゃなかった』と感じている。
「……冗談?」
「そう。だってこんなこと訊いたって意味無いから」
前を向いた彼女の見据える先で、車両の中にはちらほらと人が乗っている。高校生らしい制服姿の女の子。両手を杖にかけたおじいさん。何が入っているのか大荷物を抱えた男性に、膝の上で紙袋を抱く女の人。手元のスマホやら本やらに目を落としたりうつらうつらと舟を漕いだりしている彼ら彼女らは、誰一人として立ち上がることも顔を上げることすらない。
「私は何処にも行けないし。行けたとしてもどうにだってならないし。だからただ、キミはどんな反応してくれるのかなーって気になっただけだから」
「そう、なんだ」
そんな車内を眺めながら。ほんの少し、眩しいものを見るみたいに目を細めながらも。こちらも決して動こうとはせずに彼女は言う。
「それなら多少は、それらしいリアクションを取れてた方が良かったかな」
「そんなことないよ。今ので十分、私としては満足だったよ」
下車も乗車もされない車両を、端からそうと分かっていたのだろう運転手が機械的に確かめて、程なく気怠げなアナウンスと共に扉が閉まる。再び空気の抜ける音とガコンと車輪の回り始める重い音。鉄の箱は閉ざされてまた次の駅へ向かって動き出す。
「だって」
その様子を、何と言うでもなく見守りながら。去りゆく電車を見送りながら。
「だって今、悩んでくれたでしょ。どうやって断ろうとかじゃなくて、もしも一緒に逃げたらどうなるかって。真剣に考えてくれたでしょ」
それで良いの、と彼女は言う。
それが良いの、と彼女は笑う。
走り始めた電車の風に煽られる髪は押さえもしないで靡くまま。光を追うようにして顔が巡る。一度ゆっくりと瞬いた瞳を開きながら僕を見る。
「そんなことって思うかもしれないけど、たったそれだけをくれたのはキミだけだから」
──だから。
寂寞をこそ、懐くのが似つかわしい場面には思えたけれど。哀切を声に帯びようと、目尻に涙を溜めていようと不思議ではない雰囲気があったけれど。それらのいずれも彼女の見せる感情には程遠く、悲しさよりも寂しさよりも今は胸を打つものがあるのだと。そう言いたげに彼女の表情は移ろっていく。
その遷移を黙ったままに眺めながら──息も忘れて見詰めながら。僕はざわり、ざわりとさざめく心臓を止められない。
視覚も聴覚も次の瞬間に受容する情報を全神経を注いで待ち構えているのに、僕の頭の中だけは眼前の『今』ではなくて『過去』を向く。脳裏に浮かぶのは遠い昔に交わしたやり取り。記憶に焼き付く密心の源泉へ。そのとき向けられた言葉を、笑みを、感情を、寸分だって過つことない鮮明さで以て思い返す。
──だからね。
その続きに、脳裏へ用意した光景に、僕は追懐にも似た期待を胸へと秘めて。
「そうやってキミが想ってくれるのが、私は一番嬉しいんだよ」
重なる言葉に、笑みに、感情に。懐古に高揚に恋風に。
嗚呼、やっぱりそうか──と僕の中で結び目を探していた何本もの糸の切れ端が、始めて一本へと繋がったのだ。
さながら触れた花の、気付かずまとっていた棘にチクリと指を刺されるように。或いは元より刺さっていた棘の忘れていた痛みを思い出したかのように。その感情はポコリと水底から浮かび上がるあぶくのように胸の奥から湧き上がった。
記憶と共に。無数の泡の表面へと映り込んだ、懐かしくも輝かしい、たった一週間だけの日々を引き連れて。
「……あのさ。もう少しだけ時間あるかな」
呑んだ息をそのまま吐き出すみたいにして僕は言った。
吐息も震えも高鳴りも、全部を決意の箱へと押し込めて。思い立った奮いが冷めない内に。足を退く理由を見付ける前に。ともすれば手の平で掬い上げた水みたいに、ふと指の隙間から洩れて零れて失くしてしまいそうだったから。
「ええと……? 太陽が沈むまでなら、あと一時間くらいはあると思うけど」
「そっか、良かった。それだけあるなら十分だ」
彼女の答えに僕はほっと胸を撫で下ろす。
駅の構内にも時計はあるけど、なにぶん誰がいつ整備したきりか分からないから正しく時間を刻んでいるかは怪しいものだ。空を見たとて雲と雨に陰った薄闇は太陽の位置を定かにはせず僕には時刻も時間帯も測れない。だから猶予だけが懸念点で、その点彼女の感覚ならば十分信頼に値する。
遅れてしまうのが何より目も当てられない結末だから。それさえ防げるならば憂いはないと、僕は安堵しながら彼女に告げた。
「最後に一つだけ、行きたい場所を思い出したから」
ついて来て欲しいと、キョトンと首を傾げている彼女には構わず重い腰を上げて立ち上がる。
烟る雨霧に霞んで影すら見えない線路の向こう。溶けてしまった電車の光を探すでもなく茫と眺めて、ふと、あのまま電車に飛び乗っていたならと夢想する。
今は選び取ることが出来なかった選択肢。昔なら、それこそ十年も遡った幼い子供の時分なら、何も気にせず囚われず、無邪気に駆け出して行けたのだろうに。それが出来ない大人の僕は果たして自由に生きていると言えるのだろうか。
結局そんな、仮定の未来に意味なんて無いのだろうけど。
蒙昧故に恐れるものの何も無かった子供に特有のかつての無謀と。
現実を知って身に付けた利口さと言う名の緊縛と。
得たものと削ぎ落としたものとの価値の差を、僕は悔やんだところで何時だって後の祭りにしかならない無念の中に想うのだった。
夜が近付き雲が流れゆこうとしているのか、心做しか弱まってきた雨音の中。
背中を向けたホームには、ゴミ箱へと放ったジュースの缶の落ちる音が一際高く虚しさを宿して反響していた。




